長い夜が明けた。
 実際の討ち入りは一刻くらいの時間で終わったが、ひどく長い夜だった。

 池田屋にいた尊皇攘夷過激派の浪士は、二十数名。新選組は七名の浪士を討ち取り、四名の浪士に手傷を負わせた。
 後に会津藩や京都所司代の協力のもと最終的には二十三名の捕縛に成功し、彼らの逃亡を助けようとした池田屋の主も改めて捕縛されることとなった。

 これが後に言う、池田屋事件である。

 数に勝る相手の懐へ突入したことで、彼ら新選組の名はまた広く知らしめられるようになった。
 その一方で彼ら新選組の被害も浅いものでは済まされなかった。
 裏庭で戦った奥沢という隊士の一人が戦死した。
 他にも安藤・新田という二名の隊士が命に関わるような怪我を負い、彼らは一週間の後命を引き取った。
 そして、幹部連中も傷を負った。
 永倉は左腕を斬られていた。
 藤堂は額を割られていた。
 沖田は胸を、肺をやられる一撃を食らった。

 血まみれで運ばれていく仲間達を見て、彼女は――



 しめやかに死者を弔った後、土方は先ほどから見えないその姿を探す為に辺りを見回した。
 怪我人の治療や、逃げた浪士の捕縛。討ち入りが終わった途端に忙しくなり、皆慌ただしく駆けずり回っている。
「おい、斎藤」
 その中で彼を見付けて声を掛けた。
 彼も事後処理に追われているようだ。
を見なかったか?」
「いえ。副長と一緒なのでは?」
 問われて斎藤は怪訝な表情を浮かべてしまった。
 こういうとき、はいつも土方の傍にいる。
 大きな事件の後は必ず後始末に走り回らなければいけない。彼女程小回りの利く人間もいない。だからあっちへこっちへと伝令を頼む事が多いので、彼女は土方の傍にいる事が当たり前だった。
 でも、その彼女の姿が見当たらない。
「どこにも見あたらねえんだ」
 池田屋から戻ってきたのは明け方だっただろうか。それからばたばたと走り回り、気付いた頃には夜になり、いつの間にかの姿が見えなくなっていた。
 時々、ふらりと行方をくらます事がある。元より気まぐれな性格の持ち主だ。息抜きなのか、それが彼女の性分なのかは分からない。彼女は何も教えてくれないから。だが、ぷいと消えても半刻もしない内に戻ってきた。いつの間にか戻って、隣を歩いている。それが今日は違う。いつまで経っても戻ってこないどころか、どこにいるのかも分からない始末。
 がりがりと首の後ろを掻いて低く呻く土方に、斎藤は眉間に皺を寄せた。
「すぐに見付けてきます」
「いや、いい」
 それこそ今すぐ首根っこをとっ捕まえて連行しかねない彼を苦笑で制する。
 別に急ぎの用事があったわけではないのだ。ただ、気になっただけ。
「もし見かけたら、副長が捜していたと伝えておきます」
「おう。頼む」
 あまり引き留めて彼の仕事の邪魔をしても悪い。それじゃあと短く言って背を向けると、その背に斎藤がもしやと声を掛けてきた。
「総司の所では?」
 土方の所にいないのならば、彼の所ではないかと言う。
 昔から二人は仲が良かった。どこに行くにも一緒で、今だって二人で連んでは悪戯ばかりしている。小さい頃から兄妹のように育ってきたからか、の事は沖田が一番よく知っているし、沖田の事はが一番よく知っている。それ程二人の仲は特別だ。
 ならばきっと、彼女は心配で仕方がないと思うのだ。
 彼が、沖田が、怪我を負ったと聞いたら居ても立ってもいられないのではないかと。
「そう、だよなぁ」
 やはり彼の所だよなと、土方は呟く。
 戻ってすぐに様子を見に行ったが、あの時はいなかった。だけど入れ違いだっただけで今はそこにいるかもしれない。
 それに丁度、千鶴の様子も見ておかなければならないと思ったところだ。
「ついでに総司の様子も見てくる」
 ついでと、笑って言う彼に思わず斎藤は目元を綻ばせてしまう。
 素直ではないな、と彼は心の中で呟くのだった。


「俺だ」
 沖田の部屋の外から、静かに声を掛ける。
 中には人の気配がした。恐らく、彼女だ。
「はい」
 控えめな返事は千鶴のもの。
 入るぞと短く告げてふすまを開ければ、布団の上に沖田が寝かされていた。
 その傍らに千鶴は座っている。
「……総司は?」
「眠っています」
 千鶴はほんの少し、目元を緩めて笑った。
 見れば、なるほど、ここに運び込まれた時よりも顔色は随分といいようだ。
 医術の心得がある千鶴がずっとついてくれているからなのだろう。
 思わず、ほ、と安堵の溜息を漏らす。
 それからちらりと、さりげなく室内を見回した。
 灯された弱い灯りがさほど大きくもない室内を隅までぼんやりと照らしている。その中に、の姿はなかった。
「ここにも、いねえか」
「え?」
「いやなんでもねえ」
 土方は頭を振り、念のため確認してみた。
は、ここに顔を出したか?」
「いえ、お見えになってませんが」
 不思議そうな顔で頭を振る彼女に、そうか、と土方はもう一つ呟いた。
 ここではないとすると一体どこへ。
「あの、さんがどうかされたんですか?」
 難しい顔で黙り込んでしまう彼を見て、千鶴はまさかにまで何かあったのだろうかと不安になった。昨夜はの姿を見なかったけれど、新選組の一員、しかも幹部なら彼らと共に出陣したに違いないのだ。
 脳裏に池田屋での光景が浮かぶ。鮮やかな赤が網膜に焼き付いたみたいに離れない。血だまりの中怪我をし、或いは絶命している人々の姿が離れてくれない。もしかしたらも……そう思うと千鶴は不安で堪らなかった。
 青ざめる彼女の様子に気付き、土方静かに頭を振った。
「別にあいつはどこも怪我なんぞしてねえよ」
「そう、ですか」
 強張っていた千鶴の表情が、緩む。心底安心したような顔になる彼女に、土方は苦笑を浮かべた。
 自分を軟禁している新選組の事を、どうしてそこまで心配できるのやら……
 は彼女を優しいと言っていたが、これは優しいのではない。甘い、のである。
「そんじゃあ、俺はもう行く」
 苦笑を収めると、邪魔をしたなと言って背を向けた。
 出て行く前にちらりと青白い顔を振り返り、
「おまえも、少し休めよ」
 と言えば、千鶴は緩やかに目元を綻ばせて笑った。
 自分だって甘いじゃないかと、小うるさい助勤の声が聞こえた気がした。


 再び廊下に戻ると、土方は思案顔で歩き出した。
 は沖田の所にいなかった。
 他の幹部の手伝いをしているわけでもなさそうだ。
 ならば一体何処にいる?
 彼女は何処へ行った?
 もしや、と足が一度止まる。難しい顔のままそちらを見たが、いやいやそんなはずはないかと再び歩き出した。
 近藤の所にいるわけがない。今日は彼も疲れている。
 それじゃあ、一体――
「………」
 不意に過ぎったのは懐かしい記憶の断片。
 寒く、暗い夜の記憶。
「まさかな」
 思い出して、土方は自重じみた笑みを浮かべた。
 そんなはずがない。
 あの時と今は、もう違うのだ。
 はもう子供で無い。立派な大人なのだ。
 だからもうあんな事があるわけがないのだ。
 そう思うくせに、気付けば彼の足取りは急ぐようなものとなっていた。
 些か早足になりながら廊下を曲がり、更に奥へと進み、その場所を目指す。

 そうして、

 ふわり、ふわりと。
 夜風に揺れる、柔らかな飴色を見つけた。
 美しい金の糸を思わせるそれは――彼女の髪。

 そこに、彼女はいた。
 廊下に腰を下ろして庭を眺めていた。
 その横顔はいつもと違って覇気が無い。心ここにあらずというように虚ろげだ。
 一瞬呼びかけて、別人だっただろうかと不安になってしまうほど、彼女はらしくない表情をしてそこに佇んでいた。
「あ、土方さん」
 しかし呼びかけに気付くと、途端その瞳には色が戻った。
 そしていつもの彼女らしくへらへらと締まりの無い表情を浮かべるのだ。
 それがなんともらしくなくて……思わず男の眉間に深い皺が刻まれる。
「ったく、探したぞ。突然いなくなりやがって」
「あはは。すいません」
 まるで謝意を感じさせない謝罪を口にして、は腰を上げた。
「やることいっぱいありましたよね?」
「当たり前だろうが。他の連中は今頃かけずり回ってる」
「ですよねー。皆には悪い事をしちゃったな」
「ああ、斎藤の奴には小言の一つでも言われると思っとけ」
「……はーい」
「で?」
 ひょいと肩を竦める彼女に、土方は短く問い掛けた。
 で、と言われては不思議そうな顔をしている。
 それだけで察しろというのは無理があった。
「ここで、何をしている?」
 何をしているのか、問い掛けるだけ愚問だ。
 だってそこにいる意味はただ一つだから。
「俺に、用か?」
 人の部屋の前にいたのだ。
 用があってそこにいたに決まっている。
「……そ、れは」
 問いには言葉に詰まったみたいな顔になり、やがて瞳を伏せた。
 彼女は困惑しているようだった。どうすればいいのか分からずに、困っているのだ。
 その表情を、一度だけ。昔に見たことがあった。
 先程脳裏に過ぎった記憶の断片が一気に蘇り、土方はつい懐かしいなんて笑ってしまった。
 そして、静かにふすまを開けた。
「入れ」
 あの時と同じ。
 短い言葉には驚きの表情を浮かべ、それから躊躇うような素振りを見せる。それも昔と一緒。
「入れ」
 もう一度短く促す。今度は命じるように。
 そうすればはおずおずといった風に、部屋の中に入ってきた。

 灯りを入れると薄暗い部屋の中はぼんやりと明るくなった。
 いつもの場所に腰を下ろしたは無言でその揺れる灯りを見つめている。
 今日は待っても、が口を開くことは無かった。
「総司のとこにいかねえのか?」
 だから今日は土方の方から会話を切り出してやる。
 は困ったような顔で笑い、緩く頭を振った。
「あいつ、眠ってるし……行ってもつまんないから」
 ひどく頼りない声をは零した。
 それは多分、彼女がそれほどに落ち込んでいるという事。
 それもそのはず。にとって沖田は誰よりも認めた相手なのだ。
 何度も手を合わせたから分かっている。彼は強い。誰よりも強いと分かっている。だから何があっても絶対に彼が負けることなどないと、信じていた。
 信頼していた。
 彼と、近藤の敵を一掃できると。彼らの行く手を阻む者を、沖田とならば斬り捨てる事が出来る。そうして道を切り開くことが出来る。
 それが、あっさりと打ち破られた。
 運ばれていく沖田の青白い顔を見て、は思った。
 死ぬかも知れないと。
 いつかは死ぬとは分かっている。人を斬って生きてきた自分たちは、いつか同じように斬られることになると。それが自分たちの生き方で、死に方だ。分かってはいたけど、は信じていた。彼は死なない。死ぬはずが無い。
 初めて覚えた感覚だった。
 不安なんて。
 そう、不安だった。不安で不安で堪らなくて。
 でも、沖田の所へは行けなかった。
 彼は生きている。死んでなんかいない。でも、あの青白い顔を見たって安心なんて出来るわけが無い。更に不安は募るだけだ。
 仲間の所にも行けなかった。
 きっといつもと違う自分に気付いて、心配を掛ける。
 それに考えてしまうのだ。沖田のあの様子を見てしまったから。
 他の仲間達も、いつか彼のようにやられてしまうのではないかと。
 そう思ったら何処にも行けなかった。
 だから彼女は一人で彷徨った。
 彷徨って、彷徨って……ここにたどり着いたのだろう。
 そう、土方の元に。
「今まで、何処にいた?」
 静かな声で男が問うてくる。は緩く頭を振った。
「分かんない……です」
 どこをどう彷徨ったのかは、自分でも分からない。
 ただ当てもなく歩き回った。目的などなかった。
 人のいない場所を探して歩き回っていた。
 そう、多分、
「ひとりになりたかった」
 一人になって、気持ちを落ち着けたかった。
 ぐるぐると自分の中で回っている不安を。考えたってどうしようもない不安を、ぬぐい去りたかった。
「でも、なんかうまくいかなかった」
 うまくいかなくて、どうしたらいいのか分からなくて、ここに来てしまった。
 そう零した瞳が、微かに揺れる。
 琥珀色の瞳の奥にはあの時見たのと同じ、
 怯えと、戸惑いの色が浮かんでいた。

 あの時。
 どれくらい昔の事だっただろう?
 そう、あれはまだが幼かった頃のことだ。彼らの元にやって来て、そう経たない頃のこと。
 まだ彼女が皆と打ち解けていなかった頃だった。
 その日は、寒い冬の夜だった。
 一人土方が布団に入って指南書を読んでいたら、不意にふすまが開く音がした。
 近藤かと思って見れば、そこに立っていたのは小さな影。だった。
「……なんだ?」
 ぶっきらぼうな問い掛けに、は答えない。
 あの時の彼女は記憶と共に言葉も失っていた。
 頷いたり首を振ったりと意思表示はするものの、進んで自分から何かを言うことはなかった。
 だから問い掛けても答えず、ただじっとふすまの前に立ってこちらを見ていた。
「何の用だ?」
 あの頃は今よりもずっと気が短い若造だった。だからつい苛立ってしまってきつい口調になってしまった。
 それに元々子供は好きでは無い。すぐ泣くし、騒ぐし、喧しいったらありゃしない。顔を見るなり泣かれたんじゃあ、好きになる事なんてできっこないじゃないか。
 しかし少女は泣かない。が、反応も無い。
 ち、と舌打ちを洩らし、身体を起こした。
 用が無いのならばふすまを締めてとっとと部屋に戻れ。
 そう口を開こうとしたところで、彼は気付いた。
「……」
 こちらをじっと見つめる少女の瞳が、普段は表情を持たない瞳が、僅かに怯えと戸惑いの色を浮かべていた。
 ガラス玉のような瞳を不安げに揺らし、縋るような眼差しをこちらに向けていたのだ。
 でも、それを彼女はどう訴えるべきか分からないのだろう。だから、立ち尽くしている。
 その目を見て、土方は何故自分のところなのだと思った。
 助けを求めるなら近藤の所に行けば良いじゃないか。いつだって何かがあるとすぐに彼の元にすっ飛んでいくくせに。
 もしくは、沖田の所に行けば良い。二人が仲良さそうに遊んでいるのを何度も見たことがある。
 だけど、土方はほとんどと接した覚えが無い。
 話はもちろん、顔を合わせることも多くは無い。恐らく彼女自身が避けているのだろう。滅多な事が無い限り近付いてくる事さえなかった。
 それなのに、何故?
 土方は不思議でならなかった。
 不思議でならなかったけれど、

 ――す、

 気が付いたら、土方は己の布団を手で広げていた。
「……?」
 がそんな自分の様子を見て不思議そうな顔をしている。
「来い」
「っ!?」
 ぶっきらぼうな言葉に、彼女の目が大きく見開かれた。
 彼女の驚きの表情、というのは初めて見た。
 まあ、自分でも驚くくらいなのだからが驚くのも無理はないだろう。
「早く入れ」
「……」
 驚きから、今度は戸惑いの表情。
 おろおろとした様子に堪えきれずに笑ってしまった。
 笑い出すと更には目を白黒とさせる。
 今日は随分といろいろな表情を見せてくれるものだ。
 恐らく一番懐いていないだろう、自分に。
 土方は笑いを収めると、来いと今度は手招きをした。
「寒いだろうが」
 彼女のお陰で折角ぬくもった身体が冷えてしまったじゃないか。
 そう告げる声は、自分でも驚くほどに優しい音をしていた。
 やがて、はふすまを閉めてとぼとぼとこちらへと近付いてくる。
 布団の真横でぴたりと立ち止まった。来いと言われたから来たけれど、それからどうすれば良いのか分からない。
「ほら」
 促すように布団を叩く。
 彼女は首を捻るだけで、なかなか入ろうとはしない。
「早くしろ」
 焦れったくなって、その細い腕を掴むと強引に引き込んだ。
 小さな身体はぽす、と布団の中に転がった。
 瞬間、ふわりとお日様のにおいがした。
「なんだ? 怖い夢でも見たのか?」
 上から布団を掛けてやりながら問い掛ける。
 は一瞬躊躇うような素振りをして、やがてこくりと一つ頷いた。
 そんな彼女に、やはり子供だなと彼は内心で笑った。笑ってからそれが当然なのだと気付いた。
 は、子供だ。まだ子供なのだ。
 喜びも、悲しみも、怒りも、感情の一つも見せないから。まるで人形のようにそこにあるだけだったから忘れそうになっていたけれど、彼女は――いや、彼女も、感情のある人間。本来であればもっと素直に感情を見せる子供なのだ。
「そんなもん、夢だ」
 だから恐怖だって覚える。
 夢なんてものを本当のもののように恐れる。
「そんなもん忘れろ。本当になったりはしねえよ」
 どんな夢を見たのかは知らない。だけど、所詮夢なのだ。現のものではない。
 そうきっぱりと言い切ってやれば、さっさと寝ろとでも言うように布団の上からとんとんと身体を叩かれる。
 土方も子供の頃に親代わりの姉にそうやって寝かしつけられていた。子供はそうやれば寝るらしい。
 しかし、少女はそれでも安心しないのか無言でじっとこちらを見ている。
「……」
 参った。これ以上何を言ってやれば良いのか分からない。
 む、と思わず眉間に皺を寄せる。別に不機嫌になったわけでは無い。が、知らず不機嫌な表情になってしまった。だから子供が逃げるのだとこの時の彼は知らない。そんな怖い顔になったら子供が泣き出すのは当然だ。
「……」
 その少女は泣き出さない代わりに、すっと視線を落としてしまう。
 なんだと見れば彼女はひどく申し訳なさそうな表情を浮かべていた。彼女に言葉があればきっとこう口にしていただろう。「ごめんなさい」と。
 何故謝られるのか分からない。彼女は何も悪い事などをしていなくて、土方だって怒っているわけでは無くて。
 あ、そうか。
 男は気付いた。
 この少女は子供だけど、子供らしくもなく周りに気を遣うところがあるのだと。彼が怖い顔をしているのが、自分のせいだとでも思っているのだろうと。
「ガキのくせに」
 土方は忌々しげに吐き捨てた。
 こんな子供に気を遣わせてしまう自分が、酷く情けない気がしたのだ。
「一丁前に気なんか遣ってんじゃねえよ」
 なんだか面白くないので、ますます萎縮してしまう少女の頭をぐしゃぐしゃとかき回してやった。
「いいか。そんなもんはただの夢だ。でもっててめえは下らねえこと気にしねえでとっとと寝ろ」
「……」
「分かったな?」
 言い聞かせる、というよりはまるで脅すように。男はぎろっと子供の目を真っ直ぐに見て告げる。異論は認めない。
 は目をまん丸くしたまま、こくこく、と二度ほど頷いた。
 男は満足げによし、と呟くとようやくその手を止めてくれる。
 そして今度は代わりに、乱れた髪を整えるように撫でつけてくれた。
 驚くほどに優しく。
 その大きくて、暖かい手で。
 それが、あんまり優しいから。暖かかったから。
 は安心してしまったのだ。
 よりにもよって、この一番怖い男の手で。


 そ――
 と前触れも無く、大きな手がの頭に触れた。
「……え?」
 思わずは声を洩らして、顔を上げる。
 しかしそんなのお構いなしに、男の手は頭を撫でた。
 あの時よりもずっと大きくなった、彼女の頭を。
 は大きくなった。
 言葉も喋るようになった。
 強くもなった。
 もう、子供では無い。
 でも……あの時と何も変わっていない。
 土方は思う。
 相変わらず不器用なまま。
 自分の感情一つ、素直に吐き出す事が出来ない。
 不安で堪らないのに。
 怖くて仕方ないのに。
 哀しくて、誰かに縋り付きたいのに。
 彼女は感情を曝けだすことも出来ない。
 自分の感情なのに。
 なんて不器用な人間だろうかと土方は思う。
 もう立派な大人なのだから、自分の事くらい自分で出来るだろうにと。
「おまえは、手の掛かる奴だよ」
 そんな台詞を、彼らしくも無い優しい声で言うから。
 大きな無骨な手が、とても優しくて暖かいから。
 あの時と同じで。
 それがとっても、安心できるから。

 は自然と、笑ってしまった。
 ひどくあどけない、子供みたいな顔で、彼女は笑った。

 それだけだった。
 彼女は何も言わない。
 自分が抱えている不安を、曝そうとはしない。
 甘えたり、縋り付いたりなんてしない。
 でも、
 それでも、
 土方は思う。
 がほんの少しだけでも、その身体を、心を、休める場所はあるのだと。
 苦しみや不安を、ほんの少しだけでも軽く出来る場所はあるのだと。

 それが他の誰でも無く自分の傍なのだと知って――少し、くすぐったいと思う。



 
前 頁