6
「きゃあ!!」
この中に入れば危険だと分かっていた。
だがまさか飛び込んだ瞬間に、浪士に斬り掛かられるとは思わずに悲鳴が上がってしまう。
折角奮い起こした勇気がその瞬間に萎み、立ち尽くしてしまいそうになる。
殺される。血走った浪士の目を見て思った。
しかし、その一撃が千鶴に浴びせられるより前に、
ざん!
近藤の力強い一撃が彼を斬り伏せた。
斬りつけられた男は短い断末魔の声を上げるとばたりと倒れ込んで、それっきり動かなくなる。
男の身体の下から赤い血が見る間に溢れてきた。
「雪村君、君が来たのか」
呆けていると険しい表情の近藤に声を掛けられた。その彼の姿を見てぎょっとする。彼の羽織は血で真っ赤に染まっていたのだ。
「近藤さん、血が……」
「ああ、これは返り血だ。俺のではない。そんな事より、外にいる隊士を呼んできてくれないか」
ぐいと顔に飛んだ血と汗とを拭いながら近藤は険しい表情になる。その横顔には疲れと焦りの色が濃く出ていた。
「実は、他に誰もいらっしゃらなくて」
申し訳なさそうに俯いてしまう千鶴にそうかと今更のように思い出した。
ここへ来たのはたったの十人ぽっちだったのだ。手の空いている隊士などいるはずがない。皆、それぞれが必死に戦っているのだ。
「そうか」
近藤は難しい顔で一つ呟き、それからすぐに顔を上げた。
「すまんが、二階を見てきてくれないか?」
「えっ……」
彼の言葉に一瞬、表情が強張ってしまう。
先程斬り掛かられそうになったばかりなのだ。仕方のない事である。
それは分かっているが、人手が足りない今彼女に手伝ってもらうしかない。
「総司と平助が、二階に上がったまま戻ってこないんだ」
「沖田さんと平助君が!?」
一つ静かに近藤は頷く。
「浪士が二人、上にいるらしい。総司に限って負けはせんだろうが、傷を負うかもしれん」
「っ!!」
「雪村君っ!?」
まるで弾かれたみたいに、千鶴の身体は勝手に走り出していた。
人が倒れて、事切れている階段を一気に駆け上がった。怖いとは不思議と思わなかった。
だって、彼らが傷を負ってしまうと思えばそんな事どうでもいい事のように思えたのだ。
階段を一気に駆け上がると千鶴はどちらを捜そうかと一瞬だけ迷う。
が、すぐに思い浮かんだのは一人の名前だった。
「沖田さん!!」
彼の名を呼びながら廊下を走った。
昼間、沖田には迷惑を掛けた。自分の不注意のせいで大騒動となり、山南にも叱られる事となったのだ。
でも、彼は一言も責めなかった。
一言だって千鶴が悪いとは言わなかったのだ。
そればかりか、見捨てずに助けてくれたのだ。
せめてその恩を返したい。自分に何が出来るのかと聞かれれば大層な事は出来ないだろうと分かっている。
それでもなにか、役に立ちたいと。
廊下の奥に、ただ一つ、
無傷なまま残っているふすまがあった。
薄くそのふすまが開かれている。人が一人入れるくらいの間隔だろうか。
何故かそこだと千鶴は直感した。
躊躇わず、千鶴はそのふすまの隙間から飛び込んだ。
その先に、居たのは――
「!」
沖田と、独特な空気を纏う男が一人。
異様な威圧感と存在感を持った男である。彼が、他の浪士たちとはまるで違うというのは千鶴にも分かった。
ざわりと肌がざわつくのだ。彼の強さに、本能が恐れていた。
男はちらりともこちらに視線を寄越さず、沖田と斬り結んでいる。それはそれは壮絶な戦い。
千鶴には早すぎて何がなんだかわからない。きんっと刃がかち合う音がしたかと思えば離れて、また銀色の軌跡だけを残して刃が振るわれ、ぶつかって、離れて。
素早い沖田の剣さばきにはいつも見惚れる。でも、今日は違った。
彼は押されていたのだ。
「ぐっ!!」
ぎんっと浪士の刀がふり下ろされる。
それを受けた沖田がぎりっと奥歯を噛みしめるのが分かった。
がちがちと噛み合った刃が嫌な音を立てている。受け止めようとしている沖田の手は力を入れすぎるあまりに震えていた。一方の浪士は笑みさえ浮かべている。
「く、そっ!!」
忌々しげに声を上げ、沖田は浪士の刃を弾くと距離を取った。
大きく後ろに飛べばまた追いかけてきた一撃が振り下ろされ、沖田の脳天をかち割る寸前に再び刃が受け止めた。
その彼の足が、畳に僅かに沈む。
浪士の一撃一撃が、ひどく重たかった。
「くっ!!」
「受け止められた事は褒めてやろう」
男は低く艶のある声で、だがとつまらなさそうに呟いた。
瞬間、沖田の身体が後ろへと吹っ飛んだ。
「っが!?」
そのまま壁に思い切り叩き付けられて、ずるずると畳の上に倒れ込む。
「沖田さんっ!?」
浪士の蹴りが、沖田の胸部に炸裂したのである。
一瞬何が起こったのか理解出来なかったのは沖田も同じであった。
ただ胸を思い切り強い力で叩かれ、息が止まった。それから何かが胸の奥からせり上がってきて、
「うぐっ」
堪らず吐き出した。
びしゃりと、音を立てて畳の上に広がったのは赤い鮮やかな血。
げほげほと彼が咳き込むたびにその血が畳を赤く染め上げていく。
「どうやら、肺までやられたようだな」
事も無げに言った浪士は、右手の刃を緩やかに持ち上げる。
苦痛を一時でも短くしようというのが男の情けなのか。持ち上げられた刃は違うことなく沖田の首を狙っていた。
ひゅうひゅうと嫌な音を立て、沖田は血を吐きながらも刃を振り上げる相手を睨め付けている。少しも怯えた様子もない。命乞いをするでもない。まだ負けていないのだとその翡翠は強い色を湛えて男に向けられている。
だが、男が刃を下ろせば沖田は死ぬ。
あの男に殺されてしまう。
「やめてぇええ!!」
絶叫にも似た声が口から飛び出していた。
もう何を思うよりも前に、身体が勝手に飛び出していた。
飛び出したところで何が出来るわけでもない。自分も斬られておしまいだ。それが分かったのは駆けだした後だった。でも不思議と恐怖はない。ただ彼を死なせたくないという一心だった。
「おまえも、邪魔立てする気か」
ぴたりと、振り下ろされた刃は千鶴の目の前で止まっていた。
それを凝視したまま、千鶴は凍り付いていた。ひやりと冷や汗がこぼれ落ちたのが分かった。
「俺の相手をするというのなら、受けて立ってやろう」
冷たい声で浪士は言う。それよりもずっと冷たい切っ先を突きつけたまま。
怖かった。
死ぬのはとても怖かった。
多分、自分が思っているよりも人は簡単に死ぬ。
浪士がほんの少しでも切っ先に力を入れれば、千鶴などひとたまりもない。
分かっていた。相手になどならないこと。
でもそれでも千鶴には退くことなど出来ない。
がたがたと震える足に力を入れ、千鶴は立ち上がる。迫る切っ先など跳ね返すみたいに睨み付けて。
泣き出してしまいそうに怖かった。逃げ出したいほどに恐ろしかった。
でも彼女はその両手を広げ、沖田の前に立ってみせた。
「殺させ、ない」
遠慮のない殺意を向けられて、震える声で紡いだ。
「沖田さんは殺させません」
「ほぅ」
と浪士は楽しげに笑い、ついとその瞳が細められた。
涙を浮かべながら決して逸らさずに自分を睨み付ける少女の瞳を見て、感じたのだ。
その瞳の奥にある、彼らと同じものを。
「貴様」
まさかと浪士が何か呟くのを、沖田は聞いた気がした。何がまさかなのか、そんなことは彼にはどうだって良かった。
それよりもただ目の前に立ち塞がる小さな背中を、彼はじっと見つめていた。
彼女が敵う相手ではない。
彼女が盾になったところで、何の役にも立たない。
一太刀で斬り捨てられておしまいだ。彼女が無駄に死ぬだけ。
かたかたと小さな身体は震えている。恐ろしいのだろう。
ならば逃げればいい。自分など放っておいて逃げればいい。この混乱に乗じて逃げ出せば、新選組から解放されるじゃないか。
それなのに何故彼女は逃げない?
決して勝つ事の出来ない相手に立ち向かおうとする?
『私は、逃げません』
凛とした少女の声が蘇った。
逃げたりしないと、自分を見てきっぱりと言い切った彼女の声と、眼差しが。
ああ、そうだった。
沖田は思いだした。
彼女は逃げない。
どんな事があっても、逃げる事はない。
だってそう、彼女は約束したのだ。
「ばか、だなぁ」
くつりと喉を震わせた。血の味がする。嫌な味だった。
立ち上がった瞬間に身体を強烈な痛みと吐き気が襲う。だが、沖田は構わなかった。
「沖田さん!」
血で濡れた手で彼女の腕を掴み、引き寄せる。
彼女の春らしい桃色の着物が赤で汚れた。そんな事も気にせずに力任せに引っ張り、後ろに追いやった。
そうして出てくるなと言うみたいに手で制し、浪士に刃を向ける。
「あんたの相手は僕だよね?」
しっかりと切っ先を、鋭い目を敵へと向けて、沖田はくつくつと笑った。
「この子には……手を出さないでくれるかな」
「沖田さん! 駄目です!」
立ち上がらないでくださいと千鶴は彼の羽織を掴んで言う。
泣きそうな声だった。
その声がひどく、耳障りだった。
だからつい、うるさいななんて呻くように呟いてしまったのだ。
「愚かな。その負傷で何を言う。今の貴様なぞ、盾の役にも立つまい」
「うるさいな!!」
その声にせせら笑う浪士の声が重なり、沖田は激昂する。
男の赤い瞳が、哀れむように自分を見ていた。それがひどく癪に障るのだ。
「僕は、役立たずなんかじゃないっ!!」
「大きな声を出しちゃ駄目です! 沖田さんは血を吐いたばかりなのにっ」
「僕はまだ、戦える!!」
広い背中が、千鶴の邪魔をした。
いや、彼女を守ろうとしていた。
それがひどく悔しかった。彼を死なせたくないと思ったのに。助けたいと思ったのに。
自分が出来るのは守られる事しかない。この背中を見つめることしかできない。
そんな非力な自分がひどく悔しくて、涙が込み上げてきた。
悔しくて堪らなくて、拳を握りしめた。そうすれば掴んでいた彼の浅葱色の羽織を強く引っ張る事となる。これでは彼の邪魔になると分かっていても、千鶴は離す事が出来なかった。
そんな彼らを浪士はじっと睨み付けていた、かと思うと、
「……」
突然、彼は刃を退いた。
すと鞘に刃を収めると、興味を無くしたような顔で沖田を一瞥する。
「どういう、つもり?」
「会合が終わると共に、俺の務めも終わっている」
つまらなさそうな口調で返答し、男はもう興味もないと言いたげに背を向けた。
そして壊れかけた窓に足を掛けたかと思うと、次の瞬間風だけを残して、
「きえ、た?」
そう、消えた。
男はもうどこにもいなかった。
瞬間、沖田の張り詰めていた糸が切れたのだろう。
「うっ」
苦しげな声を漏らしてどさりとその場に膝を着いた。
「沖田さん!」
そのまま畳に倒れ込んでしまいそうな身体を支えれば、いつもよりもずっと弱々しい声で彼は呟いた。
「僕は、僕はまだ戦えるのに……!」
まるで自分にでも言い聞かせるみたいに、戦えると彼は何度も呟く。そんなにぼろぼろな身体をしているくせに。まだ戦えるんだと。
これ以上戦ったら彼は本当に死んでしまうのに。それでも千鶴に彼を止める事は出来ない。そして何の手助けになる事も。
千鶴は泣きそうになりながら、彼の身体を横たえさせた。もうこれ以上は動くなというみたいに。
今度はもう起きあがったりはしなかった。
彼は横になったまま、ぼんやりとした眼差しをこちらに向けてくる。その顔が苦笑に歪んだ。
何故笑われたのか分からず、千鶴は首を捻る。
「斬り損ねちゃったね」
「え?」
「邪魔になったら、殺すって言ったのに」
斬り損ねたと彼は笑ったのだ。
何故こんな時にそんな事を言うのだろう。千鶴は腹が立って仕方がなかった。それがあんまりにいつもの彼らしいから余計にだ。そんな今にも死んでしまいそうな青白い顔をしているくせに。
「……なんで、助けちゃったんだろうね」
彼は虚空を見つめながら独り言のように呟いた。
何故、自分は彼女を庇ってしまったのだろう。
千鶴なんて、いてもいなくてもどうだっていい存在なのに。
ここにいても足手まといなだけなのに。
あの男に殺された方が、楽なはずなのに。
でも、と彼は思ってしまったのだ。
「……沖田さん?」
もう一度視線を向ければ、こちらをじっと心配そうに見ている彼女の視線とぶつかる。
その大きな瞳はいつもと同じ。真っ直ぐにこちらを見ている。
自分の言葉で怯えたり、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、ころころと感情を変えて見せてくれる素直な瞳。
もし彼に斬られたらその瞳がもう見られないと思ったら、
「勿体ないなぁって」
そう思ってしまった。
それだけだ――
静かな通りに、土方とは立っていた。
今同じ京の一角で、殺し合いが繰り広げられている。
そんな風には思えないくらい、通りは穏やかなものであった。
彼らがやって来るまでは。
「副長」
まるでこの通りは自分のものだとでも言うみたいに、道のど真ん中に仁王立ちで立っている男に声が掛かった。
「山崎か」
「会津、所司代の方が動き出しました」
「漸くお出ましか」
静かな言葉についと男の双眸が細められる。口元には笑みが浮かんだが、まるでその目は笑っていない。ぎらついた目を通りに向けている。
「池田屋の方は?」
「現在も建物の中で応戦中、との事です」
どうやら山崎はと別れた後、池田屋の方に走ったらしい。彼女ならば必ず任務を遂行すると見越しての事だろう。
「随分と時間が掛かってるじゃねえか。何か問題でもあったのか?」
「なんでも、相当の手練れがいたそうで」
「手練れ……ねぇ」
の声が低くなった。
横目で見ると彼女は面白くなさそうに目を細めている。
「やっぱり、あっちに向かった方が良かったんじゃねえか?」
「今更言ってもしょうがないでしょ」
土方の言葉には唇を尖らせた。
今から走ってもどうせ終わってるに違いない。原田や斎藤らも駆けつけたに違いないのだから。
それに、
「池田屋には総司がいます」
はきっぱりと言い切った。
彼がいればどんな腕の立つ剣士だってひとたまりもない。だって彼は天才的な剣術の腕前の持ち主なのだから。
そう素直に彼女が褒めるものだから少し面白くない。
「なんだよ、他の連中はあいつよりも弱いってのか?」
「違います。ってかなんでそんな不機嫌そうに言うんですか」
「別に不機嫌じゃねえ」
「顔が怖いです」
「生まれつきだ」
ふんと面白くなさそうな顔でそっぽを向かれてしまう。はやれやれと溜息を零した。
無論、他の仲間の事も信頼している。近藤だって局長に相応しい腕前だし、斎藤は居合いの達人だし、原田も相当な槍の使い手だ。普段はふざけてばかりいるが永倉だって藤堂だって、かなり強い。そして……今横に立っている土方もそう。
「でもさ、私総司が負ける姿とか全然思いつかないんだもん」
何があっても、どんな事があっても、あの男ならば相手を斬り捨てて切り抜けてきそうなのだ。
どんな強敵相手でもいつもみたいにヘラヘラ笑って「斬っちゃった」とあっけらかんと言いそうなのだ。
「多分あいつ、化け物かなんかなんだと思いますよ」
「……おまえそれ、褒めてねえだろ」
「思いません? あいつが手こずる相手なんて鬼とかそういう、化け物の類しかいないんじゃないかって」
「まあ、そんじょそこらの連中に負けるとは思わねえが」
「因みに化け物には土方さんも含まれてます」
「てめえ。喧嘩売ってんのか?」
繰り広げられる緊張感のないやりとりに、山崎は背後で一つ溜息を零した。
何故この状況でそんな言い合いが出来るのか、彼には分からない。
しかしだ。緊張感のない会話を続けているというのに、この二人には隙が見当たらないのが不思議でならなかった。
どう見たってふざけているようにしか見えないのに、ここにもし敵が現れようものなら、次の瞬間には彼らのどちらかによって首を刎ねられているのだろう。
軽口を叩きながらも二人の気は辺りへと張り巡らされている。糸のようにぴんと。どこから何が来ても察知出来るように。そしていつでもその刃を抜けるように。
やはり彼らは相当の腕の持ち主だ。
さすがは副長と、その補佐といったところだろう。
目前でやりとりされているのがどれほどに馬鹿馬鹿しい会話だとしても。
やがて、その張り巡らせた糸に獲物が掛かった。
「おいでなすった」
ざ。
ざ。
と仰々しく聞こえはじめた音に、土方は双眸を緩やかに細める。
涼やかな瞳の奥に怒りにも似たものがちらつくのを見て、は口を閉ざすと彼と同じ方へと視線を向けた。
通りの向こうに見えるのは、百を越えるかに思える行列だ。
横いっぱいに並んだ彼らは文字通り、この広い通りを占領している。
もったいぶったような、悠々とした足取りで行軍している。
「随分とのんびりした歩みですね。花見にでも行くつもりなんでしょうか?」
揶揄するような声では告げた。
土方はそれに取り合わず、ただ短くこうとだけ口にする。
「手を出すなよ」
「勿論」
は一歩下がった。
許可があるのなら前線に立つ役人共など一瞬にして斬り殺してみせる。唯の一人も残さずに皆殺しにしてみせる。
しかしここから先はの領分ではない。この先は土方の、彼の仕事。
まるで将軍気取りの仰々しい一行。その真ん前に、土方はただ一人で踏み出した。
じゃり、と彼が強く一歩を踏み出したそれだけで、空気ががらりと変わる。
見えない壁にでも阻まれたかのように役人達の足は止まった。
「なんだ貴様は」
行く手を阻まれ、先頭に立つ男は不機嫌そうな声を漏らした。
相手は土方よりもずっとずっと地位のある役人だ。そんな人間の前に立ち塞がればどうなるか……普通ならば斬り捨てられておしまいだろう。でも、彼は違う。
はついと口元が楽しげに歪むのを止められなかった。
「局長以下我ら新選組一同、池田屋にて御用改めの最中である」
堂々とした声が静かな通りに響いていく。
「一切の手出しは無用。――池田屋には立ち入らないでもらおうか」
厳しい口調の宣言に役人達はざわついた。
それもそのはず。ここで立ち止まっては彼らの算段というのが狂ってしまうのだ。
新選組の手柄を我が物にするという算段が。
「し、しかし我々にも務めが、」
一人が反論に声を上げれば、土方が視線だけをそちらへと向ける。
小馬鹿にしたように彼は笑っていた。
「小せえ旅館に何十人も入るわけねえだろ? 池田屋を取り囲むくらいが関の山じゃねえか」
「み、壬生狼風情が我らの邪魔をするつもりか!」
「――壬生狼?」
嘲りの言葉に土方の双眸がすうと冷たく細められた。
男は決して激昂することはなく、しかし静かに怒りを湛えている。氷のような冷たい怒りを湛え、彼らをじろりと睨め付けている。
ひやりと空気が冷えた。そして重たくなった。
「あんたらの為を思って、言ってやってんだぜ」
「っ」
背筋が震える。
誰か背後に立っているのだろうか。背筋を冷たい刃に撫で回されているようで、背筋がぞくぞくとする。だけど彼らは恐ろしくて、振り返る事が出来ない。振り返れば背中から貫かれてしまいそうだった。あの男から目を逸らしたその瞬間に、殺されるのではないかと恐怖した。
「隊服も着てねえあんたらが行ったところで、敵とみなされて斬られるだけだ。我が身が可愛いんなら、ここで大人しくしてることだな」
土方の低い声に、異を唱える者はいなかった。
「土方さんの傍にいると、面白くていいよね」
くすくすとそれを静かに見守っていたが笑って呟く。
不謹慎だと山崎は内心で思った。彼は今、その身体を張って新選組を守ろうとしているのに。それを分かっていて、彼女は面白いと笑うのである。
「面白いから、副長をからかわれるのですか?」
「いやいや、そんなつもりはないよ」
溜息混じりに問えば、彼の為だという答えが返ってくる。
「あの人の鬱憤を少しでも晴らせてあげられればと思って、やってるだけだよ」
「……」
「あ、今嘘だって思ったでしょ?」
「……いえ……」
そうだとは流石に言えず、山崎は頭を振った。
だがその目には隠しもせずに呆れた色が浮かんでいる。は笑った。そしてまた、彼の背中に視線を向けた。
そこにあるのは大きな背中だ。
近藤とはまた違う大きくて、広い背中。
は昔からあの背中を見ていた。
多分近藤よりもずっと、彼の背中を見てきた。
誰より愛する近藤の為にはあの背中を追いかけた。
その広い背中を改めてみると、思うのだ。
「大きな……背中だなぁ」
言葉にするまでもない。
誰もが知っている。彼の背中が大きくて広い背中なんだということは。
そして、近寄りがたい背中だ。
ただの一人で百人の役人を圧倒するほどの気迫を持つ男なのだ。
町人たちに恐れられる荒くれ者たちを、纏め上げる男なのだ。
近寄りがたくて当然。
でも、はあの背中を追いかけるのだ。
あの背中だけを。
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