その日、沖田達が帰って来るなり慌ただしくなった。
 どうやら千鶴という人は相当災難とやらに好かれているらしい。
 初めての巡察に同行した先で運悪く捕り物騒動に巻き込まれ、これまた運悪く沖田とはぐれてしまった所を古高俊太郎に声を掛けられ、ついでに居合わせてしまった長州浪士に新選組の一味だと勘違いされ斬り殺されそうになってしまったのだ。
 無論斬りつけられたりはせず、沖田に助けて貰えた。その流れで古高らを捕縛する事となったのだが、そのせいで山南にはこってりと絞られる事となった。古高を泳がせて奴らの尻尾を掴む、という目論見が水の泡となってしまったのだ。
 彼の長い説教が終わった頃、土方の拷問が終わった。
 難しい顔をして戻ってきた彼は、古高らが企てていた計画の一端を聞き出したようだ。彼らは、風の強い日を狙って京の町に火を放ち、騒ぎに乗じて将軍を暗殺、同時に天皇を長州に連れ去るつもりだったらしい。
 そしてそれを企てる尊王攘夷派浪士が、今夜会合を開くというのだ。

 屯所内は見る間に慌ただしくなった。
 攘夷浪士捕縛の為、彼らは出陣する事となったのだ。
 会合が行われると予想される場所は二つ。四国屋と池田屋。
 広間に集められた隊士の数は、三十数名。暑さで身体を壊している隊士が多い中、隊を二つに分けるのは少々不安であった。
 とりあえず四国屋にあたりをつけ、そちらを土方、斎藤、原田を合わせた二十四人が叩く事となる。一方、池田屋に回るのは、近藤・沖田・永倉・藤堂を含む十名が。屯所に山南とが残る事となり、何かがあった時には彼女が伝令に走るという事となった。
 そして、千鶴は近藤隊に同行する事に。

「なぁに、考えてるんだか」
「さあな」
 呆れ口調で呟くに、斎藤は無表情で答えた。
 ばたばたと慌ただしく走り回る彼らは浅葱色の羽織に身を包み、その下には鎧胴を身につけている。頭には鉢がね。巡察の時とは違って仰々しい出で立ちだ。
 討ち入りなのだから当然だろう。
 多分、斬り合いになる。そんな場所に、彼女を連れて行くのだ。
「池田屋の方はそう荒っぽい事にはならないはずだ」
 だから伝令に、と言う事で千鶴は同行する事になったらしい。
 人手が足りない今、猫の手だって借りたいのは分かる。猫よりも人間である千鶴の方が役に立つというのもだ。
「でも、遊びに行くわけじゃないでしょうが」
「それは局長も分かっていらっしゃるはずだ」
「分かってるなら同行させないでしょ」
 なんせ、とは腕組みをしたまま呟く。
「あの子小太刀は使えても」
「人は斬れない」
 斎藤はこくりと頷いた。
 巡察に連れて行くのには賛成しても、討ち入りは別だと彼は思う。
 何故なら彼女に人は殺せない。
 自分の身を守る事は出来ても、敵を殺す事は出来ない。
 それでは意味がないどころか、万が一不逞浪士が斬りかかってきたら彼女は足枷になる。
 そうしたら今度こそ、
「総司に斬り捨てられるぞ」
「かもしれんな」
 の言葉に、斎藤は否定しなかった。そんな彼をちらりと見遣り、だが何も言わずにまた視線を慌ただしく駆け回る隊士達へと向ける。
 千鶴の姿は見えない。当然だ。もう近藤ら先発隊と共に出て行ってしまったのだから。
「おい、そろそろ出るぞ」
 じっと彼らを見守っていると、土方が声を掛けてきた。こちらも準備が整ったようだ。
 御意と短く答えた斎藤は隊士に声を掛けると広間を出ていく。
「土方さん」
 その後に続く土方をは見送りに出てきた。
「後は頼む」
「はいよ、任されました」
 篝火に照らされた彼女の顔が、にやりと笑みに歪む。なんとも緊張感がないが、それが何より心強い。
 彼女がどれほどに頼りになるか分かっているからだ。
「山南さんの事も」
「分かってますって……それより、自分の心配してくださいよ」
 微かに声音を顰める男の胸を、苦笑混じりには叩いた。
 こんと、鎧胴が固い音を立てる。こんな物を着けて討ち入りに出掛けるのだ。危険なのは彼らの方ということ。
 はもう一度彼の胸を叩くとその顔から笑みを消した。
「気をつけて」
 彼を案じるような台詞だが、瞳に湛えるのはただ一つ。
 ――土方に対する――絶対の信頼の色。
 男はそれを受けて、真摯な眼差しで頷いた。
「行ってくる」


 大きな背中が遠ざかって、消えていく。
 じっと闇に飲まれて溶けていく彼らを見送っていると、おっとりとした声が背中に掛けられた。
「土方君も行きましたか」
 振り返ればそこに隊服に身を包んだ山南の姿。
「山南総長」
 総長、と自分よりも格が上である彼女に呼ばれるのは少しばかりこそばゆい。
 もはや総長とは名ばかりで自分には戦う力さえないのにと自虐めいた笑みを浮かべたが、は見ない振りをした。
「私も……彼らと共に行きたかった」
「……」
 静かにその唇から漏れたのは彼の心からの願いだろう。
 その台詞は自虐めいた言葉よりもずっとずっと、胸に刺さるものだった。
 は何も言わずにただ、彼らが消えた方をじっと見つめていた。

 彼女とて、山南と同じ気持ちである。
 共に行きたかった。
 だがが命じられたのは待機。
 今、自分が出来る事は待つ事だけ。彼らが戻ってくるのを信じて待つだけ。
 きっと彼らならば大丈夫だ。彼らは強いから。決して負けるはずがないのだから。
 は信じている。
 だけど、

 ちりと胸の奥に微かに引っかかりを覚えた瞬間、固い声で名を呼ばれた。
 振り返れば山南は夜空を見上げていた。
 いつもよりも早く流れる雲を、分厚い黒い雲を、彼は睨み付けながらこう言った。
「……今夜は、忙しくなるかもしれませんよ」
 嫌な予感がする。
 そう小さく呟いた男の横顔を見ながら、はやはり彼は総長なのだと思った。
 今まさに、も感じていたのだ。
 胸騒ぎというやつを――



 月が雲から顔を出した。
 変わらぬいつもと同じ平和な夜だった。

「会津中将お預かり浪士隊、新選組。――詮議のため、宿内を改める!」

 静寂と平穏は、近藤の朗々とした宣言で破られたのだ。


 まるで息を潜めるかのように静かだった池田屋からは、いまやひっきりなしにけたたましい音が聞こえてくる。
 恐ろしい怒声と。
 甲高い打ち合いの音。
 それから、耳を覆いたくなる悲鳴。
 きっと誰かが斬られた。それが味方か敵なのかは、分からない。
 ただ目の前にある、その建物の中で殺し合いが繰り広げられているのは確かだろう。
 千鶴はただ、その場に立ち尽くしていた。
 伝令として連れてこられたのに、ただ見ているしか出来なかった。

 池田屋が本命だと知ったのは随分と前。
 近藤に店から離れていろと言われたのはほんの少し前。
 それから、彼らが飛び込んでいってからはずっと、嫌な音が中から聞こえてくる。
 何かが落ちる音。誰かの悲鳴。
 それが絶え間なく千鶴の耳に飛び込んでくる。
「……っ……」
 いつの間にか人だかりが出来ていたが、誰も近寄ろうとはしなかった。
 千鶴だってそうだ。近付けない。怖くて堪らない。
 ただ見守るだけ。心の中で彼らが無事である事を願うだけ。
 その耳に、
「大丈夫か! 総司!!」
 近藤が叫ぶ声と、
「くそっ! 死ぬなよ、平助!!」
 相次いで聞こえる永倉の声。

 その瞬間、身体の奥から何かが込み上げてきて千鶴は走り出していた。



 ――ご丁寧にも、その嫌な予感とやらは当たってくれたのだ。

「彼らの会合は、池田屋で行われています」
 屯所に一番に戻ってきたのは山崎だった。
 飛び込んできた彼の表情があまり晴れやかではないのを見て、何か問題が起きたのだとすぐに察した、が、
「まさか、池田屋で会合が行われてるなんてね」
 もたらされた報せにもついつい顰め面で溜息を零してしまう。
 四国屋と池田屋。丁か半かの勝率が高いであろう博打で負けるとは、新選組もついていない。
 しかもまだ、会津藩も所司代も動きを見せていないというのでは更に最悪だ。今日は厄日だったようである。
「山南総長、如何されますか?」
 片膝を着いたまま、山崎は彼の答えを待っている。
 難しい顔のまま黙り込んだ山南の沈黙は、短かった。
 再び顔を上げたその時、彼の瞳は彼らしい聡明で強い色を浮かべていた。そして以前と同じ堂々たる態度で命を出す。
、あなたは山崎君と共に土方隊にこのことを伝えに行ってください」
 その彼らしい命に、がにやりと口元を歪ませて笑った。
 報せに走らせるならば二人を別々に動かせた方が良い。近藤隊には土方隊を待つように、そして土方隊には近藤隊の元へと向かうように、それぞれを伝令に向かわせる方が間違いはないだろう。だが、それでは万が一の時に対処出来ない。
 これは山南の勘なのだが、どちらに向かわせても敵の邪魔が入るはずだ。古高が捕縛された今、敵も警戒を強めているだろうから。それでもし二人をばらばらに走らせて、それぞれが足止めを食えばそれだけ情報伝達が遅れてしまう。ならば、より急を要する土方隊の方へ二人を向かわせ、万が一の際にはどちらかが追っ手を引き付けてもう片方が任務を遂行する方が確実というもの。
 味方を斬り捨ててでも、任務を遂行させる。山南らしい合理的で、冷酷な策だ。
「勿論、信じていますよ」
 挑発的な笑みを浮かべると無表情な山崎に、山南はほんの少し笑って告げた。
 分かっている、と二人は同時に頷く。
「私は屯所の警護を続けます。不測の事態がまだ起こらないとも限りません」
「了解」
「総長命令、しかと承りました」
 二人は合図もなく、同時に夜の町へと飛び出した。

 月は随分と傾いて、通りには影が落ちている。
 二つの影は人通りの少ない通りを疾走していた。
 山崎の目の前にはの背中が見える。小さな背中を追いかけるのはいつもの事だ。
 どれほど早く駆けても敵わない。
「……」
 不意にその小さな背がぴくんと震え、が視線を肩越しに向けてきた。
 前方を見ればきらりと闇の中で何かが光る。
 山崎は無言で頷いた。瞬間、の速度が緩み彼と並ぶようになり、
 次の瞬間、
 ――ギィン!!
 刃と刃がかち合う、甲高い音が聞こえた。
 浪士が飛び出してきたのだ。
 抜き身の刃に応戦したのは山崎の方である。
 は軽く彼に進路を譲るように後方へと飛んだ後、また先程よりも速度を上げて駆けだした。
 待てと知らぬ男の声が掛かるが振り返らない。
 そして、山崎の事も振り返りもしない。
 それがと山崎の役目だからだ。

 剣戟の音が遠ざかる。
 悲鳴が聞こえた気がしたが振り返らない。
 暫く走ればもう何も聞こえなくなる。薄暗い通りに響くのは、自分の地を蹴る音だけ。
 この通りは誰も通らない。だから誰もいない。
 だから誰の目にも触れることなく走る事が出来る。そして待ち構える事だって。
「っ」
 不意に――眩しい光が見えた。
 は驚いた風もなく砂埃を巻き上げながら足を止めると、すぐさま腰に手を伸ばし……だがすぐに、
「土方副長」
 その灯りを手にした人物の名を呼んだ。
 四国屋を見張るならここに身を顰めていると思ったが、見事に当たったようである。
 逆に土方の方がを見ると驚いたような表情になった。
、どうしてここに」
「本命は池田屋です」
 無駄な言葉は省いて、はそう告げた。
 瞬間土方の表情が厳しいものとなる。
「あっちが本命か」
 ち、と後ろに控えていた原田が舌打ちをする。
 あちらは十名ほどしかおらず、おまけに安全だろうと思って千鶴までついている。くそ、と悔しげに悪態を吐かずにはいられない。
「土方さん」
 吐き捨てる原田とは違い、斎藤は相変わらず表情を動かさないままで土方を見た。
 険しい顔のままじっと地面を睨み付けていた男は、ほんの少しの間もおかずに決断すると一同を振り返った。
「斎藤と原田は隊を率いて池田屋に迎え」
「御意」
「土方さんは?」
「俺は余所で別件を処理しておく」
 有無を言わせぬ強い声で命じると、彼はくるりと別の方へと向かって走り出した。
 行くぞと後ろで斎藤が静かだが強い声で命じれば大勢の足音が遠ざかっていく。
 彼らと離れ一人大通りへと出た。通りにはまだ人の姿も見える。彼らは揃って浅葱色の羽織を見ると嫌悪や侮蔑の表情で家へと足早に戻っていく。
 じゃり、とすぐ後ろで足音がした。
「おまえは、行かなくていいのか?」
「私はこっちに残ります」
 問いかけに返ってきたのはやはり、彼女の声だった。
 の、声。
 土方は振り返りもせずにこう続けた。
「池田屋の方が、人手が必要だろうがよ」
「でしょうね。きっと近藤さんの事だから待てずに乗り込んじゃってるでしょうし」
 原田が斎藤らが向かったとはいっても、人手は多いにこした事はない。それをも分かっている。
 でも、だ。
「私はこっちに残ります」
 土方は一人なのである。
 彼は討ち入りに行くわけではない。もし偶然不逞浪士に出会ったとしても、彼ならば簡単に切り伏せられるだろう。
 でも、一人には違いない。
 偶然である不逞浪士が少数とは限らないのだ。いや、それどころか彼が今から出迎える連中が、彼に斬り掛かってこないとも限らない。何があるか分からない以上、彼を一人にするわけにはいかない。彼は、新選組の副長なのだから。
「ったく」
 土方は苦笑を漏らし、ここで漸くを振り返った。
 男は困ったような呆れたような表情を浮かべていた。
 本当に、は優秀な部下だと思う。
 本来なら近藤の元に走りたいだろうに。彼が心配で堪らない癖に、それなのにそれをぐっと堪えて土方の元に残ると言っているのだ。
 もし万が一、土方に何かがあれば新選組は傾く。下手をすれば潰れるかもしれない。
 それを知っているから、はここに残ると言っているのだ。
 無論、こんな事一人で出来る。誰の手助けも必要としないし、それが出来るのは自分だけだ。
 しかし、彼女がいれば心強いのは確かだった。
「面白くもねえぞ。こっちは」
 やれやれと肩を竦める彼には悪戯っぽく笑った。
「そうですか? 在る意味面白いと思いますけど」
「見せもんじゃねえんだがなあ」
 くつりと短く喉を震わせて言う男は、その表情をすぐに真剣なものへと変えてばさりと衣を翻した。
 力強い一歩を踏み出すその背中を、今度はが追いかける。
 彼が向かうのは……



 
前 頁  ◆  次 頁