それから、山南が屯所に戻ってきたのは数日後の夜だった。
 帰ってきた彼は、別人のように変わり果てていた。
 自虐めいた言葉を吐き刺々しい空気を纏うようになった彼は次第に人を寄せ付けなくなり、その顔から笑顔は消えた。

 彼の腕は治らない。
 もう僅かに動かす事さえ出来ない腕を見て、千鶴は悲しげに目を細めてこう言った。
「悲しい」
 自分の身でも切り刻まれたみたいに苦しそうな顔で。
 悲しいと一言だけ。
「他人の事だよ」
 そんな彼女に沖田は言った。
 所詮他人の事。君が辛いわけじゃないと。
 でも、千鶴は頭を振ってやはりこう言うのだ。
「辛い、です」
 身内でもない。ほんの半年しか一緒に暮らしていないのに、まるで己の事のように悲しみながら。

 不思議な子だと――ただ沖田は思った。



 元治元年、六月。
 長雨が漸く止み、朝から蒸し暑かったある日の昼下がりの事。
「千鶴ちゃんが一番組と出掛けた!?」
 の驚きの声が、屯所内に響いた。

「いきなりでけえ声出すんじゃねえよ」
 驚くあまり大声を出したを、土方は眉間の皺を深く刻みながら睨み付ける。
「や、だって驚いて」
 慌てて口を手で押さえたがもう遅い。
 まあ知られて困るような事ではないので構わないがとりあえず一度だけ彼女を睨み付けておいて、男は眉間に刻んだ皺を解くと縁側に腰を下ろしたままお茶を一口。
 多忙を極める鬼の副長も今日は珍しく暇らしい。
 縁側でのんびりお茶などというのんびりと時間を過ごしている彼にも驚くが、それ以上に驚くのは千鶴が一番組に同行した事だ。
 千鶴が軟禁されて早半年。父親捜しも進展がない。それでも文句一つ言わず彼らの命令に従う千鶴にもそろそろ外出を許されるだろうとは思っていたけれど、まさか彼と一緒とは。
「なんだ、まずいのか?」
「別に問題があるわけじゃないですけど」
「けど?」
「総司の事だから、あの子が騒動に巻き込まれても放っておきそう」
 難しい顔で呟く彼女に、土方は思わずと溜息を漏らしてしまう。
 同じような言葉をほんの少し前に聞いたところだった。
「本人も言ってたくらいだからな」
 千鶴に外出の許可を出すと言った時、同席していた沖田はにこにこ笑顔で確かに言っていた。

「逃げようとしたら殺すよ? 浪士に絡まれても見捨てるけど、いい?」

 良いわけがあるかと叱りつけたら「冗談だ」と彼は笑って訂正したけれど、果たしてあの言葉は信じて良かったのだろうか。
 彼ならばやりかねないのではないだろうか。
 面倒だとか言って、千鶴が騒動に巻き込まれても見捨ててきたりするのではないだろうか。
 なんせ最初から沖田は千鶴に対してあまり良い感情を持っていない。面倒だから殺してしまえと平気で言ってしまえた程だ。少なくとも今は敵ではないが、味方でもない。新選組にとってはいてもいなくても同じような存在だ。そんな人間の為にわざわざあの沖田が労力を惜しんでやるとは思えない。
 逆に、千鶴が困るところを見て楽しんでいそうな……
「やっぱり、まずかったか」
 許可を出しておいて今更だが人選を間違えたかもしれない。
 やはり多少危ないと言っても夜番の藤堂に任せた方が良かっただろうか。いや、それならば明日、原田に同行させた方が良かったかもしれない。そんなことを今考えても無意味だが、それでも許可を出してしまった手前考えずにはいられなかった。
「いやいや、そこまで真剣に考え込まなくても大丈夫ですって」
 自分で振っておいてなんだが、そこまで難しく考える事はないとは思う。
 まあ沖田と一緒で心配なのは確かだけれど、心配なのは彼女が争いに巻き込まれないかということよりも、沖田自身に酷い言葉で傷つけられないかという事の方だ。今のところ斬る殺すという物騒な脅し文句だけで済んでいるみたいだが。
「なんだかんだ言って、見捨てるって事はないと思いますよ」
 あれでも新選組の組長だ。困っている人間を見捨てるという事はまあないだろう。しかも新選組で預かる事になった少女を見殺しになんてするはずがない。彼女が新選組にとって毒とならない限り。
 確かに、と土方は納得したのか険しい表情を和らげた。
 ほっと溜息を零したところで、一息入れるようにお茶を啜る。
 頭上を暢気な綿雲がふわふわと通り過ぎていった。
「しかし、何があんなに気にいらねえんだ? あいつは」
 話題が終わったかと思ったらそうではないらしい。
 がりがりと首の後ろを不機嫌そうに掻きながら土方がそう呻くので、は少し驚いてしまった。
「土方さんは気に入ったんですか? 千鶴ちゃんの事」
「んな事言ってねえだろうが」
 じろっと不機嫌そうに睨まれたのでそれ以上追求するのは止めておく。下手に刺激をして千鶴に辛く当たるようになっても可哀想だ。
 はひょいと肩を竦めた。
「まあ確かに、総司以外はなんだかんだ千鶴ちゃんと馴染んでますしね」
「あの斎藤も、なんだかんだ面倒見てるみてえだしな」
 土方も苦笑で答える。
 まさかあの斎藤がと呟く程、彼が千鶴の外出許可について進言したのは意外な事であった。
 元々好感を抱いている藤堂や女には甘い原田ではなく、組織の命令は絶対、甘えや同情など許さないという厳しい堅物男なのだ。斎藤という男は。そんな彼が「雪村に外出許可を与えてやってほしい」と言いだしたのだから驚くのも当然の事。
「あの堅物でも少しは千鶴ちゃんに馴染んだって事ですね」
「だろう? なのに、総司ときたらいつまで経っても「斬る」だの「殺す」だの」
 恐ろしい言葉を投げかけて千鶴を怖がらせている。
 はそうですねと苦笑で呟き、でもと口を開いた。
「まあ、嫌いじゃないとは思うけど」
「そうか?」
「だって嫌いならもうとっくのとうに殺してる」
 その言葉に妙に納得して笑ってしまった。
 確かに彼女の言うとおりだ。もし沖田が本当に気に入らないのであれば千鶴は斬られている。
 殺す、斬るという物騒な言葉を投げてはいるが、彼は千鶴を傷つけてはいない。それが、彼も千鶴を嫌ってはいないという証拠だろう。
「じゃあなんだってあいつは総司はあいつをいびるような事ばかりしやがるんだ?」
 怪訝そうに呟く彼に、は多分と苦笑混じりに答えた。
「総司は、千鶴ちゃんみたいな子に戸惑ってるだけなんだと思います」
「戸惑う?」
「だって、今まであんな風に総司と向き合おうとする子なんていなかったでしょ?」
 多分、今まで彼の周りにはいなかった。
 どんなにひどい言葉や態度を向けても、逃げずに真っ直ぐに向き合ってくれる人なんて。

「……私、逃げませんから」
 あの時もそうだ。
 逃げようとしたら殺すと、笑顔で冷たい言葉を吐いた彼を千鶴は真っ直ぐに見ていた。
 その目は、迷いなど無かった。
 わざと突き放すような言い方をした沖田から、目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめて。
「初めてここに来た日、私は新選組の皆さんと約束しました」
 父親を探すのに協力すると。だから彼女は屯所から逃げないと。
 きっぱりと彼の目を見て告げた。
「私、約束は守ります」
 その時の彼女は、とても強い目をしていた。
 非力な少女だと感じさせない、強く真っ直ぐな眼差しだった。
 それは彼女の剣筋と同じ。
 一本、堂々と真っ直ぐ貫くみたいな剣筋と同じ。
 どこまでも真っ直ぐで、素直で、だけど――哀れになる程に弱いのに、決して諦めずに立ち向かおうとする。
 貫くまで絶対に、彼女は諦めない。
 例えばその刃を折られてしまっても、折れた刀で立ち向かおうとするのだろう。
 それは千鶴の強さなのだろう。

「あのひねくれ者には、真っ向から真っ直ぐにぶつかってくる千鶴ちゃんは苦手の部類の人間なんでしょうね」
 今まで逃げ出す人間はいっぱいいた。もういいと投げ出して離れてしまう人間はたくさんいた。
 それもそのはずだ。どれだけこちらが真摯な態度を示しても、相手が真摯に応えてくれなければ向き合う事なんて出来るはずもない。沖田のように本心を探ろうとすれば冗談で誤魔化して、下手すれば噛みついて相手を滅茶苦茶に傷つけかねない人間とまともに向き合えるわけがないのだ。そんな事をしてもこちらが苦しいだけだから。
 でも千鶴は違う。真っ向から受け止めようとする。もう良いと投げ出したりせずに、彼に応えようとする。そんな人間が彼の周りに今までいなかった。
 だから態とあんなひどい言葉を、態度を取って遠ざけようとするのだ。そのくせに、彼女に構ってくれと言わんばかりにちょっかいを出すのだ。
「でもどんだけ遠ざけようとしても絶対無理なのに。千鶴ちゃんは総司から目を逸らさない」
 あの子は逃げない。
 どんなに酷い言葉を投げつけられても、それをきちんと受け止めてくれる。そして、受け入れてくれる。
「優しい子だから」
 あの子は、とても優しい子。
 人の痛みを自分のもののように感じられるくらい、優しい子だから。
 その優しさ故に、きっとこの先傷つく事は多いのだろう。苦しむ事は多いのだろう。きっと泣く事だってある。でもそれでも彼女は目を逸らさずに真っ直ぐに前を向く事が出来る。
 哀れな程に弱いけれど、千鶴という少女は誰よりも強い心を持っているから。
 そうきっぱりと言い切れば、へえとおかしげに笑う声が聞こえてきた。
 見れば土方がくつくつと笑いながらこちらを見ていた。
「おまえも、随分と雪村に入れ込んでるみたいだな」
 そんな風に言われては目を丸くする。
「入れ込んでる?」
 私が? と訊ねると、彼は自覚がないのかと苦笑に喉を震わせた。
「あいつのこと、よく分かってるじゃねえか」
 そう長い間一緒にいたわけでもないのに、よく千鶴という人の事を知っているじゃないか。
 先程のに仕返しするわけではないが、そんなに彼女の事が気に入ったのかと含み笑いで訊ねれば、は不思議そうな顔になって、
「だって、あの子は」
 そういう子だ。
 千鶴という少女は、そういう人間。
 そう言い掛けては驚愕した。

 何故、自分はそこまで言いきれるのだろうかと。
 絶対の自信を持って、彼女がそういう人間だと断言出来るのだろうかと。
 だって、知らないのに。
 千鶴の事をよく知らないはずなのに。
 が認識しているのは、千鶴という人は子供で、真っ直ぐで、甘くて、意外にしぶとい。それだけ。
 それだけなのに何故、そうと断言出来る。
 千鶴という人がそんな人間なのだと断言出来る。

 そう、知っている気がした。
 雪村千鶴という人が、そういう人間なのだと。

 知っている?
 いや、知らない。
 出会った事などないはずだ。
 でもあの目を見た時に確かに、覚えがあった。

?」
 突然無言になってしまった彼女に声を掛ける。は自分の手を見つめたまま、動かなくなった。
 その手に、あの時重なった温もりが蘇る。
「私は……知っている?」
 あの目を、あの温もりを。
 あの少女の事を。

 静かな問いかけに、誰も答えてはくれなかった。



 
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