「今日は‥‥よし大丈夫だな。」
私は時間割を見て一つ呟く。
時間割、と言っても私の担当するのは数Uと、数Vだということは分かり切ってる。
私たち教師の場合は次がどのクラスを受け持つか、というのが時間割で書いているだけだ。
次は、3年1組。
大丈夫。
と私は心の中で呟く。
何が大丈夫なのか、というと、彼のクラスは2組であると言う事。つまり、彼とは顔を会わさなくて済むということで。
「‥‥」
立ち上がって私は溜息を零した。
我ながら情けない、と思う。
彼と会わせるのが怖いだなんて‥‥
あれから、
ハロウィンパーティであんな事があってからもう十日も経っている。
私は未だにあの日の事を引きずっていた。
引きずらいでか‥‥って感じもある。
だって、私は彼と致してしまったんだ。
生徒である彼と、セックスを。
引きずらないわけがない。
しかも、無理矢理ではなかった。
つまりは合意だ合意。
流されて気付いたら‥‥って感じだけど、そもそも流されてってそれどうよ?
なんで流されちゃったのよ?と何度自分を罵った所で、生徒と関係を持ってしまった事は消せない事実。
教師として失格ということもあるけれど、それ以上に、私は、気まずくて、仕方がない。
どんな顔をすればいいのやら‥‥
「‥‥ここはやっぱり普通に接するべき?」
何事もなかったかのように接するべきだろうか。
そうだよね、だってあの後、何事もなかったようにお互いに生活に戻ってるんだし。
私は教師として、彼は生徒として、いつも通りの生活を過ごしている。
ただ、前よりも接する機会が無くなったのは確かだろう。
恐らく私が避けているせいでもあると思う。
ほんとに、顔、合わせ辛いし。
みんなの前では何事もなかったように振る舞う事は出来るけど、でもふたりきりになったら、多分、無理だ。
前みたいに話せない。
「‥‥‥」
そんな事を考えていると、溜息が唇から漏れた。
「‥‥‥‥でも、ちょっと、拍子抜け。」
拍子抜け、というか、ちょっと幻滅?
私は原田君と一緒にいる間に彼がどういう生徒なのかということをある程度知ったつもりだ。
彼は実直な青年だった。
誠実で、曲がった事が大嫌いで、悪い事を悪いと認めて謝れる人だ。
そして男というのは女を守るのが当たり前だと信じている、男らしい人。
なのに‥‥私に何も言ってこない。
別に謝って欲しいとは思ってない。
だって私も同罪だから。
それでも、理由くらい聞かせてくれても良いと思うんだよね。
どうしてあんな事をしたのか、とか、さ。
「いやでも、だからって顔は会わせにくいんだけどねぇ。」
堂々巡りだ、と私は一人呟いて、職員室の戸を開けた。
俯いてたから分からなかった。
近藤さんに「前をきちんと見なくちゃいけないぞ」と言われていたのを思い出す。
よく、こうして、
「おぅっ!?」
前方不注意でぶつかる事があったからだ。
ぼす、と何かに頭をぶつけ、私の口から変な声が漏れた。
柔らかかったから壁ではない。っていうか、職員室のドア開けた瞬間壁だったらどんなホラー映画だよと突っ込みたい。
一生職員室から出られない、怖いってそんなの。
そうじゃなくて、私の前には人が立っていたらしく、出入口なんだから当たり前だよねなんて思いながら顔を上げようと
して、ふわりと顔を近づけた瞬間にした、その香りに私の身体は反射的に強ばった。
それは知っている香りだったから。
どこか爽やかで、だけど男らしい、におい。
閉じこめたはずの記憶の底からわき起こるのは、久々に感じたとんでもない快感と、幸福感。
それを与えてくれた相手の、におい。
「あ‥‥」
まずいと思ったのに気付いたときには顔を上げていて、そうすると相手の驚いたように見開いた目が私を見ていて。
ばちりと、視線が絡む。
「は、らだ、く‥‥」
らしくもなく引きつった声が私の口から漏れた。
「せんせ‥‥」
と、少しだけ強ばった声が呼んだ。
見つめ合ったまま動けない。
目を逸らす事も出来なければ、何かを言う事も出来なくて、ただ、お互いに見つめ合ったまま立ちつくしていた。
まじまじと凝視してしまったその瞳は驚きに見開かれていたけれど、徐々に、目の前にあるのが私なのだと認識したのか
色を変えていく。
戸惑いと、それから罪悪感がない交ぜになったそれが私を見て、
そして、
「あの、な‥‥」
口を開いた瞬間、
「原田ぁ、こんなとこに突っ立ってたら邪魔だろうが。」
とものの見事に空気をぶち壊す誰かの声が飛んできた。
ぎくりと二人は揃って肩を震わせて離れると、なんだ、と声の上がった方を振り返る。
小野寺先生だった。
彼は薄い頭をぽりぽりと掻きながら邪魔だと原田君を睨み付け、すぐに、
「あ、雪村先生もいらっしゃったんですか!?」
と私に気付いて声音を変える。
俗に言う猫なで声みたいなそれを上げ、すぐに髪をセットしなおすみたいに撫でつけて居住まいを正す。
そして原田君を押しのけると、
「こいつ、図体がでかいから邪魔でしょう?
ささ。どうぞ通ってください。」
なんて言って道を空けてくれる。
私は困惑しながらどうも、と答え、ちろっと視線を一度彼に戻した。
ばちりとまた視線が絡むのは、彼がずっと私を見ていたからだろう。
「‥‥」
何か言いたげに唇を開いて、あの、と続けそうになった所でタイムオーバーとばかりにチャイムが鳴った。
「ほら、急いで教室に戻りなさい。
先生もっ。」
促されるままに私は背を向けて担当教室へと急いだ。
彼とは、別の道を通って。
彼は何かを言いかけていた。
きっとそれはあの日の事。
それが謝罪なのかそれとも別の何かなのかは、分からない。
ただ、
私はその言葉の先を聞くのが何故か、怖かった。
決定的に何かが壊れる予感がしたからだ。

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