「またですか?」
心底呆れたという声で総司は言う。
俺は答えずに昨日と同じようにそいつの前を通り過ぎた。
だけど総司は昨日とは違って、

「そんなに心配なら潜入なんてさせなければいいのに。」

そんな事を言い放つ。

俺はちろっと横目で見て、そんなことができるかよと反論した。
どうせこいつには何もかんも見透かされてるんだ。今さら取り繕う必要なんかねえ。

「これはあいつにしかできねえ仕事だ。」
「そんなこといって‥‥」

総司は俺の言葉に納得できないと言いたげに口を開く。

「どっかの誰かに傷でもつけられたらどうするんです?」
「――」

一瞬、言葉が出なかった。

あいつがそんなヘマをするか、と言いたかったのに、
俺の口から出たのは変な息だけで‥‥

「‥‥」

俺は結局何も言えずにくるっと背を向けた。
総司は面白く無さそうに目を細めて、ふぅんと呟いたきり、それ以上は追求しなかった。
その代わりに、

「なんだかそのうち、身請けでもしちゃいそうですね。」

と言ってきた。

身請けなんてそれこそ馬鹿げてる。

「あいつはそもそも花魁じゃねえ。
俺たちの仲間だろうが。」
時期が来れば戻ってくる。
だから‥‥

「でも、身請けしちゃえば正々堂々と自分の物に出来ますよ。」

そんな総司の言葉に、
俺は何も言えなかった。



――あいつはあいつの物であって、誰かのものになりえるわけが、ない。



「桔梗は今別のお座敷に上がっておりますので少々お待ち下さい。」

そう言って妓女に部屋を案内させるのを断って、俺は通い慣れた廊下を一人歩いた。
桔梗の部屋は案内されなくても分かる。

まだ静かな廊下を一人歩いていると、
ふと、

――くす――

小さく漏らしたような笑い声が聞こえた。

なんだ?

俺はそちらに目を向けた。

すると音は止んで、聞こえなくなる。
シン、と静まりかえりそいつは形を潜めた。

‥‥聞き間違い‥‥

くすくす――

まるで違うと否定するように笑い声が響いた。
その声は楽しげで、
だけどどこか甘ったるい、媚びたような音を湛えていた。

「‥‥身請けしてくださるなんて、嬉しいです。」

その笑いの後に、
やけに通る声が続いた。
その声は俺の良く知る、心地よい音を奏でるその人の声とよく似ていた。
いや、似ているんじゃなくてそれは‥‥

の声。

身請け――?

そいつが、その話題を口にしていた。

一体どういうことだ?

俺は怪訝に思いながらふらと声がした方へと近付いていく。
廊下に一条明るい光を漏らしているその部屋の前へと。

そして俺はその隙間から中を覗いて‥‥

「っ」

愕然とした。

胡座を掻いた男の上に、
が‥‥いや、桔梗が‥‥まるで媚びるように乗っていた。
そうして、首に己の両手を回し、吐息の掛かるほどの距離で見つめ合っている。
甘く、強請るような眼差しを男に向けて。

これは‥‥一体なんの冗談だっていうんだ?

「出来れば‥‥おまえと一緒になりたいと思っているんだが、どうだ?悪い話ではないだろう?」
男はにたにたと厭らしい笑みを浮かべて琥珀をじっと見つめている。
「おまえが望むのならばすぐにでも金を用意してやるぞ。」
「まあ、嬉しい。」
甘えるようにすりと頬を寄せれば、男のにやけ顔が更に酷くなる。
にやけながら、だけど、と男は言った。
「その前に‥‥一度でいいからおまえに肌を許してもらいたいと思うんだが‥‥」
なあ、いいか?
と気色の悪い声で言うそいつが、
僅かに乱れた緋襦袢から手を差し込むのを俺は見た。
緋色と相反する白がやけに目に焼き付いて、その美しい色に‥‥男の汚らしい手が触れてさすり上げた瞬間、


――どっかの誰かに傷でもつけられたらどうするんです?


こんなときに、嫌な奴の言葉が蘇った。


そしてあの時答えなかった俺の答えが、ここで出た。

そんなの――御免だ。


「がっ!!」

音も立てずに一気に襖を開け放つとそいつらが驚きにこちらを見るよりも早く、男の襟首を掴み上げて引っ張り起こし、
「っ!?」
そのでっぷりと太った腹に爪先をめり込ませた。
刀を持っていたら、斬り殺していただろう。

「‥‥ぐ‥‥ぇ‥‥」

男は蛙が潰れたような惨めな声を上げてどさりと前のめりに倒れ込み、この時になってようやくそいつが「長谷川」だと気付いた。
けど、そんなことはどうでも良いことだった。

「‥‥あ‥‥」

長谷川が引き起こされた事で膝から落ちたそいつは突然の乱入に目を丸くしている。
どうしてここにと言いたげなそいつに答えず、俺は有無を言わさずにその細い腕を掴んだ。

「な、なにっ!?」
「‥‥来い。」

反論は許さない。
そのまま引きずるように強く引っ張って、俺は予め用意されていた部屋へと向かった。
手の中でみしりと嫌な音を立てるのにも‥‥気付かないほど、俺は怒りで我を忘れていた。



だん!
と壁をぶち抜く勢いで俺は手を着く。
半ば壁に叩きつけられるように放られたはびくりと肩を震わせ、目を見開いた。
そして、すぐ傍にある俺の身体と壁に挟まれて逃げ場が無いことに気付くと、おろおろと視線を泳がせる。

「‥‥何をしていた?」

低く呻くような声で俺は問い質す。
何を‥‥と聞かれたは視線を落としたまま、その、と言いよどみながら答えた。

「情報を‥‥聞き出そうと‥‥」

仕事をしていただけだと言うそいつに、俺ははっと嘲るように鼻で笑い飛ばす。

「男の膝の上に乗って、媚びを売るのがてめえの仕事か?」

まるで、遊女だな‥‥と吐き捨てればはぴくっと肩を震わせた。
それは聞き捨てならないと言った風に、不満げに眉を寄せて、ちがうもんと小さく呟く。

「違わねえだろ。
遊女はああやって男を誘うもんだ。」
「‥‥私はただ、情報を‥‥」
「情報を聞き出すために、いつもあんな事をしてるってのか?」

いつもあんな風に。
男に媚びているのだろうか。
男に触れさせているのだろうか。

自分で言いながら俺は腸が煮えくりかえる思いだった。

こいつが、
どこの馬の骨か分からない男に、
気安くその身体を触れさせ、
甘く強請るように身を預けて、
偽りだとしても、
その口から「愛の言葉」なんぞを告げられているのかと思うと。

ひどく、
腹が立った。

それこそ、激情のあまりに目の前が真っ赤に染まるくらい。

「あれは‥‥今回が特別‥‥」
は言った。
いつもあんなことはしてない。
今回は特別にああしただけだと。
その言葉が更に俺の怒りを煽る事も知らずに。
「特別‥‥そうか、じゃあ、てめえは少なからずあの男を特別視するほどだったってことか?」
嫌な声が漏れた。
やけに絡みつくような、ひでえ声。
「それ‥‥どういう意味?」
「惚けるんじゃねえよ‥‥
いや、まさかてめえがあんな狸爺が好みだとは思わなかったけどな。」
あれなら蟾蜍の方がましだと言い放つとは琥珀を眇めて俺を非難するような眼差しで言う。
「冗談でも笑えませんけど、本気で言ってるんだったら怒りますよ。」

――怒りたいのはこっちの方だ。

「私があんな男に本気になるはずが‥‥」
「なあ――」

の言い訳を綺麗に無視して、俺は詰め寄った。
ぐっと顔を近づければ距離が近くなり、は慌てて顔を引いた。
逃げられた事がひどく腹が立って、逃げられないように身体を押しつける。
華奢な身体を俺の身体で壁に押さえつけた。

「ひじ‥‥」

苦しさに微かに歪む瞳を俺は冷たいそれで見下ろす。

「あいつに‥‥身請けしてもらうのか?」

もう、鼻先がくっつくくらいの距離で、俺は問う。

はなに?と顔を顰めたまま問い返した。

「言ってただろう?
あの男がおまえを身請けしてやるって‥‥」
「‥‥」
「おまえは嬉しいって言ってたよな?」
「‥‥土方‥‥さん?」

この時になって、漸く、は俺の様子がおかしいことに気付いたらしい。
琥珀を強ばらせて、やだ、と押しのけようとした所で‥‥もう、今さら遅い。
俺はそいつが抵抗すれば抵抗するだけ押しつける力を強め、それこそ息が出来ないくらいの力を加えて抵抗する力を奪った。

「や‥‥くるし‥‥」
「あの男に見受けしてもらうのか?」
「ひじ‥‥離してっ‥‥」

いやだ。
離さねえ。

力無く俺の胸を押し返す手を取り、壁に縫い止める。
じたばたと暴れたお陰で開いた脚の間に身体を割り込ませて更に密着させた。

「なあ、桔梗。」
「っ――」

背けた耳元にそっと吐息を流し込む。
の肩がぎくっと強ばった。

俺は‥‥静かにこう言った。

「俺が、おまえを身請けしてやる。」

拒絶の言葉は、
唇で塞いだ。