自分でもどうかしていると俺は思った――
「また、今日も島原ですか?」
呆れたような総司の声に、俺はただ「出掛けてくる」とだけ答えた。
するとそいつはふぅんと意味ありげに呟いて、俺の背中を見送りながら言う。
「ここの所毎日通ってる見たいですけど‥‥
そんなに熱を上げるようないい妓、いました?」
答えない俺に構わず、あ、そうじゃないかと総司はわざとらしく声を上げた。
「土方さんの事だから――仕事、ですよね?」
まるで、俺が、
女に現を抜かすわけがないと言いたげな言葉だった。
俺はち、と一つ舌打ちをした。
こいつは本当に、
嫌な男だ。
全て見透かした上で、
堂々と、
人を咎める。
――自分でも、囚われていると分かってるよ――
そんな事を言われなくても。
どうかしてるってことは。
それでも‥‥
「いってくる。」
止められない自分がいるんだ。
朱色の大門の向こうには、現世とは異なった世界が広がっている。
そこにあるのは、目も眩むような明るい光と、
噎せ返りそうな酒と白粉の匂い。
それから、
女と男の媚びた声。
そこにあるのは、快楽。
そこにあるのは、幻。
通された部屋に腰を下ろす。
すぐに妓女がやってきて、俺の前に膳を運んできた。
まずは一献と、注ぐのを断れば、そいつは残念そうな顔をして部屋を出ていった。
そしてほどなくして、
「またいらしてくれたんですね。」
す、と襖が開くと同時に、笑みを含んだ女の声が聞こえた。
振り返れば眩しいくらいの鮮やかな着物を纏った艶やかな女が立っていた。
悪戯っぽい笑みを琥珀に浮かべた美しい女は‥‥『桔梗』という。
俺が熱を上げている‥‥と言われている花魁だ。
そいつはくすくすと小さく笑いを漏らしながら重たそうな着物を引きずって近付き、俺の真横に腰を下ろした。
途端ふわりと白粉とは違う爽やかな甘さが俺を包む。
彼女の、香りだった。
「今日もお会いできて嬉しいです。」
桔梗は言い、そっと甘えるように俺の肩に凭れ掛かってくる。
「離れている間、あなたの事ばかり考えていたんですよ‥‥」
「そいつは男冥利に尽きるってもんだが‥‥
その科白は他の男にも言ってるんじゃねえのか?」
意地悪く言うと桔梗はまあと琥珀を丸くして、拗ねたように視線を伏せる。
「意地悪な人。」
「悪い。男の醜い嫉妬ってやつだ。」
気を悪くするなと言って、俺は飴色に手を伸ばした。
そっと引き寄せて髪の一房に口づける。
花を思わせるいい香りに、俺は思わず、目を眇めた。
「それでは、何かあったらおよびください。」
そんな俺たちを見て、控えめに梓‥‥という名の禿が低頭し、襖を閉めた。
すたすたと控えめな足音が遠ざかり、やがて、誰かの笑い声にかき消された頃、
「‥‥もう、毎日来ても情報なんてありませんよ。」
そいつの口から、甘さの消えた声が漏れる。
桔梗‥‥いや、に戻った彼女は瞬間、身を任せていた身体を起こして離れた。
離れていくのがちょっと残念だと思いながら苦笑を浮かべると、がやれやれと肩を竦めて口を開く。
「そりゃ、はやる気持ちは分からなくないですけど‥‥毎日来ても状況は変わりません。」
ちゃんと新しい情報が入った時には山崎さんに届けてもらうから屯所で大人しくしていてくださいよ、と言われ俺はそうだなと曖昧に答えた。
ここに来ている理由はそれだけじゃないんだけどなと、心の中でも。
「‥‥それより、こんな毎日色町通いをしてて懐の方は大丈夫なんですか?」
が俺の懐具合を心配するのはもっともだ。
角屋は、島原で一番の見世で、そんな所で酒を飲み、料理を頼むだけでも他で飲み食いする倍の金が掛かる。
それだけではなく一応売れっ子である『桔梗』を呼べば、そこに更に揚げ代が掛かった。
は知らないが、とんでもねえ金が必要だった。
花魁に熱を入れすぎた挙げ句、一文無しになる客‥‥なんて、珍しくもないくらい、だ。
「新選組の鬼副長が、代金足りずに身ぐるみ剥がされる‥‥なんて格好悪い事しないでくださいよ。」
「新八じゃあるまいし。
俺がそんな後先考えずに金を使いまくると思うか?」
「そりゃ、微塵も思いませんけど、だからといって安くないでしょうに。」
「客の懐具合までてめえが心配してるんじゃねえよ。」
それより、と俺は盃を持ち上げて促す。
「飲むんですか?」
「折角売れっ子の花魁に相手してもらえるんだから、酌してもらわねえと勿体ねえだろ?」
意外と言いたげな言葉に笑みで答えると、はもう、と小さく呟いた。
「泥酔したって知りませんからね。」
「そしたらおまえが解放してくれりゃあいい。」
「酔っ払いの相手は勘弁です。」
銚子を傾ければふわりと酒の香りがした。
注がれが酒を一気に煽ると、喉を冷たいそれが越して‥‥次に熱が喉から臓腑までを焼く。
すっきりした甘さの酒は、口当たりが良くて俺の好みだ。
「美味いな。」
さすが高い金を取るだけある。
感心して俺が言うと、は半眼で俺を見て釘を差した。
「口当たりのいいお酒っていうのは悪酔いしやすいから気を付けてくださいね。」
「おまえはいちいちうるせえな。」
「だって、前もそのお酒で土方さん‥‥」
「そいつは忘れろ。」
有無を言わさない勢いで言い切り、反論の前にそいつから銚子を奪う。
代わりに、盃を押しつけるとは眉間に皺を寄せた。
「おまえも飲め。」
酒を勧めると、は困ったような顔で笑った。
「私、これでも仕事中ですよ?」
「一杯そこらで酔う奴なんざいねえだろ。」
「そりゃ私の目の前に‥‥」
「なんか言ったか?」
「イエナニモ。」
睨みつければふるっと頭を振った。
しゃらしゃらと簪が涼しげに鳴り、柔らかい飴色がふわふわと揺れる。
「‥‥一人で飲んでもつまんねえだろ。」
「えー?私土方さんを楽しませる為に飲むんですか?」
「客を楽しませるのが花魁の仕事だろう?」
「‥‥」
は難しい顔で黙り込み、盃をじとっと見た。
「ほら」
もう一度促せば、やがてやれやれと言った風には肩を竦めて、分かりましたと答える。
「飲みます。」
「よし。」
空いた杯に酒を注ぐ。
再び酒の香りが漂い、透明な液体がゆるりと揺れた。
はそれをじっと見ながら苦笑で言った。
「酔って、あとの仕事に差し支えがあったら責任取ってもらいますよ。」
「はいはい、んなことにはならねえと思うが‥‥
なんかあったら俺が責任取ってやるよ。」
「私の代わりに花魁の格好して、お座敷に出てくださいね?」
「誰がするか!」
似合うと思うんだけどなぁとくすくすと笑うが盃に口を付けた。
赤い唇が盃に触れた瞬間‥‥俺は言葉では表せない美しさに震えた。
目が‥‥離せなかった。
どうか、していると思う。
自分でも、どうかしていると。
「‥‥土方さん?」
やがて、酒を飲み干したが縁についた紅を指で拭いながら俺に気付いて声を掛けてくる。
それでも赤い唇から目が離せなかった。
その唇に‥‥触れてみたいと思った。
いや、
唇だけではなくて、
彼女の、
全てに、
触れてみたいと思った。
――俺は完璧に、囚われていた――
「失礼します。」
それからなんとなく会話は弾まず、気まずい空気のまま時間だけが流れた。
どのくらい経った頃だろう。
襖の向こうから控えめな声が聞こえ、す、と僅かに隙間が出来た。
梓という禿だった。
「長谷川様がいらしております。」
「長谷川様が?」
が驚いたように声を上げる。
長谷川‥‥というのは、今回が情報を探っている相手だ。
呉服の問屋なんだが、どうにもきな臭い連中で、そいつの邸の周りを長州の連中が彷徨いていたという話を耳にした。
長州の連中と繋がっている恐れがあるということで、に探らせていたんだが‥‥
「大事な用があるということで、是非、桔梗姐さんにお会いしたいと言うことですが‥‥」
大事な用‥‥ね。
俺は内心で吐き捨てた。
探りを入れて数日で分かったことだが、長谷川という男はとんでもねえ助平爺だった。
、いや、桔梗に随分と熱を上げていて、何度となく、こいつに関係を迫っているという話を聞いている。
恐らく、今夜も、そういうつもりでやって来たんだろう。
「桔梗?」
すっと無言で立ち上がったそいつに気付いて声を掛ける。
おいと呼ぶとはこちらを見下ろして、にこりと笑った。
「申し訳ありません。
少しだけ、席を外させていただいてもよろしいでしょうか?」
「‥‥まさか‥‥そいつの所に行くってのか?」
「お客様が折角いらしてくださいましたから。」
ごめんなさいと言ってが背を向ける。
そのまま来たときと同じように重たい着物を引きずって行ってしまうのを、俺は、
ぐ――
腕を掴んで引き留めていた。
は驚いたような顔で振り返った。
まさか、
俺が引き留めるとは思わなかったんだろう。
そりゃそうだ。
そいつがここに潜入しているのは客から情報を聞き出すため。
いわば、仕事のために来ているってのに、まさかそれを命じた俺が邪魔をするなんて思わない。
俺だって、
自分がまさかそんなことをするとは思わなかった。
これは、もう、衝動だった。
「‥‥梓、すぐに行くって伝えておくれ。」
はそんな俺に気付くと、即座に梓を下がらせた。
ぱたんと襖が閉まると同時にそいつはすっと膝を着いて、俺と視線を合わせると、笑った。
「ちょっと酔わせてくるだけですよ。」
だから安心してと言われた気がして、俺はふいっとそっぽを向いた。
なんだか、これじゃ、俺が駄々をこねるガキみてえじゃねえか‥‥
いや、実際ガキみてえなもんなのかもしれないが。
ふいと視線を逸らした俺を見て、はおやと目を丸くして、すぐに、
にんまりと猫みてえに目を細めて嫌な笑みを浮かべた。
「なに?そんなに私と離れたくない?」
「っ誰が!」
からかうような言葉に俺はそんなわけがあるかと頭を振る。
少しばかり慌てた様子になった俺をくすくすと笑って見ながら、それじゃ、とは言って優しく笑う。
「ちょっとだけ、待ってて。」
すぐ戻ってくるからと言うそいつに、俺はもう何も言えなかった。
これ以上やったら本当に‥‥俺はただのガキになっちまうから。
‥‥いや、桔梗が席を外すと代わりに梓がやってきた。
下手な新造よりも禿である梓の方がよっぽど気が利くからとが寄越したんだろう。
梓は失礼しますと言って酌をした。
そいつは人形みたいな外見をしていた。
あまり、表情が動かない。
昔のみてえに。
「‥‥ここでの暮らしは、辛いか?」
だからかもしれない。
俺が話しかけていたのは。
そうすると梓ははっと顔を上げて、黒曜石みたいな目をそっと細めた。
「いえ、お客様とこうしてお話しするのは楽しいです。」
「よく出来た返事だな。」
くつと俺は笑う。
梓は少しだけ驚いたように目を丸くして、
「本当です。
それに‥‥桔梗姐さんには良くしていただいてますし‥‥」
私は恵まれているんですと言って、笑う。
「他の姐さんとは違って、とても優しいですし。」
「‥‥ってぇことは、他の花魁は意地が悪いってことか?」
「それはもう。」
梓は悪戯っぽくそう答える。
こいつは良く相手を見ている‥‥俺は心底感心した。
普通の客にそんなことを言えば即問題になっただろうが、こいつは相手の俺がどういう性格かということをきちんと把握した上でそう素直に答えた。
しかも、重苦しい話にならねえように茶化すことも忘れずに、だ。
それから、
「桔梗姐さんでしたら、大丈夫です。」
「‥‥ん?」
梓は瞳を合わせて、その瞳に絶対の自信を込めて言う。
「あなたを裏切ったりしません。」
俺の気持ちにもしっかりと気付いてやがる。
厄介な、ガキだ。
ふっと苦笑が零れた。
「おまえは嫌いじゃねえが‥‥妙に聡いガキは苦手だ。」
「姐さんも、きっとそう仰ると言ってました。」
梓は、あの頃のよりも楽しそうにくすくすと笑った。
あいつは、俺を裏切ったりはしない。
梓の言葉通り、
あいつはきっと、どんなことがあっても俺を裏切ったりはしないだろう。
何があっても、
どんなことがあっても、
俺を信じて、
戦い続けるんだろう。
あいつは、俺を裏切ったりはしない。
裏切るとしたら、
恐らく、
――俺の方。
あいつの気持ちを踏みにじるって裏切るのは、
俺の方だ。
こんな‥‥浅ましい想いを抱いている俺に気付いたら‥‥
あいつは‥‥
今までのように隣にいてくれるんだろうか?

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