「まだ、怒ってるの?」
伺うように沖田が訊ねると、少し前をむっつりとした顔で歩く千鶴は当然です、と答えた。
その声はまだ少し掠れて聞こえる。
風邪は完璧には治りきっていないのだろう。
だからあんまり無理しちゃ駄目だよと早足になる千鶴の背中に向けようとしたが、止めた。
彼女が、怒ってるからだ。
「‥‥ひどいです。」
いや、拗ねている、と言った方が正しいのだろうか?
詰る声に寂しそうな響きを湛えて言われて、不覚にもきゅんときた。
千鶴はひどい、ともう一度言って、視線を地面に落としたまま続ける。
「私だって、さんのお見送りしたかったのに。」
別に今生の別れでもないし、一月も二月も離れるわけでもない。
しかしたった二日と言えど見送りをしたかったのである。
誰でもない大好きな姉が決断した事なのだから。
「‥‥ごめん。」
だけど、無理はさせられなかったんだよ、と言う尤もな言葉を飲み込んで大きく一歩を踏みだして後ろから抱きしめる。
往来だと言うのに千鶴は拒まなかった。
ひやりと冷気を纏う腕に抱きしめられ、もう一度だけ寂しそうな顔をしただけで、分かってます、と呟いただけだった。
沖田が自分の事を考えてくれたことは十分分かってる。
怒っているのは、恐らく自分に対して、だ。
それをちょっと八つ当たりをしてしまった事に恥じ入りつつ、千鶴は抱きしめる腕に甘えるように手を重ねた。
「が帰ってきたら、いっぱい文句言ってやろう?」
茶化すような言葉に、千鶴はふっとこの時になって漸く笑った。
病み上がりということで、今日は早めに家に帰るという事にして、沖田は家の前まで千鶴を送り届けた。
家に入りなよと言われても千鶴はなかなか頷いてくれず、かといって放って帰る事は出来ず、勿論こんな寒いところにい
させるわけもいかず、どうしたものかと考えていると、おや、と声が掛けられた。
振り返るとそこに、スーツ姿の男が立っている。
どこか千鶴と似ている顔立ちのその人は、
「お父さん!?」
彼女の父親のようであった。
沖田はすぐに頭を下げた。
「初めまして。
僕、沖田総司と申します。」
「‥‥沖田君‥‥」
そう言えば聞き覚えがあるなぁと記憶を探る父親に、沖田は真剣な顔で言い放った。
「千鶴さんとおつきあいさせてもらってます。」
決定的な言葉に、男親は少しばかり複雑な顔で、そうか、と返した。
因みに母親とは既に顔を会わせており「将来は千鶴を貰ってやってね」などと言われるほどの気にいられっぷりである。
沖田は頭を下げると、もう一度千鶴に向き直った。
「ほら、早く家に入って。
風邪がぶり返したら大変でしょ?」
ここで変に留まって心証が悪くなったら困る。
そうでなくても千鶴に早く家に入ってもらうのに丁度良い。
「‥‥はい。」
彼女は渋々と言ったふうな感じで答えて、漸く門から離れた。
それから玄関の扉に手を掛けて、もう一度だけ振り返る。
「沖田さん。
さんはいつ頃戻ってくるか言ってましたか?」
「‥‥正確には言ってなかったけど、二日くらい、で戻るって言ってたよ?」
気になるなら電話してみれば?と言うと、千鶴はそれが、と困ったような顔で頭を振って見せた。
「電話が‥‥通じないんです。」
「え?」
彼女の答えに沖田は眉根を寄せた。
電話が通じない?
彼はメールだったので気付かなかった。
どういうことかと首を捻ると、千鶴は心配そうに顔を曇らせる。
「雪村の本家‥‥って、もしかしたら山の奥のほうだからかもしれません。」
「え?」
彼女の言葉に驚きの声を漏らしたのは、意外な人物であった。
沖田も、それから千鶴も驚いたように目を丸くして、声を上げた人物を振り返った。
千鶴の父親である。
彼は目を見開いて、ちょっと待ってくれ、と声を上げた。
「‥‥が、本家にいるのかい?」
恐る恐ると言う風な問いかけに、沖田は千鶴と顔を見合わせる。
「‥‥そうですけど‥‥」
「なにか、問題でもあるの?」
沖田の肯定に、次の瞬間、彼の表情が絶望の色に彩られた。
「やられた――」
呻くように呟く言葉は、二人には全く理解の出来ない言葉だった。
「土方さん、荒れてんなぁ‥‥」
どすどすと苛立ったような足音を立てて職員室にやって来た彼に、永倉がうげぇと嫌そうな顔で呟く。
それもそのはずだ、と隣にいた原田が答え、
「と昨日から連絡が取れねえんだと。」
「え?でもって‥‥」
「今日は休んでる。」
いや、自由登校なのだから当然なのかもしれないが、毎日真面目に学校に来て自主勉強していた彼女が突然来なくなると
そりゃ気になるというもので、しかも連絡が付かない。
彼氏が、である。
これは大問題だ。
「総司に聞いたら、笑顔で『がいないとなにもできないんですか?』って言われたらしい。」
「‥‥そりゃ更に怒るわけだな。」
二人は揃って苛立ったように煙草を噴かす男を遠巻きに見る。
とりあえず、火の粉がこちらに来ませんように‥‥とか思いながら。
「それにしても‥‥彼氏に何も言わずに出掛けるなんて、どうしたんだろうな?」
これが他の女ならば「浮気か」とも勘ぐったものだが、相手はだ。
あれほど一途な女が他の男に目移りするはずがない。
「行き先くらい告げてってもおかしくねえと思うんだけどな。」
「だよなぁ‥‥」
がん、と嫌な音が聞こえた。
何をしているのかここからは見えないが、机を叩いたらしい。
目つきがヤバイ。
これは早々に退散した法が良いかも知れない。
「ったく、なんなんだよ!」
意味もなく悪態を吐きながら土方は書きかけの紙をぐしゃぐしゃにして放り投げた。
その瞬間、携帯が鳴り始めて、彼は素早くそれを拾い上げる。
からか‥‥と思ったのだが、希望は呆気なく砕かれ、今は誰より見たくない『沖田総司』の名前に顔を顰める。
一瞬出ないでおくかとも思ったが、文句の一つでも言ってやらないと気が済まなかった。
ぴ、と通話ボタンを押して「もしもし」と不機嫌そうに受けた瞬間だった。
ぶつ、
「っ!?」
嫌な音がして、重みが、消える。
元々携帯にストラップをつけるような男ではない。
それを着けたのはで、それを贈ってくれたのも彼女だった。
ストラップ一つを選ぶのに一週間も掛かったというくらい、悩みに悩んで贈ってくれたそれは、黒いレザー本体に控えめ
なチャームがついたものだった。
ちょっと可愛すぎるだろうと思ったが、使ってみると愛着が湧いた。それ以上に、彼女が自分のために選んでくれた‥‥
ということで気に入っている物だ。
そのストラップがぶつりと、
根本から切れたのである。
乱暴に扱ったつもりはないし、先ほどまでは千切れそうな気配もなかった。なのに、強引に引きちぎられたように、それ
はぶつりと切れていた。
まるで、引き裂かれるようで、
「‥‥」
何だか、急激に嫌な予感がした。
土方は携帯に耳をあて、ストラップを拾い上げながら「もしもし」ともう一度、今度は先ほどよりも低い声で告げる。
『が‥‥攫われたかも。』
沖田の神妙な声は、冗談を言っているようでは、なかった。

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