トンネルを抜けるとそこは雪国であった。
  川端康成の有名な「雪国」の冒頭と同じように、は長いトンネルを抜けた瞬間、一面が真っ白で驚いた。
  確かにトンネルに入る前も少しばかり雪がちらついていた。
  山のてっぺんは真っ白く雪に覆われていて、やはり東北は寒いんだなぁと思っていると、不意に真っ暗になって。
  そして抜けた先は今度は真っ白だったのである。
  まるで別世界に出てしまったかのような‥‥そんな感覚に陥った。

  「さっむー!!」

  新幹線を出た瞬間に出た言葉はそれである。
  は慌てて前を掻き合わせて、後ろに続いて降りてきた綱道を振り返った。
  「寒いです!」
  「ははは、東北だからねぇ。」
  のんびりとした口調で言う彼は慣れっこだというように呟いて、すたすたと歩き出してしまう。
  は今一度「寒い」と口にした。
  見慣れぬ故郷は、景色も空気も、とんでもなく寒い気がした。


  雪村の本家は、駅から二時間ほど車で走らせた山の麓にあった。
  その途中でうずたかく積み上げられた雪を見てこれはとんでもない所に来たものだと思ったが、車が止まった先を見て、
  それ以上にとんでもない所だと思ったものだ。

  「‥‥でか‥‥」

  目の前に佇む大きな屋敷を前に、は圧倒された。
  都会で一戸建てを持つ、というのは金持ちだと認識しているが、目の前のそれはその上を行く。
  ぐるりと塀に囲まれたそれは、とりあえずホテルですか?と聞きたくなるくらいの大きさがある。
  一家族が住むには広すぎるだろうそれをじっと驚きのあまりに目を見開いて見つめていると、いつの間にか門の傍に白髪
  の老人が現れていた。
  きちんと正装した、いかにも執事、と言った感じの老人は、こちらを見て何やらボタンを押した。
  その瞬間、重たい頑丈そうな門がゆっくりと開いていく。
  「‥‥ええと‥‥」
  門が開いてもなお、立ちつくしていると、白髪の男性がこちらへと近付いてきて、折り目正しくぺこりと頭を下げた。
  「お帰りなさいませ。
  お嬢様。」
  まさか自分がリアルに執事にそう出迎えられるとは思わなかった。
  「は、はあ‥‥」
  ただいま、というのもなんだか不思議な気がして曖昧に答えると、人の良さそうな執事は、どうぞ、と入るように促して
  くる。

  とんでもないところに来たもんだ‥‥

  そうもう一度思いながら老人の後に続くと、背後でもう一度ゆっくりと門が閉まる音が聞こえた。

  目の前にそびえ立つ洋館に、は意外だと呟く。
  雪村の家が代々伝わる‥‥と聞いていたので、完璧に和風だと思っていたのだ。
  なんというか、そのまま重要文化財になりそうな、日本家屋だと。
  まあ、目の前のそれも十分文化財になりそうではあるが‥‥

  「昔は日本家屋だったのですよ。」

  の頭の中をまるで読んだかのように、老人が教えてくれる。
  驚きのあまりに「ええ!?」と声を上げてそちらを見ると、彼はにこにこと柔和な笑みを向けてくれた。
  「大奥様が、こちらに立て替えられたのです。
  これからは西洋の文化を取り入れるべきだ、ということで。」
  「‥‥そうだったんですか‥‥」
  大奥様、というのが現当主だというのはここに来る道すがら綱道に教えて貰った。
  祖母は思ったより柔軟な考えの持ち主なのかもしれない。
  若しくは、時代を先読みしたか。

  「どうぞこちらへ。」

  感心してぼーっと突っ立っていると、執事が扉を開けてくれた。
  ふわりと香るのは、やはり自分の良く知らない香りだった。



  いちいち驚くのはもう馬鹿らしい気がする。
  そう思うほど、庶民では到底考えられない内装と、広さに、若干頭痛を覚えながらも通された広間の椅子でぐったりして
  いた。
  これまたアンティークな椅子で、値段を聞くのはちょっと怖い。そして座るのはもっと怖い。
  出来れば外で話をしたいくらいだ。
  床までなんだかお金が掛かっていそうで、踏むのが怖い。

  この中であの父がどうやって過ごしてきたのだろう?
  「お父さんはお弁当500円でやりくりするんだよ」
  と楽しそうに言っていた父が。果てしなく謎である。

  「‥‥んお?」

  ぐったりとしていると、ふと目に付いたのがこれまた渋い色合いの棚である。
  棚の中央部に、写真立てが並んでいたのだ。
  色あせたそれには二人の男の子と、一人の女性が映っている。

  「これ‥‥」

  恐らく、が両親を喪ったくらいの年齢だろう。
  幼い顔立ちの二人は、どこか似たところがあって、その内の一名はすぐにぴんと来た。

  「父さん‥‥」

  切れ長の瞳を持つ父親だが、その目はとても優しく‥‥きつさを微塵も感じさせない。
  恐らく纏う空気が柔らかいのだろう。見ているだけで幸せになるような、そんな空気を持つ彼はやはり写真の中でも笑顔
  である。
  そしてその横にいるのは、恐らく、千鶴の父親だ。
  口元が似ている。
  どちらかというと甘えた感じの表情の彼は、やはり弟という顔立ちだった。
  大人になってからはあまり似ていないと思ったけれど、幼い頃は結構似ているものだ。

  「‥‥‥」

  そしてその後ろに、二人の子供の肩を抱いて立つ女性。
  それが二人の母親なのだということはすぐに分かった。
  目の形や、唇の形など、二人の子供は女性からパーツの一つずつを貰ったかのように似ている部分があるのである。
  母と子供だけで記念撮影‥‥という所か。
  そういえば祖父は兄弟が生まれてすぐに他界したと言っていたから。
  しかし、何故だろう。
  親子水入らずという幸せな写真のはずなのに、母親の雰囲気が違う。
  幸せそうとは到底思えず、勿論表情は笑っているのだけど、その瞳だけがぎらついて見えた。
  なんだろう‥‥写真を通して何かを睨み付けているかのような。

  「。」

  「っ!?」

  唐突に名を呼ばれ、は思わず写真立てを落としそうになった。
  慌ててそれを胸に抱くと、勢いよく振り返った。
  そこに、

  「‥‥あ‥‥」

  胸に抱いた写真の女性がいる。
  正確には、その写真の女性のそのままではなく、写真の未来の姿。
  年老いた、とは言ってもどこか美しく、皺があるのが勿体ないという風な顔立ちである。
  若い頃は相当持て囃された事だろう。

  着物の女性を伴って車椅子で現れたその人こそが、現、雪村家当主『雪村千歳』である。

  どこか近寄りがたい雰囲気を持ったその人は、をじっと見ていた。
  瞳には、感情が浮かんでいない。
  なんとなく、歓迎モードではないのだろうかとは思った。

  「‥‥お久しぶりです。」

  それでも無言でいるわけにもいかず、椅子から立ち上がってぺこりと頭を下げる。
  「ろくに便りも出さずにすいませんでした。」
  祖母に敬語というのもあまりに素っ気ないだろうか?
  しかしながらタメ口を聞けるほどの親しみは感じないし、それ以前に何だか無礼な気がしてそう告げると、ふっと祖母の
  口元が歪んだ。
  「そんな畏まらなくても良いのですよ。」
  柔らかい笑みは、父親を彷彿とさせた。
  その瞬間に張りつめていたものがなくなり、はほっとしたように唇から溜息を零した。

  「元気にしていたかしら?」

  千歳は車椅子を自分で操作して、近付いてくる。
  それよりも先にが近付いた。

  「うん。」
  こくりと頷くと千歳の顔がくしゃりと笑いで歪む。
  皺が一層彼女の人の良さというのを表すような気がして、も目元を綻ばせて笑った。
  「おばあちゃんは?」
  おばあちゃん‥‥と呼んだのは初めてのことだ。
  呼んだ瞬間に、彼女の後ろに立っていた和服姿の女性がぎくりと肩を強ばらせる。
  失礼だったかと思ったが、千歳は嬉しそうに笑っただけだ。
  「ええ、元気でしたよ。」
  少しだけ、と彼女は自分の胸に手を当てて困ったような顔になった。
  「ここの動きが弱いかもしれないけれど。」
  「‥‥そう‥‥」
  は言葉に表情を曇らせた。
  折角出会えた祖母だというのに‥‥彼女が健康体ではないということを聞くと、なんだか心がもやっとした。
  不安、というのだろうか、哀しいというのだろうか。
  別に今すぐに彼女がどうにかなってしまうわけではないのに、どうして元気な時に来られなかったのかと悔やまれてなら
  ない。
  「‥‥
  良いのですよ。」
  そんなの気持ちに気付いたのか、千歳は皺だらけの手を伸ばして、その頬を包み込んだ。
  ひやり、と冷たいそれにわけもなく泣きそうになる。
  徐々に温もりを失いつつあるのではないかと不安になって、は自分の手をそれに重ねた。
  自分のそれを分け与えるように。
  を見て、千歳はそっと囁くように言った。

  「あなたは‥‥良い子に育ちましたね。」

  誇らしげな言葉に、は頷いた。

  「父さんと母さんが、育ててくれたから。」

  そう、と答える祖母は、少しだけ寂しそうに見えた。