が土方の家で過ごすようになって、三日が経った頃だった。

  「おまえの祖母さん、倒れたそうだ。」

  矍鑠とした老人だったけれど、元々心臓の方は強くはなかった。
  それなのに現当主として忙しい日々を送っていたせいなのだろう。
  千歳の身体は彼女が思っていたよりも悪くなっていた。
  機械でその命を長らえなければならぬほどに。

  「土方さん。お願いがあります。」
  その報せを聞いて‥‥は、



  大学付属病院の一室。
  完全個室VIP待遇の広々とした部屋に、千歳は一人でいた。
  ベッドの脇には大きな花束がいくつも並んでいるものの、人の姿はない。
  時折彼女の胸元から伸びたコードから続く大きな機械が「ぴ」と電子音を立てるくらいで、部屋の中は静かなものだった。
  広いベッドの上、千歳は座った状態でぺらぺらとアルバムを一人捲っている。
  色褪せたアルバムに映っているのは、彼女の最愛の息子達の姿。
  そして、そこで笑っている自分の‥‥

  コン、コン、

  と戸が二度ほど叩かれた。
  「はい。」
  来客の知らせに、千歳の声は固いものへと変わり、背は自然と伸びる。
  それは雪村頭首としての姿だった。
  無表情とも言える表情で出迎えたが、開いた扉から覗いたその姿にその双眸が僅かに見開かれる。
  「あなたは‥‥」
  この病室にやってくるのはほとんどが雪村の血族で、その全てが頭首のご機嫌伺いというやつだった。
  具合はどうか、とは聞くものの恐らく本気で彼女の身体の事を心配している人間はいないだろう。
  彼らの目的はただ一つ、頭首と親しくなる事で自分の地位を確立しようとしているだけ。
  その下心がありありと感じ取れ、千歳は些か面倒だとさえ思っていたのだが‥‥
  「よう、ばあさん。まだくだばってなかったか。」
  開口一番、そんなふざけた言葉を言ってのけるその男の姿に、千歳の双眸は細められる。
  彼女に「くたばっていなかったか」などと言う人間はいないだろう。雪村の中では。
  そんな事を言えばあっという間に雪村の家から追い出され、その恩恵を受けられなくなるのだから。
  まあ、もとより恩恵にもあやかっていない彼にはそんな事関係ないのだろうが。
  「何をしにきたんですか?」
  冷たい千歳の問いに、彼‥‥土方は手に持っていた花を一応掲げてみせる。
  「見舞いってとこか?」
  「あなたに見舞って戴く必要はありません。」
  お引き取りを、と千歳は言って視線をまた落とした。
  彼女にとって土方という男は憎い男でしかないのだ。
  を拐かし、自分から奪った憎い男でしか。
  それは土方とて同じ事で、千歳を見舞いたいという気分になどならないだろう。
  気まぐれなのか、それとも弱っていく自分をあざ笑いにきたのだろうか。
  後者だとしたら彼は随分と性根が腐っている。まあ、腐った自分になど言われたくないだろうけれど。

  「相変わらず、愛想のねえ婆さんだな‥‥」
  土方はひとりごち、ちろっと部屋の中を見回した。
  恐らく家から持ってきたのだろう、彼女が普段使う家具の一部も持ち込まれていて、これは病院も随分迷惑しているので
  はないかと思う程、部屋の中は勝手に弄くられている。
  しかし物が溢れているというのに、この部屋は酷く寂しそうだ。
  広いのに彼女一人‥‥だからなのだろうか?

  ぴ、

  とまた機械が音を立て、ちろっと土方はそちらにも目を向ける。
  医学的な事は分からないが、彼女の脈は少なく‥‥また時折一拍、心音が抜けるようだ。
  心臓の動きが弱まっているのだろう。
  人間というのは年を取れば筋力が低下する。
  心臓も同じく筋肉の動きで血を送り出しているのだから、筋力がなくなればその働きも鈍るというもの。
  このままでは彼女の心臓はやがて止まる。
  だと言うのに、千歳は心臓の手術を受けないと言うのだ。
  理由を聞いても教えてはくれず、ただ、自然に任せると言われて雪村の人間も困っている事だろう。
  なんせ次期当主さえ決まっておらず、何より彼女ほど一族を導くに相応しい人間はいないのだから。
  「手術は、受けねえのか?」
  「貴方には関係ありません。」
  呟きにぴしゃりと返ってきた冷たい声。
  確かにその通りだ。
  土方にはなんら関係ない。
  彼女が死のうが生きようが、そんな事関係ない。
  だが、
  「そういうわけにもいかねえんだよ」
  土方は呟いて、ごそっとポケットをまさぐる。
  指先に当たったそれを掌で包むと、そのまますたすたとベッドの傍まで近付いて、顔も上げない彼女の前にずいと『それ』
  を差し出した。
  邪魔だと言われるだろうと思ったが、彼女の目の前に。

  「‥‥なんですか?これは。」
  千歳の目が怪訝に細められる。
  差し出した男の手には似つかわしくない可愛らしい色の糸で織られたお守りが握られていた。
  それには『健康祈願』と書かれている。
  なんの嫌がらせだ、と千歳が顔を上げれば土方が口を開いた。

  「からだ。」

  『おばあちゃんに、このお守りを持っていってもらえませんか?』
  あの日、千歳が倒れたと報せを聞いたが口にしたのはこんな言葉だった。
  「俺の目を盗んで、買ってきたらしい。」
  もう孫ではないと、雪村から出て行けと冷たく言い放った祖母に、お守りを持っていって欲しいと。
  それを聞いたときには思わず怒鳴りたくなったものだが‥‥彼女にとって千歳は数少ない肉親の一人なのだ。
  そんな彼女が倒れたと聞いてはいても立ってもいられなかっただろう。
  だがきっと千歳は自分の顔など見たくないだろうと思ったから、だから、彼に託したのだ。

  「あいつは、今でもあんたのことを肉親だと思ってんだよ。」
  「‥‥」
  土方の言葉に千歳はただ黙する。
  冷たい瞳が僅かに揺れた気がした。
  人間のように、ゆらゆらと、頼りなげに揺れた気がした。
  それでも必死に取り繕おうとしているような気が。

  ああそうか。
  と土方は気付く。
  「やっぱり、あんたら、どっか似てるな。」
  苦笑混じりに、彼は呟いた。
  「そうやって‥‥必死に取り繕って自分の本心隠そうとする所‥‥」
  もそういう所がある。
  哀しい癖に、辛い癖に、必死に笑顔で隠そうとする所がある。
  今の千歳とそっくりだ。
  やっぱり、
  「ばあさんと、孫、だよな。」
  血の繋がった‥‥家族だなと彼は言った。
  彼女の血はに受け継がれている。
  彼の最愛の息子を通して、にも受け継がれている。
  家族なのだから当然の事なのだ。

  「‥‥ほら、受け取れよ。」
  些か気に障る言い方で土方が言うけれど、千歳は逆らわない。
  皺だらけの手を出せばその上にするりとお守りが落ちてきた。
  じんわりと暖かい気がするのは彼女の想いが込められているからなのだろうか?
  そんな馬鹿なと思うのに、温もりはしかと感じるのだ。
  の‥‥可愛い孫の温もりを。
  そして、優しさを。
  「っ」
  不意に、込み上げるものがあって千歳は口を覆った。
  ひくと変な音が唇から押し出され、身体が震える。
  なにかの発作なのかと思えば違う。
  苦しいけれど、辛くはない。
  痛くもない。
  ただ、心がすごく温かくて、仕方がない。
  ああこれは、嬉しいという気持ちなのだ。
  忘れていたけれど、嬉しいという気持ちだ。
  我が子を抱きしめたあの時と同じ、気持ち。
  それが溢れて‥‥胸を苦しくさせるのだ。

  「あ、そうだ。言い忘れてた。」
  そんな千歳を満足げに見て踵を返したはずの男が立ち止まる。
  「からの伝言だ。」
  お守りを彼に渡しながら、が言った。

  「『そう簡単にくたばったら許さないから』‥‥だそうだ。」

  意地悪くにやりと笑った男の目に映る千歳の顔は驚いたようなそれになって‥‥
  「本当に、あの子は息子によく似ているわ。」
  くしゃと皺だらけの顔が歪んだ。

  それは初めて見た、彼女らしい彼女の本当の笑顔だった。