「ナイスタイミング、山南さん。」
ぱちん、と指を鳴らす沖田に、土方は苦笑を漏らした。
ここぞという時に本当に力になってくれる男である。
とりあえず彼の人脈というのには感服せざるを得ない。
「これで、時間は稼げそうですね。」
あの堅剛な門を人の手でぶち破るのは難しい。
上ろうにも上部には高圧電流が流れているのだ。
刑務所か‥‥と突っ込みたくなるセキュリティである。
「っても、車で突っ込んできたらぶち破られるだろうが。」
「それなら問題なし、です。」
助手席で沖田がにこにこと邪気のない笑みを浮かべた。
どういう事かと視線で訊ねれば、
「さっき、時間があったから全部のタイヤを切ってきました。」
満面の笑みで、これで暫くは追ってこれない、と答える。
器物損壊‥‥間違いなく犯罪だ。
土方は一瞬目眩を覚えた。
下手をすれば懲役刑にもなる。
「拉致監禁する人に文句は言えないですよね?」
有無を言わせぬ鉄壁の笑顔。
無邪気とも言えるその笑顔の裏に悪魔を飼っているのを知っている土方は、やれやれと肩を竦めるだけに留めを後部
座席に下ろした。
まるで壊れ物でも扱うかのように優しくされて、は困惑すると同時に、愛しさが込み上げてきた。
愛されている‥‥それを実感できる。
雪村の家にいたときには感じなかった事だ。
身体の中には同じ血が流れているのに――
「待ちなさい。」
その時不意に、ざわめきをかき分けて声が聞こえた。
凛、と空気を張りつめさせるその声は、御年80になる老女が出したとは思えないほど、強い声だった。
車輪が回る音と共に人の波が開けていく。
まるでモーセの十戒だ、と土方は思った。
車椅子に座した老女は式に相応しい正装をしている。
その格好が、いつもにも増して威厳を放っているような気がした。
それこそ、固く閉ざした門でさえ彼女に恐れて開いてしまいそうな‥‥そんな錯覚さえする。
千歳はぎろりと鋭い眼光をへと向けた。
は微かに息を飲んだ。
威圧するようなそれに、少しだけ、怖いと思った。
「静香‥‥あなたは、雪村を見捨てるというのですか?」
静かな問いかけには隠しもせずに責めるような色を滲ませている。
「ごめんなさい。」
は謝った。
それは謝る事しかできなかった。
自分の幸せのため、とはいえ、雪村を捨てるのは本当の事だった。
には雪村を継ぐ義務があった。
何故なら彼女は雪村本家の人間だから。
それは分かっている。
でも、には出来なかった。
「ごめんなさい、私‥‥」
どうしても、好きな人を諦められなかった。
彼を諦めて他の男と一緒になるくらいなら、は死んでやろうとさえ思った。
生きていたって仕方ないから。
だって、にとって唯一望むのは彼と共にいることだから。
「私は、雪村を継ぐ事は出来ない。」
はきっぱりと拒否を露わにする。
それが義務だったとしても‥‥やはり、納得する事は出来ない。
多分、両親が生きていて‥‥彼らが同じようにに強いたとしても、は顔を縦に振る事は出来ないだろう。
「」
じゃりと、足袋のまま地面に降り立つ。
乗っていろと土方が口を開こうとしたが、その彼をはそっと押しのけた。
まるで自分を守る盾になるかのように、
は土方の前に立った。
「私、この人と一緒にいたいの。」
きっぱりと彼女の口から紡がれたその言葉で、土方がどれほどに安堵したか‥‥嬉しいと思ったか‥‥は知らないだ
ろう。
は今ある全てを放り投げてでも、自分と、自分だけど一緒にいたいと言ってくれたのだ。
それはどれほど、男を喜ばせ、そして幸福に縛り付ける言葉だったか‥‥
しかし、その言葉は同時に、千歳には気に入らない言葉であった。
何より自分が大事に守っていた『雪村』というものを捨てて、さして有名でもなんでもないどこぞの馬の骨とも分からぬ
男を選ぶなど、彼女には到底許す事が出来なかった。
「ならば、あなたはもう雪村の人間ではありません。」
何より、雪村の家を愛する祖母は、冷たい言葉を口にした。
ぎくりと、その言葉が放たれた瞬間、の身体が震えた。
血が、凍っていくような感覚があった。
「雪村の家を捨てるというのならば、あなたには雪村の姓を名乗る資格はありません。」
「‥‥」
「勿論、雪村の墓にも入れません。」
「‥‥それはっ」
はいやだと頭を振った。
雪村の墓に入れてもらえない‥‥ということは、両親と一緒になれない、ということだ。
つまりは彼女が愛する両親とは死後も別れ別れとなるということ。
怯えたような色を浮かべるを冷たく見据え、当然の事だと言わんばかりに千歳は続ける。
「雪村を捨てると言うのならば、二度と両親の墓にも参れない事を覚悟しておきなさい。」
「っ」
くしゃりと、は顔を歪めた。
彼女は両親の墓がどこにあるのか、知らない。
恐らく雪村が統治するどこかの土地にあるのだろう。
にとっては血を分けた肉親だというのに‥‥それの墓にも参れないと言うのだ。
二度と、彼らと時間を共有する事は叶わないというのだ。
は家を、名を、家族を一瞬の内に奪われた。
自分が納得できない形で乱暴に、奪われた。
大好きな人たちとのたった一本の繋がりを、断たれた。
「‥‥ら‥‥ない‥‥」
は、俯き、唇を噛みしめて呻くように零す。
細い肩が微かに震えた。
怒りからか悲しみからか、それ以外の何からか分からない。
ただ身体ががたがたと震えた。
家を名を、家族を奪われた彼女には『雪村』として存在する明確なものがない。
ぐらりと自分の存在が酷く曖昧なものになった気がした。
今すぐにでも消えてしまいそうな、そんな脆さを感じた。
それでも、
それでも、
「っ」
はきっと顔を上げ、千歳を睨み付けた。
憎しみや怒りはそこにはない。
ただただ、決然とした強い色が浮かんでいた。
「好きな人と一緒にいられないなら、雪村になんて未練はない!」
今この瞬間、は選んだ。
捨てる事を認めた。
まるできっぱりと、潔く、未練などないかというように。
だが、感じる人間には感じられた。
の叫びがどれほどに悲痛なものだったかを。
誰よりも家族を愛し、求めた彼女だからこそ、本物の意味での家族をいらないと口にすることがどれほどに苦しかったか。
どれほどに哀しかったか。
それを十分に理解できる人間は誰一人としていなかっただろう。
だが、彼女がその全てを断ち切って、たった一人になってでも、求めたいと言うのならば、
男が出す答えは一つ。
土方はを引き寄せ、抱きしめた。
自分を庇うように立っていた少女を腕に抱き、悪意の塊としか思えない彼らから守るように立った。
「っ」
優しい手が背中を抱いている。
その手は教えてくれた。
ここならばもう、心配する事はないと。
だからもう、頑張らなくて良いのだと、教えてくれた。
だからは、縋った。
今更のように込み上げる悔しさからか悲しさからか、溢れる涙を彼の腕の中でだけ零した。
ひくっと嗚咽を漏らすたびに細い肩が震えるのが分かる。
痛ましくて、同時に誇らしい。
土方はそっと睨め付けるように千歳を睨んだ。
「安心しろ。ばあさん。」
ひょいと口元が不敵に歪む。
まるで勝ち誇ったかのような笑みだ。
「あんたがいらねえと言ったこいつは、俺が貰ってやる。」
「っ」
「二度と雪村なんて名乗らせねえ。」
肩を抱く力が、一瞬だけ、強まった。
「は土方が貰い受けてやる。」

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