「あの、クソ婆っ」
  やんわりと屋敷から追い出された沖田は外に出るや否や、憤懣やるかたないという様子で思い切り毒づいた。
  隣にいる千鶴がその『クソ婆』と罵られた人の孫である‥‥という配慮も出来ないほど、彼は激昂していた。それも当然
  の事だ。
  一時は千鶴を寄越せと言われ、次の瞬間にはが跡を継いだからもう話はない、と一方的に言われたのである。
  しかも、最後の最後までには会わせてもらえず終いだ。
  これでは納得も出来ない。
  勿論、沖田以上に腹を立てているのは土方である。
  彼は拳をきつく握りしめ、先ほどからずっと黙っていた。
  口を開くと罵声が飛びだして、それと同時に周りにある全てを暴力で傷つけそうだった。
  彼の腹の中はぐつぐつと煮えくりかえって、誰もが手をつけられないほど熱くなっていた。
  一瞬、怒りで目の前が真っ赤に染まり、自分でも驚くような事をしてしまいそうだった。
  「私の‥‥せいですっ」
  そんな二人は、千鶴のその一言ではっと顔を上げた。
  振り返れば彼女は俯き、唇をきつく噛みしめていた。
  目にはいっぱいの涙を溜め、自責の念で顔は歪んでいる。
  見る者の心を、ひどく、苦しめるほどだった。
  「私が‥‥さんにあんな苦しい決断をさせてしまったんです。」
  千鶴は思った。
  どうして自分はこうも弱いのだろうかと。
  何故、自分は守ってもらうことしか出来ないのだろう。
  守ってもらわなければ満足に一人で立つ事が出来ないのだろう。
  同じ雪村の血を受け継いでいるのに‥‥どうして、自分はこうも無力なのだろう‥‥
  弱くて、弱くて、自分がいやになる。
  「ごめんなさいっ」
  ぐにゃりと世界が歪む。
  涙がぼたりと零れた。
  泣く資格なんかない。
  苦しいのはで、自分ではないのだ。
  泣く資格なんかないのに‥‥涙が止まってくれない。

  「‥‥‥」
  「‥‥」

  涙交じりの謝罪に、二人は顔を見合わせた。
  冷や水を浴びせられたかのように、身体が一気に冷えていくのが分かった。
  辛いのは、皆同じだ。
  自分ばかりが辛いと、苦しいと、許せないと思っていたけれど、皆、同じ。
  そしてなにより、その罪を重く感じているのは千鶴なのだ。
  が、雪村を継ぐと決めたのは間違いなく千鶴が原因だろう。
  『を解放する代わりに、千鶴に身代わりになってもらう』
  恐らく、そんな風に言われたのだろう。
  直接的じゃなくとも、彼女は真意はそうであると理解した。
  だから、は受け入れたのだ。
  千鶴を守るために――

  「‥‥そういう、女、だよな。」

  土方はぽつりと、どこか諦めたように呟いた。

  彼が惚れたという人間は、大切な人を犠牲にして自分だけが幸せになるなんて出来ない女だ。
  自分の大事な人が犠牲になるくらいならば自分が‥‥と思ってしまう女だ。
  だから、彼は守ってやりたいと思った。
  そんな不器用な彼女を。
  自分くらいは守ってやりたいと。

  「‥‥‥‥」
  土方はじっと、地面を見下ろした。
  頭が一気に冷静になっていく。
  怒りに囚われて喚いた所で、何も変わらない。
  怒りや涙で訴えた所できっと冷笑を浴びせられて終了だ。
  あの殺してやりたいくらいに憎い『くそ婆』を殺してを奪い返せるものならば、やってやる。
  でも、そうした事では喜ぶか‥‥と聞かれれば、答えは『NO』だ。
  彼女は土方が犯罪に手を染める事を望んではいない。
  だから、それ以外の方法で彼女を奪い返さなければいけない。
  腐っていても始まらない。
  ふて腐れた所で‥‥時間は無駄に過ぎて気付けばもう奪い返せない所まで進んでしまう。
  怒っている場合ではない。
  今はとにかく、彼女をなんとしてでも取り戻す事。
  その為には‥‥彼は考えなければいけなかった。

  「‥‥土方さん。」
  彼らしくもなく、沖田が弱々しく呼んだ。
  なんだその情けない顔は‥‥と彼は言いかけ、さっきまでは自分も同じような情けない顔をしていたのを思い出して、頭
  を振って、やめた。
  その代わりに、
  「‥‥いくぞ」
  土方はじゃりと大地をしっかりと踏みしめて告げた。
  どこへ?
  そう訪ねる声は掛からない。
  その代わり、彼らはついてもこなかった。
  土方は振り返り、二人を挑発するような意地の悪い眼差しで見つめて、
  「なんだ?もう諦めちまうのか?」
  と訊ねた。
  二人は困惑したように顔を見合わせた。
  諦める。
  それも手なのかもしれない。
  もうこれ以上引っ掻き回してを傷つけない方がいいのかもしれない。
  希望をまた与えて、絶望の淵へとたたき落としたらは今度こそ、二度と立ち上がれない。
  それよりもまだ、傷が浅い内に身を退くべきなのかも。
  でも、それは出来なかった。

  「俺は‥‥諦めねえぞ。」

  例え一人になったって、彼はへと手を差し伸べ続けると宣言した。
  何度だって伸ばして、伸ばして、
  がその手を掴むまで、彼は諦めない。
  絶対に。
  掴んでやる。
  彼は決めた。

  「俺だけは、絶対に何があっても、諦めねえ。」

  その声には不思議と絶対的な自信が込められている。
  前も後ろも八方塞がりという状況なのに、どうしてそうも言い切る事が出来るのだろうか。
  不思議だった。
  だが、

  「‥‥っ、私もっ」
  千鶴は慌てて駆けだしてきた。
  「私も、お手伝いさせてください!」
  さっきまで絶望感に打ちのめされていた彼女の面影は、どこにもない。
  強く、真っ直ぐな眼差しを土方に向けて千鶴は言った。
  自分は弱い。弱いけれど、その弱さを嘆いた所で始まらない。
  弱いならば強くなればいい。少しだっていいから強くなれば‥‥もしかしたら何かが変わるかもしれない。
  千鶴は思った。
  だから、立ち上がろうと。
  「‥‥‥」
  そんな彼女に先を越され、沖田は決まり悪そうに視線を逸らし、がりがりと後頭部を掻いた。
  それから全てを放り投げて、諦めていた先ほどの自分が急に恥ずかしくなって、あーもう、とやけくそ気味に叫んだ。
  「こうなりゃ、僕も最後まで付き合いますよっ」
  「総司‥‥」
  「沖田さん。」
  じゃりじゃりと地面を踏みしめながら近付いてくると彼はひょいと肩を竦めて面白く無さそうな顔で吐き捨てる。
  「やられっぱなしは性に合わない。」
  「そうだな‥‥」
  「絶対に、ぎゃふんと言わせてやる。」
  沖田はにっと、漸く人の悪い笑みを浮かべた。
  何をしでかすつもりかは分からないが‥‥今回ばかりは土方も止める気はなかった。
  「盛大にやってやれ。」
  と苦笑で零すと沖田は「言われなくても」と答えた。

  あと、数日。
  彼女が無理矢理結婚をさせられるまでにはあまり時間はない。
  そこまでどう足掻けるか‥‥分からない。
  でもだけど、

  「やってやろうじゃねえか‥‥」

  土方はどこか楽しげにさえ笑って、そう呟くのだった。