もう、自由の身だ‥‥と叶絵は言った。
  雪村は千鶴が引き継ぐのだからはもうここから出ていっていい、と。
  でも、そう言いながら彼女はそこから一歩も動く事はなかった。
  彼女を自由にすると言いながら‥‥道を譲らなかった。
  が、自由になる道を。一歩も。

  分かっていたからだ。
  の、答えを。
  全て、分かっていたから。
  彼女が、
  自由になる事など望まないと。

  「っ」

  はぎりりと奥歯を噛みしめた。
  悔しいと思った。
  目の前に自由になる道は確かにあるのに。
  でも、その目の前で叶わない事を突きつけられてしまった。
  卑怯な方法で。
  一番、が苦しむ方法で。
  自由か‥‥もしくは永遠の服従かを選ばされた。
  自由を望めば必然、は千鶴を失う事になる。
  千鶴を失う事は結果、沖田をも苦しめる事になる。
  いや、沖田だけではなく薫だって、彼女の両親だって、傷つく事に。

  だけど一方の自分は身軽なものだった。
  両親は他界して、身内はいない。
  身体一つだ。
  悲しむ人だって、千鶴よりも少なくて済む。
  それになにより、これは千鶴の問題ではなく、自分の問題だった。
  彼女は巻き込まれたに過ぎない。
  そんな彼女に、全てを押しつけて自分だけ自由になるわけにはいかなかった。

  は叶絵の後ろに続く道を、じっと見つめた。
  切望するほどに。
  ここを抜け出せば、彼に会える。
  その先には幸せな未来が待っているに違いないのだ。
  高校を卒業したらもう誰に憚ることもなく彼と付き合う事が出来る。
  ゴールは目前だった。
  彼はそれを待ち望んでくれていた。
  付き合って一年半‥‥彼はずっと待ち続けてくれた。
  その未来が、もうすぐ手にはいるのに。

  「‥‥」
  琥珀が、閉ざされた。
  瞳には深い絶望と諦めの色が強く浮かんだ。
  彼女の瞳から、光が消えた瞬間だった。
  は言った。

  「わかり、ました。」
  全てを投げ捨てたその声は、力がなかった。
  「雪村は‥‥私が継ぎます。」

  目の前で、自由への道はぶつりと無惨に途切れて、消えた。



  繰り広げられる些か喧しいやりとりを千歳はただ無感情に見つめている。
  馬鹿馬鹿しかった。
  沖田が殺すと叫ぶ事も、それを土方が取り押さえる事も、そして、千鶴が自分が犠牲になると言い出す事も。
  全てが愚かで、馬鹿馬鹿しかった。
  どうしてそこまで熱くなる事があるというのだろうか。
  どうせ決まっている事なのに。
  彼らが叫んだ所で決まっている事なのに。
  千鶴が健気に身代わりになると申し出た所で、未来は全て決まっている。
  そう、自分が描いたシナリオ通りにただ進んでいるだけなのに。
  彼ら愚かな役者は自分が踊らされている事に気付かない。
  気付かず、無駄に喚いて体力や精神力というものを消耗していくのだ。

  ただ、と千歳は思う。

  私が雪村を継ぐ‥‥と言った時の千鶴は悪くなかった。
  彼女など雪村の器には到底なりえないと思っていたというのに、あの強い眼差しやどこか人を惹きつける力というのは
  に似たものを感じる。勿論、彼女ほどの大した器ではない。
  それでも彼女は磨けば光る原石のような気がする。
  惜しい気がした。
  千鶴を脇役に徹しておくのは些か、勿体ない気が‥‥

  しかし、
  「大奥様」
  静かに扉が開き、叶絵が滑り込んできた。
  そうして彼女は千歳に近付くと、そっと耳打ちをする。
  にやり、と千歳の唇が歪んだ。
  それは絶対的な勝利を示す言葉だった。

  「残念だけど‥‥皆様お引き取り願えますかしら?」
  千歳は気味が悪いくらい、上機嫌な笑みを浮かべて言い放った。
  「それは出来ないね!まだ、話は終わってないんだよっ」
  一方的な言葉に、勿論沖田は反論する。
  ここで退いてしまえば千鶴は彼女らに囚われてしまうと思ったからだ。
  そんな沖田を見て、千歳は目元を綻ばせる。
  「安心してちょうだい。千鶴を無理矢理あなたから奪ったりはしない。」
  「‥‥どういう、こと?」
  彼らは困惑した。
  さっきまでは千鶴を時期当主によこせとか言っていたくせに、何故急に掌を返すというのか‥‥
  「千鶴には申し訳ないけれど、先ほどの取引はなかったことにしてもらいたいの。」
  千歳はき、と車椅子を動かして背を向ける。
  その後に叶絵が続いた。
  「ちょ、ちょっと待ちなよ!話は終わってないって言ってるだろ!」
  どういうことだよ、と沖田は叫んだ。
  煩い声だ、と叶絵は睨み付けるように振り返ったが、千歳は振り返りもしなかった。
  背を向けたまま、冷たく、言い放った。

  「が、雪村を継ぐ事を約束してくれました。」

  が、
  雪村を継ぐ事を、
  約束、
  した。

  つまりそれは――

  雪村家が決めた男と結婚をすると言う事。
  そしてそれは――

  土方とは、永遠に会えないということ。

  「ちょ、っと待てよ!」
  自分でも反応が遅かったのは分かっている。
  その一瞬自分が衝撃を受けている間にも千歳は部屋から出ていこうとしていて、話は強制的に終わってしまうという事を。
  「ふざけんなっ、一方的に言われて納得できるわけがねえだろうが!」
  土方は叫んだ。
  そんなの納得できるわけがない。
  本人の口から何も言われずに勝手に他の人間から代弁をされても納得できるわけがない。
  「に会わせろ‥‥俺たちを納得させたきゃ、あいつに直接話をさせろ。」
  ずかずかと大股で千歳に近付いていくが、彼女は振り返らなかった。
  そうして彼が千歳の元に到達する前に左右の扉から出てきたいかにもがたいの良い数人の男に阻まれる。
  「ってめえら‥‥」
  男たちはぐるりと三人を囲み、身動きが取れないようにしてしまった。

  がちゃりと戸が開く音が聞こえる。
  千歳であった。
  聞こえよがしに、彼女は言った。

  「さあ、あなたたちはあなたたちのあるべき世界へ戻りなさい。」

  その言葉はまるで‥‥と土方の住む世界は違うのだと言われたような気がした。
  同じ、この世界にいるというのに‥‥