こつん。
放課後になると「千鶴ちゃんの所に行ってくる」とふらりと沖田が部屋を出て行ってしまい、一人進路指導室に籠もって
苦手な古典の問題集をひたすら解いていた。
問題を見ながら「やばいここ出てたら私落ちてる」と小さく呟くと、こつんと頭を軽く叩かれた。
「随分と勉強熱心なんだな。」
という苦笑交じりの言葉に顔を上げればそこに、
「土方先生!?」
やはり苦笑に顔を歪めた彼の姿がある。
もう放課後になったのだから彼がここにいてもおかしくはないけれど、ここは彼の仕事部屋である資料室とは違う。
どうしてここにと目を丸くすると、
「おまえの事だから、もう浪人の事でも考えてんじゃねえかなと思ってよ。」
そう告げながら手に持っていた問題集をひょいと奪った。
残念な事に、彼氏は古典の教師だというのに彼女は古典が大の苦手だ。
授業も真面目に聞いていたし、彼女という特権で特別授業もしてもらっている。
だというのに申し訳ないなぁと思っていると、彼は問題集をぺらぺらと捲りながら、で?と訊ねてくる。
「試験はどうだった?」
「‥‥結果は来月です。」
「来月だってのに、おまえはもう落ちた気分でいるってのか?」
「そうじゃないけど‥‥」
は肩を竦めた。
必ず受かると、沖田みたいに楽観視しているわけではないが、自分など絶対に受からないと悲観的になるほどネガティブ
ではない。
そもそもそんなことを思うくらいなら有名な国立大学など受けようとも思わないだろう。
自分の学力ならばいけると思ったから受験したのであって、その為に努力も‥‥した、と思う。
足りているかどうかは分からないけれど。
「あれだけ頑張ったんだから大丈夫だろ。」
視線を落としてしまうに土方は言った。
彼は決して気休めを言わない人間なので、その言葉は真実に近いのだろう。
何より彼はの実力を知っているし、彼女がどれだけ頑張ったかというのも知っている。
運という意味でも、彼女は恐ろしくあると思うのだ。
「‥‥そんなに深刻に考えるなって。」
「でも、落ちたら?」
「そりゃそん時考えるってことでいいだろ。」
ぱたん、と土方は問題集を閉じてしまった。
はそんな男を呆れたような顔で見て、
「‥‥先生って‥‥たまにすごく楽観的ですよね。」
普段は慎重なのにと苦笑で言うと、土方はひょいと肩を竦めて言う。
「まだ結果の出てねえ事をあれこれ考えるだけ馬鹿馬鹿しいだろ。」
「馬鹿馬鹿しいって‥‥」
「落ちたら落ちた時に考えりゃあいい。
つか、それ以外にどうしようもねえじゃねえか。」
「‥‥まあそうなんだけど‥‥」
今更足掻いた所で試験の点数が上がるわけでは無いことは分かってはいるんだけど‥‥
「まあ、あれだ。」
土方は難しい顔で考え込む彼女に言った。
「もし受験に失敗したら、就職すりゃあいい。」
「‥‥高卒の人間がどれだけ就職するのに困難か知ってて言ってます?」
学歴が必ずしもものを言うわけではないけれど、なんの資格も持っていない普通科の高校生が簡単に職につけるわけがない。
せめて大学で専門的な知識なり、資格なりを手に入れなければこの氷河期では職に就くことはできまいて。
そう、高校生である自分も知っているのに日々、学校に来ている求人情報を見ている教師が知らないはずがない。
だというのに何故そんな事を言うのだろうか?
「別に会社に入るだけが就職じゃねえだろ?」
首を捻るに土方は言った。
ほら、あれだ、と何故か言いよどむ彼には首を捻って、なんですか?と訊ねる。
なんですかと聞かれて土方は思いきり不満げに眉を寄せた。
「‥‥わかんねえのか?」
「‥‥漠然としすぎて分かりません。」
彼女の返答に、はふ、と彼は溜息を漏らす。
「おまえって‥‥時々すげぇ鈍いよな。」
失礼だ。
は憮然とした面持ちで睨めば、彼はぽいっと問題集を放り投げてしまった。
それは借りて帰るつもりだった。
は何をするんだと文句を言いながらぽふっと長椅子に乗っかったそれへと手を伸ばす、が、
「わ?!」
ぐいと腕を掴まれて、引き寄せられて阻まれる。
驚きに声を上げた彼女の身体はとんっと棚に押しつけられた。
「っ!?」
そして、そんな彼女を捕まえるかのように、彼の身体が迫る。
両手を彼女の身体の脇について、迫れば、あっという間に距離は縮んだ。
ふわりと彼が愛飲している煙草の香りが微かにして、どきりと胸が高鳴る。
これだけ近いと彼に伝わってしまうのではないかと冷や冷やした。
「な‥‥なに?」
極力平静を装ったが、声が強ばった。
ついでに顔も、だ。
なんだよ、そんな顔をされたんじゃ俺が悪者みてえじゃねえかと土方は内心で面白おかしく呟きながら、なあ、と少しだ
け声音を変えて彼女に告げる。
甘く、彼女の欲を煽るようなそれで。
「‥‥試験も終わったんだし‥‥今日は、いいよな?」
なにが。
は思いっきり心の中で突っ込んだ。
口にはしない。したら、恥ずかしい言葉を羅列されて、なおかつ了承までさせられてこちらが自爆だ。
は慌てて視線を落として、ああそうだ、と取って付けたように口を開く。
「今日は、千鶴ちゃんと約束があったんだっけ。」
「千鶴なら、さっき帰ったぞ?」
「‥‥あ、間違えた。一と約束してたんだ!」
「斎藤は暫くは委員会の用事で抜けられねえはずだが?」
「そ、そうだ!千姫さんだ!」
彼女と約束があるから、だから行かないと。
とこう明らかにバレバレな言い訳を口にする彼女に、土方は更に距離を縮めた。
お互いの胸が、微かに触れる。
その微かに当たっている感じがとんでもなくいやらしく感じると言えば、彼女は恥ずかしさのあまりに怒り出すだろうか
ら止めておいた。
代わりに、
「こら」
と優しく叱る。
はぎくっと肩を強ばらせて、ついでに目を閉じた。
真っ赤な顔で、そんな怯えた風にされると‥‥男の理性というのはぐらぐらと揺らいでしまう。
ただでさえ彼女の将来が掛かった試験ということで、土方はここ二月ほど彼女とはまともに顔を合わせていない状態だっ
たのだ。
こうして触れることもましてや話すことさえ出来ず、電話もなければ、メールだって、数回だ。
勿論、土日も試験勉強で潰れた。
つまりは二月振りに彼女に触れることが出来るのである。
「俺がどれだけ我慢したと思ってんだ?」
受験は確かに大事な事だが、それはの理由。
それを嫌な顔一つせずに、彼は辛抱強く待ってくれたのである。
それだけではなく、試験勉強まで付き合ってくれたし、オススメの問題集というのを教師の伝手を使って色んな所から取
り寄せてくれた。
「‥‥ご‥‥ごめんなさい。」
は思わず視線を落として謝った。
欲しいのは謝罪ではない。
土方はくつと笑うと、柔らかい髪にそっと口づけを落とす。
それ以上は、ここでは、しない。
それが分かっているは安堵しつつ、そこに安堵した事に申し訳なさを感じつつ、その、と視線を上げた。
真っ赤な顔で、おっかなびっくりといった風に、上目に見遣る。
どんな強烈コンボだよと土方はくつりと喉を震わせて困ったように笑い、
「駄目か?」
と訊ねた。
こちらも狡いと言わざるを得ないくらい、色っぽい眼差しで、優しい声で問われて、はううっと小さく呻いた。
こんな時にいつも白旗を挙げるのは、
「‥‥わ、かった‥‥」
の方だ。
答えて恥ずかしそうに瞳を伏せる彼女に、愛おしさが募って土方は心底嬉しそうに笑った。
そうしてもう一度ちゅ、と優しく彼女の髪に口づけると、
「今夜は覚悟してろ。」
たっぷりとお預けを食らった鬱憤を晴らさせてもらうからなという言葉には前言撤回と喚いたが、聞き入れられたか
どうかは謎である。

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