約束の時間ぴったりに、土方は門の前に立っていた。
  チャイムを鳴らして待つ事、数秒、
  『はい』
  モニターに昨日見た白髪の男が映し出される。
  「こんにちは。先日、こちらにお邪魔させていただきました土方と申します。
  お約束をしているんですが‥‥」
  『お待ちしておりました。
  どうぞ中へ‥‥』
  と老人が言って手を伸ばす。恐らく門の開閉をさせるスイッチだろう。
  それを押して開く前に、すいません、と土方は付け加えた。
  「さんの話をするにあたって二人、生徒を中に同行させてもよろしいでしょうか?」
  『‥‥』
  執事は一瞬だけ、躊躇うような間を見せる。
  そして、
  『構いません。』
  どうぞ、という声と共にがちゃりと音が聞こえ、重厚な扉がゆっくりと開いていった。

  完璧に扉が開ききると、モニターから映像が消える。
  じゃり、という足音が聞こえて首だけを振り返ればそこに当然のように沖田と千鶴の姿があった。
  「さて‥‥おまえら覚悟は出来てるか?」
  土方は意地の悪い笑みを浮かべる。
  何を今更と可愛くない答えを吐いたのは当然、沖田だ。
  「土方さんこそ、怖かったら帰っても良いんですよ?」
  僕一人で何とか出来ます、という言葉に土方はくつくつと喉を震わせて笑った。
  「だれが」
  そうしてその双眸に強い色を湛えてぎろりと屋敷を睨み付ける。

  何も怖い物などなかった。
  脅しも、暴力も、彼にとっては怖いものではなかった。

  ――彼女を永遠に失ってしまう事以上に、彼に怖いものなど何も、ない。


  「私が雪村の祖母、雪村千歳でございます。」

  通された応接室。
  アンティークなソファに気後れすることなく腰を下ろして待つ事数分、奥の扉から車椅子の老女が現れた。
  一目見ただけで、その人が雪村家の現当主である‥‥ということは分かる。
  彼女が纏う異質とさえ感じる、その高貴な雰囲気。
  見る物を惹きつけると同時に圧倒させる、独特の空気を彼女は持っていた。
  人の上に立つ人間とはこうも空気が違うものなのだろうか‥‥

  「突然お邪魔しまして申し訳ありません。
  薄桜学園の教頭、土方と申します。」
  彼は立ち上がって頭を垂れた。
  沖田と千鶴も立ち上がる。
  「この二人はさんの友人です。
  どうしてもと言う事で同席させましたがご容赦下さい。」
  「構いません。」
  千歳は沖田と千鶴とを見遣る。
  冷たい刃のようなそれに見られて千鶴はぎくっと身体を強ばらせた。
  彼女ものように本家を離れて久しいため、顔を見るのは数回しかない。こうして直接対面するのは初めてだ。しかし
  身内、だというのに、怖い、と思った。そう思った事を恥じればいいのか、驚けばいいのか、千鶴には分からない。
  「お座りになってくださいな。」
  その言葉に沖田にそっと肩を叩かれるまで、彼女は息さえ出来ずにいたらしい。
  びくっと身体を震わせて、座る。
  顔色は青い‥‥やはり連れてくるべきではなかっただろうか?
  千歳が車椅子をテーブルの傍につけると、そのタイミングを見計らって執事が用意していた茶を持ってきた。
  日本茶かと思えば、紅茶であった。
  「‥‥ありがとうございます。」
  土方はぺこりと執事に頭を下げる振りをして、ちらっとあたりに視線を向ける。
  思った通り‥‥はここにはいない。まあ当然だろう。
  千歳はを半ば誘拐するようにして連れていったのだ。
  ここに彼女を連れてきてあることないことを吹き込まれても困るし、逃げ出されても困る。
  だから彼女は別室に閉じこめられているのだろう。
  この屋敷の、どこかに。
  おそらくは‥‥千歳が入ってきたその扉の、向こう側。

  「それで、孫のお話、というのは‥‥」
  千歳は早々に話を始めた。
  あまり長居をしてほしくないのだろう、というのがありありと出ていた。
  そういえばわざわざ教頭である彼がここに来るほどの事、というのは何なのだろうか、と千鶴は思う。
  屋敷に入るための嘘‥‥というのは分かっている。
  しかし、下手な事を言えばつまみ出されるし、二度と入れてくれなくもなるだろう。
  何か考えがあるのだろうか?
  ちろりと不安げに彼を見ると、彼は臆した様子もなく五指を組んで、実はですね、と切り出した。
  「このままでは雪村さんは『留年』してしまうということをお伝えしたくてお邪魔いたしました。」
  「っ!?」
  彼の口から飛び出した言葉に千鶴が驚いたように目を見張った。
  口から出任せ‥‥にも程がある。
  の名誉のために言っておく。
  彼女は授業態度も悪くなければ、試験の点数だって悪くない。
  そもそも留年するくらい成績と内申が悪ければ一流大学を受けようなどとは思わないはずだ。
  ほとんどの教師から「なら」と太鼓判を押されるほどなのである。
  彼女を救出するためなのだろうがそんなこと少し調べればすぐに露見してしまう。
  「うちの孫は成績優秀だと聞いておりますが?」
  勿論、そんな事は調査済のようで、千歳はにこりと口元に柔和な笑みを浮かべて見せた。
  笑顔ではあるけれど瞳には見下すような色が見える。
  この青二才が、嘘をつくならもっとマシなものを吐け、とでも言いたげなそれだ。
  まさか救出劇はこんなにすぐに終わってしまうのかと千鶴が青ざめた時、そっと隣の沖田が見えないように彼女の手を取
  って、握った。
  『大丈夫』
  まるで、そう、彼女に伝えるように、きゅっと握った。

  にこり、と土方の笑みが更に深くなる。
  眼光がぎらりと、光った。

  「ご存じないでしょうが‥‥彼女は2年の冬に一月ほど授業を休んでいた事がありましてね‥‥」

  言葉に千鶴は弾かれたように顔を上げた。
  一月ほど授業を休んでいた事があった。
  そうだ。
  そんなことがあった。
  原因は今その事実を告げている彼だった。
  別れようという一方的な言葉にショックを受けた彼女は授業をサボっていた。
  「それが、私に授業でして‥‥」
  そう、彼の、古典の授業。
  あわや留年‥‥という程に休んだのだ。
  だがぎりぎり留年を免れるくらいは日数が足りていた。
  だから3年生に進級できたのだ。
  それにそれは2年生の時の話で‥‥

  「雪村さんは優秀な生徒さんでしたから、校長と私とで話し合って、大学受験が終わってから補習を受けるということで
  ひとまず3年に進級させていただきました。」

  しかし、彼はにこりと、微塵も迷った様子もなく言ってのける。
  さすが詐欺師だと沖田は内心で舌を巻いた。
  そういう事が許されるのかどうかは分からないが、学園で二番目の地位である教頭が言うのならば信憑性は高くなる。
  嘘は一気に真の色へと変わっていくのだ。
  「ですが、このまま冬休みに補習に来て戴かないと留年は免れません。」
  難しい顔をして言う彼に、千歳はそうっと双眸を細めて笑う。
  心底楽しげに。
  「なるほど‥‥お上手ですこと。」
  彼女は嘘を見抜いて、笑った。
  見抜かれる事は分かっていた‥‥しかし、突き続ける。
  それがあたかも真実のように。
  「分かりました。
  には補習を受けさせます。」
  言葉に千鶴はほっと溜息を零した。
  しかし、土方も沖田もその顔から緊張の色を消さない。
  「ただし。」
  千歳は瞳に冷たい色を湛えて、言い放つ。
  「補習はこの邸の中で受けさせます。」
  「‥‥‥」
  そう来ると思った――
  土方は内心で呻いた。
  この嘘が通ったとしても、彼女がを外に出すわけがないと。
  「それは困りますね‥‥補習は家で受けてもらうものではありません。」
  さも困った口調で零せば千歳の笑みは深くなった。
  「あら、補習なんて、自習のようなものでしょう?
  ひたすら問題を解くだけなのだから。」
  ――悔しいが、その通りだ。
  奥歯をぎり、と一度咬んだ。千歳は畳みかけるように続ける。
  「出来の悪い子ならばいざ知らず、あの子なら一人で出来ます。
  だから一流の大学への進学をあなたも勧めた‥‥違って?」
  「‥‥‥‥‥‥‥その通りですね。」
  認めた瞬間、沖田が失望の色を彼に向ける。
  睨まれたけれど、彼はちろっと沖田を見て「落ち着け」と口だけを動かして伝えた。
  ここでああだこうだとごねたって千歳には通用しない。
  相手のペースに乗せられて熱くなったのでは、勝ち目はないのだ。
  もし相手が「二度とここには入れない」と言えば途端に道は閉ざされる。少しでも希望がある内は、従うしかない。
  今はまだ。
  「では、明日、用意した問題集を持ってこちらに寄らせていただきます。」
  「ええ、お願いいたします。」
  「明日も、申し訳ないですがこの二人を連れてきても構いませんか?」
  「構いませんよ。」
  にこりと千歳は笑った。
  歓迎の「か」の色も見えない笑顔で。

  隙のねえ婆だ――

  土方は内心で呟き、今日は完璧に負けだな、と思いながら腰を上げる。
  そこへ声が掛かった。

  「土方さんと仰いましたね。」
  「‥‥‥はい。」
  そうですが、と答えて真っ直ぐに目を見返す。
  彼女は紅茶を一口、啜り、私、聞きましたの、と切り出した。
  「去年、あの学校にいらっしゃった一橋理事長に、色々と。」
  ねっとりと粘つくような口調で『色々』という場所を強調してみせる。
  紫紺がすいと細められた。
  既に記憶の中から抹消していたあの女の名前を、こんな所で聞くとは思わなかった。
  この老女の口から。
  いや、この老女の口から、だから出てきたのかも知れない。
  「あなた‥‥あの時、私の孫を庇って怪我をされたようですわね。」
  あの時の傷は大丈夫?とわざとらしく気遣うような問いかけに土方はにこりと笑みを浮かべた。
  「何をあの人から聞いたか分かりませんが‥‥生徒を危険にさらさせるような人間の言葉はあまり鵜呑みにされない方が
  良いと思いますよ。」
  「‥‥でしょうねぇ‥‥」
  ふふふ、と千歳は笑い、もう一口を含む。
  そうしてくるくると紅い液体をカップの中で揺らして、静かな声で唐突にこう告げた。

  「昨夜、あの子を雪村の人間に抱かせました。」