タイムリミットまであと、5日――

  翌朝。
  龍之介は広間にやってくるようにと言われてやって来た。
  昨夜の騒動があって、あまり眠れなかった。
  またが襲われるのではないか‥‥そう思うと神経が高ぶって‥‥小さな物音一つで彼は飛び起き、廊下の様子を伺っ
  たけれど、結局あの後、彼女の部屋にやってくる人間はいなかったらしい。
  朝になって漸く眠気がやってきたけれど、呼びだされて眠っているわけにはいかない。
  というのも、彼を呼んでいるのは雪村家の当主、千歳だというのだから。

  「あ‥‥」

  欠伸を噛み殺しながら広間の戸を開くとそこに先客がいて驚いた。
  である。

  「お‥‥」
  思わず昨夜の情景が脳裏に浮かび、固まってしまう龍之介に対し、は振り返ると手を挙げて、
  「おはよ。龍之介。」
  と、いつものように挨拶をしてくるのである。
  これには面食らってしまった。
  何故ならば彼も、昨夜彼女を襲った人間と同じ『男』で、だからきっと『男』である自分の事は避けるだろうと思ってい
  たからだ。
  勿論、龍之介の方も顔を合わせ辛かった。
  何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、分からなかったから。

  ‥‥だというのに、目の前の女はいつもとなんら変わらず、普通に声を掛けてくるのである。
  正直、拍子抜け、だ。
  いや、だからといって怯えられても困るのだけど。

  「‥‥よお、早いな。」
  龍之介はわずかに固い声で挨拶をした。
  その変化を見逃さないではないが、ただ笑って流して、
  「早起きは三文の得って言うからね。」
  と答える。
  何を得したんだ、と突っ込みたかったが、刺激して変な所をついてしまうのもまずい。
  そうかよと答えるだけにして、隣に立つと、彼はもう一度欠伸を漏らした。
  部屋の隅に白髪の執事が立っている。
  は一人で部屋を出る事は出来ないので恐らく、彼が一緒にこの部屋にやって来たのだろう。
  そして、彼女を監視している、という所だ。
  勿論も扉の先にあるセキュリティを知っているので無謀な事などしない。やっても無駄だと分かっているから。

  並んで待つ事、しばし。
  ふいに、かちゃりとノブを回す音がして、扉がゆっくり開かれた。
  この屋敷は少しおかしな作りをしている。
  広間を挟んで、両側に廊下が伸び、一方はたちの部屋が、そしてもう一方が階下へと続く階段があるのだ。
  ある種、この広間は世界を共有する唯一の空間なのだろう。
  たちと、それから千歳たちの。

  「‥‥おいでなすった。」

  小さなの呟きに龍之介は顔を上げる。
  車椅子に乗ったその人が広間に姿を現した。
  その瞬間、彼女の纏う冷たい張りつめた空気とやらが世界を浸食するように広がっていき、自然、龍之介の眠気も吹っ飛
  んでいく。
  皺だらけのその人はどう見たって小さな老人だというのに、どうしてこうも威圧感があるのだろう。
  龍之介は背筋に冷たいものが流れていくのを感じながら、ただただ立ちつくした。

  「おはよう。
  静香、龍之介さん。」
  千歳は二人の目の前で車椅子を止め、にこりと笑みを浮かべながら挨拶の言葉を口にする。
  「昨夜は良く眠れたかしら?」
  軽く会釈で応える龍之介は「昨夜」という言葉にぎくりと肩を強ばらせた。
  昨夜‥‥屋敷で何があったか。
  当主である彼女が知らないわけがない。
  この屋敷に部外者が立ち入る事は出来ないし、この部屋には限られた人間しか入る事が出来ないと言うのに。
  それに、も昨夜言っていた。
  あれは『千歳』が仕組んだ事なのだと。
  それなのに、そんな質問をする彼女の気が知れなかった。
  どういう神経をしているんだこの女は‥‥と龍之介が信じられないものでも見るように見れば、はにこりと笑みを浮
  かべたまま、ええ、と答える。

  「誰かさんのお陰で、なかなかスリルのある夜を迎えられました。」
  この発言に、また龍之介はぎくりとしてしまう。
  冗談で済ませてしまえるほどの事ではない。
  彼女は危うく、見知らぬ男に強姦されてしまう所だったのだ。
  龍之介が飛び込んでこなければ‥‥
  「‥‥」
  笑顔でそう言ってのけるを見て、千歳は表情一つ変えず、後ろに控えている叶絵はその瞳を僅かに細めた。
  驚かない所を見ると、やはり二人は知っていた、と言う事になる。
  腐った連中である。
  父が彼女らの元を飛び出したのがよく分かった。
  こんな所にいたら‥‥確実には彼らの玩具になっていただろう。
  「折角気を回していただいた所申し訳ないんですが、私、誰彼構わず身体を開くほど軽い女じゃないんでー
  あと、昨夜の人から聞いたかもしんないですけど、次があれば、相手の男の人、二度とセックスできない身体にしちゃう
  と思うんで、雪村の血を絶やさせたくなかったらやめた方が良いと思いますよ?」
  「っ!?」
  にこやかな笑みこそ浮かべてはいたけれど、の瞳は笑っていなかった。
  むしろ怖いくらいに感情のないそれを千歳に向けており、龍之介はぞっとする。
  一方の千歳はその瞳を作り笑いで受け止め、
  「そう。
  ならば次はもう少し考えなければならないわね。」
  にこりと白々しいまでの笑みを浮かべる。
  も笑顔のままで反論した。
  「何度来られても、雪村の子供なんて生みませんってば。」
  きっぱりと拒絶する彼女に、いいえ、と千歳はかぶりを振って、言う。
  「あなたは、いずれ雪村の子を自ら望む事になります。」
  勝手に決めるな、クソばばぁ。
  はその言葉を心の中でだけ零した。
  これ以上何を言っても無駄だ、と分かったから、それ以上は言わない。
  そして、聞こえよがしにこんな事を言った。

  「生まれてくるのが雪村の子だとは限りませんよ?」

  ちり。
  と、その言葉に千歳が纏う空気が一層刺々しいまでに張りつめる。
  それこそその場に立っているだけで身を切り裂かれそうな‥‥そんな感覚に、龍之介は身動ぎさえ出来なくなった。
  動けば、喉笛を裂かれる、そんな気がした。

  千歳は氷のように冷たいそれをに向けて、問う。

  「どういうことです?」

  作り笑いの仮面が剥がれる。
  は少しでもこちら側に引っ張り込んでやれた、と内心で笑った。
  恐らくその冷たい眼差しを向けられて笑っていられるのは、彼女くらいなものだろう。
  は不敵に笑い、きっぱりと言い放った。

  「もしかしたら、他の男の人の子供かもしれないって事ですよ。」
  「‥‥」

  ぴくんと千歳の眉が神経質に跳ね上がる。
  龍之介と叶絵が目を見張った。
  その言葉の意味は‥‥説明されずとも、分かる。
  子供ではないのだから。
  つまり、他の男の子が出来るかも知れない‥‥というのは‥‥
  彼女が性交の経験がある、ということで、
  そして子が出来るかも知れないということは、
  避妊をせずに行為に及んだということ、で、

  ゆらりと空気を揺らして、千歳が車椅子から立ち上がる。
  立ち上がれたのかと龍之介が驚く中、細い、まるで枯れ枝のような手が振り上げられ、

  ――ぱしん――

  堅い音が空気を震わせる。

  痛い。

  と何故か龍之介が思ってしまった。
  叩かれたのは、だと言うのに。
  痛いと、思ってしまった。

  「‥‥恥を知りなさい。」

  千歳は静かに言い放つ。
  振り上げた手をゆっくりと下ろしながら、軽蔑するような眼差しを血の繋がった孫へと向けて、恥を知れと。
  「まだ学生という身分でありながら‥‥」
  汚らわしい、とでも続きそうな言葉をは遮った。
  「高校生だろうが社会人だろうが、本気で人を好きになったらそんな事関係ないはずだ。」
  きっぱりとした言葉に一切の迷いはない。

  年齢も性別も関係などない。
  好きになって、相手を欲しいと思う恋を、相手に全てをあげたいと思う恋を、誰だってするはずだ。
  孫を襲わせるような真似をする千歳にだって‥‥そんな恋をした事があるはずだ。
  そして、は今、そんな恋をしている。
  誰にだって恥じる必要はない。

  「私はあの人に身体を開いた事を悪い事だとは思ってない。」

  誰かを愛する事が間違いだというのならば‥‥この世界には美しいものなど一つもない気がした。