あまりに突然の、
  あまりに衝撃的な言葉に、
  千鶴も、沖田も、それから土方でさえも目を見張った。
  何を言われたのか一瞬、分からなかった。
  理解できなかった。いや、したくなかったのかもしれない。

  今、彼女はこう言ったのだ。

  『あの子を雪村の人間に抱かせました』

  嘘‥‥
  かたかた、と千鶴は自分の身体が震えているのが分かった。
  悲しみに大きな瞳が塗りつぶされ、それを見て千歳は意外そうに目を丸くしてこう言う。

  「当然でしょう?雪村の子を産んでもらわなければいけません。」
  「っ!」
  言葉に、千鶴がその瞳に似つかわしくない憎しみの色を湛えた。
  眦が吊り上がり、憤怒の表情へと変える。

  祖母が‥‥を雪村の人間に襲わせた――

  その事実に目の前が真っ赤に染まった。
  千鶴はかつてこれほど憎いと思った事がない。
  初めて人を呪うくらい、それくらいに彼女は激しい怒りと憎しみに駆られた。
  「なんて、ことをっ!」
  千鶴が叫び、がたんと立ち上がろうとする。
  それを沖田がすかさず押さえ、腕の中に抱き込んだ。
  「沖田さん!!」
  離してと藻掻けば腕の拘束はきつくなる。
  愛する人さえも憎しみの籠もった目で見あげればそこにある翡翠にも同じ色が浮かんでいた。
  しかし、彼は必死に堪えていた。
  燃えさかる怒りの炎を、必死に理性で押しとどめていた。
  身体は怒りのために震えている。でも、その怒りをぶつけようとはしない。
  ただ彼女を真っ直ぐに見据えて、緩く首を振った。
  「今は堪えて」
  そう、確かに聞こえた気がした。

  「‥‥」
  そんな二人を見て、千歳は面白くも無さそうに目を細める。
  馬鹿馬鹿しい、とでも言いかねない冷たいそれで冷視していると、ふ、と微かに空気が漏れるような音が聞こえた。
  音にはひどく嘲りの色が浮かんでいた。

  「随分と安い挑発をしてくれるもんだな?」

  瞬間ガラリと、彼が纏っていた空気が崩れる。
  別人かと思うほど温厚な仮面が剥がれ、いつもの横柄とも取れる彼が姿を現す。
  紫紺は相手を射抜くように強い色で睨み付けた。
  口元だけは笑っている。しかし、瞳は笑っていない。
  ひどく冷たい、だが、触れれば切れてしまうほど、鋭い眼差しで、土方は千歳を睨め付けた。

  「あいつが他の男に抱かれたと知れば俺が身を退くとでも思ってんのか?」
  礼儀の「れ」の欠片もない口調に、叶絵の表情が強ばる。
  なんて口の利き方をとでも言いたかったのだろう。しかし開いた口から言葉を発する事はなかった。
  男の空気に圧された。
  ぞろりと、千歳が放つ冷たい空気を押しのけて、彼の殺意さえ滲ませた気が空間を満たした。
  「っ」
  思わず、へなりとその場にへたりこんでしまいそうになる。
  土方はそんな彼女になど目もくれず、長い足を組み替えて鼻で笑い飛ばした。
  「残念だが、そいつはねえな。」
  あり得ない、と土方は断言する。

  「あいつを抱いた男をぶっ殺す事はあっても、あいつに愛想を尽かすなんて事はありえねぇ。」

  この先、何があっても、と彼は言った。

  土方は思う。
  きっと自分はもう、彼女がいなくては生きていけないだろうと。
  囚われているのはの方ではなく‥‥土方の方なのだ。
  もし、彼女が今、土方と別れたいと言っても彼は応じる事は出来ない。
  きっと彼女を閉じこめて、彼女を泣かせてでも自分の傍に縛り付けてしまう。
  これはもう歪んだ愛なのかもしれない。
  でも、彼は手放す事など出来ないのだ。
  もう、二度と――

  「‥‥」
  無言でこちらを見つめ続ける千歳からは感情の変化は見られない。
  ただもう笑みはなく、冷たい表情を浮かべているだけだ。
  この女は血が通っているのだろうか、と疑問に思う。
  そんな冷たい、凍り付くような眼差しのこの女に、人と同じ熱い血が通っているのだろうかと。

  いや、そんなこと、どうでもいい。
  は、と土方は吐き捨てて、嘲るように笑った。

  「あいつはもう俺以外じゃ感じられねえようになってる。
  そう教え込んだ。」
  「なっ!」
  声を荒げたのは叶絵だった。
  相変わらず青い顔をした彼女は、彼の言葉で表情を歪めて土方を凝視している。
  汚らわしい、とかそんな事でも言いそうな顔だ。
  土方は恥じることなく、その非難の眼差しを受けて、にやりと笑った。

  「好きな女を自分だけのものにするってのは当たり前の事だろう?」

  好きだから、抱いた。
  愛しているから、抱いた。
  高校生だから‥‥子供だから‥‥とかそんな理由で愛せないのは間違っている。
  子供であっても、愛は知っている。
  は知っていた。
  そして、彼女も求めた。
  だから何度も抱いた。
  抱いて、刻みつけた。
  自分の愛を。
  その身体に全部。

  「だから、他の男にゃあいつを抱けねえよ。」

  が、
  他の男に身体を開くはずがない。
  そうなのだ。
  彼女は他の男を受け入れない。
  そう、刻みつけた。


  「‥‥それを、学校側に報告しますよ。」
  黙ってそれを聞いていた千歳はやはり静かに、訊ねた。
  完全な脅しである。
  しかし、土方はひょいと眉を跳ね上げただけで、
  「やりたきゃやれよ。」
  と受け流す。
  別に教師という職業に未練はない。
  職を失ったとしても、世間から後ろ指を指されるようになったとしても、構わない。
  という愛しい人と天秤に掛けられるものなど、彼にはもう、ないのだ。

  「‥‥その代わり。」
  彼は淡々と続けた。
  「俺が教師じゃなくなった瞬間から、俺を縛るもんは一切無くなる。」
  「‥‥‥」
  「そうなったら悪いが、俺は手段は選ばねえぞ。」
  紫紺に確かな怒りの色を湛え、土方は千歳を睨み付けた。
  それこそ視線だけで人を殺してしまいそうな射抜くようなそれに、大の男であっても竦み上がるだろう。

  「どんな手を使ってでも、あんたらからあいつを奪い返してやる。」
  「‥‥‥」
  「覚悟しておくんだな。」

  土方は一方的に言って、すっくと立ち上がった。
  そうしてまだ座ったままの二人に、
  「帰るぞ。」
  と短く促す。
  一歩を踏み出しながら彼はがりと唇を乱暴に噛みきるくらいに咬んだ。

  はやく――
  一分でも一秒でも早く、
  彼女を奪い返したいと彼は心底思った。

  こんな腐った場所から一分でも一秒でも早く、
  彼女を救い出してやりたい。

  自分にもっと、力があればと悔やまずにはいられなかった。