昔よく、雪村の家に遊びに来ていた子供がいる。
  彼の名は、井吹龍之介‥‥と言い、雪村とは少しだけ縁のある家柄らしい。
  とはいっても、血筋自体は悪くないのだが井吹家はあまり大きな家ではない。
  使用人とまではいかないが、雪村家に言いように使われていた‥‥というのは遠い昔に聞いた事があった。
  にはそんな事どうでも良かったのだが、ただ、井吹の人間が来るたびに連れてこられる彼と話をするのは楽しかった。
  龍之介はよりも一つ上で、いつもつまらなさそうにしているのを見かけた。
  きっかけはから声を掛けた事である。
  千鶴や薫以外に同い年くらいの子供が本家にいなかったから、珍しかったのだ。

  突然家を飛び出した形になったから、さよならさえ言えなかったのだが、元気そうで何よりだ。

  「‥‥で、なんでおまえがここに?」
  「だから、さっきあの人が言ってただろうが。」

  聞いてなかったのか、という問いには首を捻る。
  あの人、ああ、叶絵か。
  確か彼女はこう言っていた。

  あなたの許嫁が参りましたのでお通ししました――

  「‥‥許嫁ってどこ?」
  「おまえなぁっ!!」
  首をぐりと思い切り傾げて見せると龍之介が吼えた。
  いや、分かっている。
  彼を置いて叶絵が引っ込んでしまったということは、恐らく彼がその人に当たると言う事は。
  しかしだ。

  「‥‥龍之介が許嫁‥‥ねぇ。」

  不満げ、というか、心底納得していないような言葉に、彼はむっとしたように唇を尖らせた。
  「なんだよ、俺じゃ嫌だって言うのか?」
  「‥‥いや?」
  「どっちなんだよ!
  っていうか、お、俺だって願い下げなんだからな!!」
  おまえみたいな可愛くない女、と言われてはそうだよねぇとしみじみ頷いた。
  子供の頃の自分というのはどうだか覚えていないが、今の自分を思えば相当かわいげは無かったはずだ。
  「じゃあなんでこの話受けちゃったのさ?」
  もっともな問いに龍之介はう、と低く呻く。
  それからあまりそこは触れて欲しくないと言わんばかりに視線を逸らして、告げた。
  「‥‥母さんが、一年前に死んだんだよ。」
  「‥‥そう‥‥」
  それ以外になんて言って良いか分からずに呟くと、龍之介は視線を逸らしたまま、
  「親父が借金していたからさ。
  家も没収されて、行く当てが無くなって‥‥路頭に迷っていたら、おまえの所の婆さんに声を掛けられたんだ。」
  「へえ。」
  「で、おまえの許嫁になれって。」
  「‥‥へぇ‥‥」
  は怪訝そうな顔になった。
  何故ならばあの婆様が、本家の人間でもなければ雪村の血筋ではない彼を許嫁に選んだのが解せなかったからだ。
  龍之介の血は『井吹』のもので、それが混じればの『雪村』の血は薄れる。
  とはいえ本家の血の濃い人間とでは『奇形児』が生まれる危険性はある。だから、恐らく分家のそれでも血筋の濃い人間
  を宛われるかと思ったのだが‥‥
  「‥‥」
  それとも、が少しでも抵抗しにくく、見知った男を宛ったという事か?
  「嫌だ」と突っぱねられないように。
  って、突っぱねるけどね。

  「まだ、裏がありそうだな。」
  ぼそっと呟いた一言に龍之介はなんだ?と首を捻る。
  なんでもない、とは言った。
  彼があの婆様のスパイとは考えにくいが、それでも彼を信用するわけにはいかない。
  見知った顔がいたとしても結局は孤軍奮闘に変わりはないのだ。

  「‥‥」
  難しい顔で虚空を睨み付けるその横顔を龍之介はじっと見つめる。
  幼い頃、何度か話をしたが、記憶にはあまりその内容は残っていない。
  しかし、鮮烈に刻まれているのはその人の美しい顔立ちであった。
  幼いながらにもなんて綺麗な顔をしているんだと思ったものだが、大きくなって更に美しさに磨きが掛かったようである。
  女、としての柔らかさと甘さが加わったせいだろうか、あの時よりも随分と色っぽく感じて、龍之介はまじまじと見つめ
  ては何故か照れたように視線を逸らす。
  「な、なあ、静香‥‥」
  「。」
  ぴしゃりと訂正され、龍之介はう、と呻いた。
  静香と呼べ、と千歳に厳命されていたのである。
  しかし、当人はそう呼ぶなと言うようで‥‥しばし逡巡した後、龍之介は溜息と共に、呼んだ。
  「。」
  「なに?」
  そうしないとこちらを振り向いてくれない事が分かっていたからだ。
  「どうするんだ?これから。」
  「‥‥どうするって?」
  「だから、俺と、結婚なんて事になってもいいのか‥‥って事だよ。」
  「冗談。」
  はあっさりと切り捨てた。
  ぐさりと来たらしい龍之介の顔が歪む。
  あ、とは小さく声を上げて、苦笑を漏らした。
  「龍之介が嫌、とかじゃないからね。」
  「‥‥そ、そうか。」
  ほっとしたように彼が表情を緩める。
  言葉遣いこそはあまり良くないし、素直でもないけれど、そういう所は可愛いと思う。
  年上と思えないのはその辺のせいじゃなかろうか。
  はくすっと気付かれないように笑いながら、そうじゃなく、と口を開く。

  「私、好きな人がいるんだ。」

  だから、何があっても彼と結婚するわけにはいかないのだという真っ直ぐな瞳に、ああ、それは昔から変わっていないな
  と思いつつ、少し、胸が痛むのは初恋の淡い期待が砕かれたからだろうか?