ふあ、
  と男は珍しく欠伸を漏らす。
  それを見て、なんだなんだと揶揄するのは同僚の教師達である。

  「土方先生、寝不足ですか?」
  「‥‥まあ‥‥ちょっと‥‥」

  曖昧に誤魔化すけれど、相手は校内一モテるという事で有名な男だ。
  なにげに女子生徒の中で『抱かれたい男ナンバー1』に何年も居座っているいう程の人気ぶりだという。
  そんな彼が寝不足‥‥となれば、昨夜は彼女と‥‥などと邪推するのが当たり前というもので‥‥

  「彼女ですか?」
  「‥‥」
  「首についてるのキスマーク‥‥」

  土方は答えなかった。
  ただ、じろっと不機嫌そうに訊ねてきた人物を睨み付ける。

  余計な事を聞くんじゃねえ‥‥と言われた気がして、彼らはまるで蜘蛛の子を散らすかのようにばらばらと散らばっていく。

  静かになった所で、はぁ、と溜息とも欠伸ともつかないそれをつき、椅子に深々と沈んだ。
  今日は‥‥酷く眠い。

  昨夜、少し酒を飲んだせいかもしれない。
  あまり強くない‥‥というかまったくの下戸だがそれを男は認めない‥‥のに、酒を飲んだのがいけなかっただろうか。

  いやでも、

  「酒でも飲まねえと‥‥」

  どうにかなりそうだったんだよと一人ごちる彼は視線を落とした。

  整頓された机の上に‥‥出席簿が置いてある。
  彼が受け持つ古文の、
  あるクラスの出席簿。

  「‥‥」

  苦い顔で固い表紙を捲った。

  もう何度も開いて癖になっているその頁を見て‥‥もう一度渋い顔をした。

  今まではずっと見逃していた。
  元々授業をサボるような子ではなかったから気にとめた事もなかった。
  気にとめることは絶対にないと思っていた。

  「‥‥このままじゃ確実に。」

  ぱちん、と指先で弾いたその名前の横。
  印が入るはずのそこは‥‥もう、二十日以上、空欄。


  一日、二日程度ならばサボっていても見逃してもらえる。
  元々サボリ癖がなかっただけに、多少出なくても単位を落とす事はないが、突然休みがちになっただめ逆に心配をされた。
  担任教師に何があったのかと聞かれ、はなんでもないと誤魔化すしかない。
  有り難い事に大学受験のために予習を欠かさなかったから貯金はある。
  単位を落とすぎりぎりを見極めて授業に出れば‥‥問題はないだろうと思った。



  今日こそ雷が落ちるかも知れない。
  は思った。

  「‥‥今、何キロですか?」

  「千鶴ちゃん‥‥女の子に体重なんて聞いちゃいやん。」

  恥ずかしいわと茶化して見たが、千鶴はぴくりとも反応をしてくれない。

  ああ怖い。
  いつの間に彼女はこんなおっかない子になっちゃったのだろう。
  昔はあんなに可愛かったのに。
  いや、今でも可愛いんだけどね。

  「さん!」
  「は、はい!!」
  すいませんっ!とは思わず謝ってしまった。
  因みに今日も沖田は隣で傍観を決め込んでいる。

  「今日こそは絶対病院です!」
  あれから結局なんだかんだと逃げられて行けず終いで、三日四日と経ってしまった。
  それからもやはりは食事をあまり取っていないらしく、相変わらず具合が悪そうな毎日だ。
  「いや、でも昨日はちゃんと食べれたんだよ!」
  「なにをですか?」
  ぎろっと睨まれ、う、とは呻く。
  嘘ではないのだが、ええとと口ごもってしまった。

  「‥‥豆腐を‥‥一口。」
  「さん!」
  「いや、でも、食べたじゃん!」
  「それは食べたって言いませんっ!」

  だめ、今日は絶対病院!
  と意気込む彼女と対照的に、沖田は冷静な口振りでこう言った。

  「ねえ‥‥まだ土方さんの事好きなんじゃないの?」

  「‥‥」

  ぴく、との肩が震えた。
  それを見逃さず、沖田はすいと双眸を細める。

  「‥‥まさか‥‥」

  ややあって、はからからと笑った。
  まさか、と答えてから首を振る。

  「そんな事ないよ。
  もう終わった事だもん。」
  「そうかなぁ?」
  沖田はなおも続けた。
  「‥‥だって吹っ切れてなくて、気まずいから顔合わせないように授業にも出ないんでしょ?」
  「違うって。」
  そんなわけがないとは言う。
  「古文が面倒くさいだけ。
  やばくなったらちゃんと出席するよ。」
  「、ほんとに‥‥」
  「ほんんとだって。」

  は少しだけ声を強くして言うと、この話はこれで終わり、とばかりに立ち上がった。
  立ち上がった瞬間にふら、とその身体がよろめく。

  「っ」

  慌てて千鶴が手を貸そうとしたけれど、彼女は手で制して「だいじょうぶ」と笑った。

  「‥‥さん。」
  「ごめん、明日には病院行くから‥‥」
  大丈夫だからねとは千鶴に笑いかけ、よろよろと歩き出した。

  「‥‥っ‥‥」

  その足が、
  少しして、止まった。

  「あ。」

  何事かと二人も視線を先に向けて、すぐにまずいというそれになる。

  彼女の行方を阻むように立っていたのは、

  「土方‥‥先生。」

  その人。