重厚な、他とは明らかに違うドアが目の前に立ちはだかっている。
この学校には三年ほどいるが‥‥その部屋に入った事はただの一度だけだった。
プレートには『理事長室』と書かれている。
突然、理事長に呼び出しをされた。
この学校に赴任した時に一度会ったきりだが、小さな暢気そうな爺さんだったとしか覚えていない。
『頑張ってください』
確か、最初に掛けられた言葉はそんな言葉だったか?
ドアをノックすると、どうぞと声が返ってきた。
しかし、返ってきたのは自分が思いだしたそれよりももっとしっかりとして‥‥若い。
いや、それどころか‥‥性別さえ、違う。
「‥‥失礼します。」
男は言って、扉を開けた。
三年ぶりに入る室内は‥‥あの頃となんら変わっていない。
大きめのソファに、テーブル。
ぎっしりと詰まった本棚に、重たそうなデスク。
しかし、
そこにいる主だけが違った。
「‥‥あなたは?」
「初めまして。」
にんまりと赤い口元が僅かに上がる。
理事長室のソファに腰を下ろしていたのは、どうみても理事長と言うには若すぎる女が一人‥‥ついていた。
自信に満ちあふれた、知的な瞳が印象的な、まあまあの美人である。
だが、少し派手な化粧と、高校生には目の毒だろうと思うほど開かれた胸元に、教職者としての品位を疑いたくなる。
「私は、一橋 棗。」
この度、
と彼女は立ち上がり、にこりと目を細めて笑い、
「新たに、この学校の理事長に任命されました。」
そう言い放った。
「‥‥なんだって?」
思わず我が耳を疑いたくなる。
元いた理事長が辞めた‥‥というのは別に疑問には思わないが、その代わりを彼女が勤めるというのは信じられない。
だって、どこからどう見ても彼女は自分と同い年くらいにしか見えない。
三十にもなっていないその人が、一学校の責任者に就けるとは思えなかった。
「信じられないなら、こちらの書類をどうぞごらんになって下さいな。」
ぺろんと、机の上に置いてある書類を一枚差し出してくる。
そこには確かに、理事就任の文字と、彼女の名前が書かれており、承認する判子も押されていた。
彼女が名を騙っていない限り‥‥それは事実という事になる。
「‥‥ということで、私が学校の責任者になります。」
宜しくお願いしますね、と美女は笑った。
「‥‥で、なんで自分が呼び出される事になったんですか?」
同い年くらい‥‥とはいえ、相手は上司。
一応敬語とも言えない敬語を面倒くさそうに使うと、一橋はくすくすと笑い、もっとフランクに行きましょうと言う。
「ええ、実は‥‥あなたに伝えたいことがあるの。」
なに?
と男は視線を上げる。
その瞬間ぶつかった、その人の瞳はどこか挑発するような意地の悪いそれを浮かべていて‥‥
「土方先生‥‥あなた、私と結婚してくださるかしら?」
放課後、慌てて荷物を片付ける後ろ姿を見つける。
きっと彼の所に行くのだろう。
どこか嬉しそうな顔なのがちょっとだけ気に入らない。
自分の良き理解者である彼女を奪われた気分だった。
それがあの男の元だから余計に‥‥腹が立つ。
「。」
「わっ!?」
ぼすっと後ろから寄りかかり、羽交い締めにするとは驚きの声を上げて鞄を危うく落としそうになる。
それを寸前で堪えて、肩越しに振り返り、思いの外密着している悪友に再度驚きの表情になる。
がすぐに、
「こらこらー、相手が違うぞー?」
抱きしめる相手は彼女ではなくて、彼女の妹だろうと言うと、沖田は分かってるよと唇を尖らせた。
「これは抱きしめてるんじゃなくて捕獲してるの。」
「捕獲‥‥って私は獣か?」
「どっちかっていうと、獣はあの人だよ。」
が悪い獣に傷つけられないように守ってるの、と言われてはぁとよく分からない返事を返すしかない。
「うんまあなんていうか‥‥とにかく離して。」
あっさりと言って、その腕から逃れると、
「最近、冷たいよね?」
と言われてしまう。
「最近僕と遊んでくれないし‥‥」
「あのね、おまえが遊びたいのは私じゃないだろ?」
「千鶴ちゃんとも遊びたいけど、とも遊びたい。」
「あーはいはい。」
また今度な、とは言うと、鞄のファスナーを閉めて立ち上がる。
そして一直線に北校舎の、資料室に向かうのだろう。
ああくそ、あの男が嬉しそうな顔で待っているのかと思うと本当に癪だ。
面白くない。
「‥‥面白くはないけど‥‥」
ぽつっと沖田は諦めたように呟く。
視線を向ければとても幸せそうな彼女がいる。
今までずっと他人の事ばかりを考えて生きてきた彼女が、漸く自分の幸せを見つけたのだ。
その隣にあの男がいるけれど、彼女は、本当に心底、嬉しそうだ。
「が幸せならば、それでいい――」
かな?
「それじゃ、総司、また明日な。」
「うんまた明日。」
ひら、とお互いに手を振っては教室を飛び出そうとする。
瞬間、
ぶつ、
「わっ!?」
なんだか踏みだした一歩がいつもと違う感覚がした。
危うく転びそうになるのを持ち前の運動神経で持ち直すと、は自分の足元を見て「うわ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
何か踏んだ?と聞けば、彼女は頭を振って、
「‥‥靴ひもが‥‥切れた。」
踏みだした左足の上履きの紐が見事に切れていると言った。
一度足を戻し、もう一度踏み出し、状態を確認する。
走ると危ないが、歩いている限りは大丈夫そうだ。
そういえば、
靴ひもが切れる‥‥というのは昔から不吉な事の前触れだと言われていた。
は一瞬顔を顰め、
これは浮かれてるんじゃないという掲示だろうと身を引き締め、
「じゃ、帰るな。」
走り出すその足をしっかりとした歩調へと変えた。
そんな後ろ姿を見送りながら、沖田はそっと‥‥双眸を細めて一人呟く。
「なんか‥‥嫌な予感がする‥‥」
それが杞憂であってほしいと内心で願った。

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