「おまえに、感謝してる。」
みんなにお礼を言ってくると飛び出していったを千鶴が追いかけて行ってしまった。
急にしん、と静まりかえってしまい、沖田はさてと退散しようかと腰を上げ掛け、
「おまえに感謝してる。」
土方のそんな言葉に動きを止めた。
「‥‥え‥‥なに、今の何の冗談?」
沖田は訝る。
彼が自分に感謝、など冗談でしかありえないと言いたげだ。
土方はひくりと口元を引きつらせつつ、
「人が折角、素直に礼を言ってるってのに‥‥てめえは素直に受け取れねえのか。」
ぶちぶちと告げる。
それでこそ土方さんだと沖田は笑いながら、で?と首を捻った。
「感謝って‥‥何のこと?
先に言っておきますけど、一橋理事長の事はの為だけど土方先生の為じゃありませんからね。」
「‥‥」
分かってはいたが、本当に彼は自分の事が嫌いなようだ。
いや、土方とて沖田のことを好きではないけれども‥‥
「‥‥‥」
土方ははーっと深い溜息をついた。
そしてがしがしと頭を掻くと、その、と憮然とした面持ちで言い放つ。
「おまえが、あの時俺に言ってくれなきゃ‥‥俺はあいつを失ってた。」
あの時――
沖田が彼の元に来なければ。
彼の元に来て、教えてくれなければ。
彼女を失っていたに違いない。
「臆病者。」
そう、あの時。
沖田の言葉はそれから始まった。
「臆病者。」
声と共にしゃっとカーテンが開けられる。
「臆病者」と言われた土方は閉ざしていた瞳を開け、じろっと沖田を睨み付けた。
やはり寝たふりだったか。
「臆病者。」
もう一度罵った瞬間、土方の眼光が更に鋭くなった。
睨み付けられている、というのに沖田は怯んだ様子はない。
それどころか臆病者と罵った男は「何か反論があるか?」と言いたげにこちらを見下ろしている。
土方はふいっと視線を逸らした。
「ねえよ。」
そんなもの、と彼は吐き捨てる。
彼の言うとおりだ。
自分は臆病者なのである。
彼女を傷つけるのが怖くて‥‥ただ、自分が悪者になって逃げた。
そのくせ、本気で拒絶も出来ず、中途半端に情けを掛け、一層彼女を傷つけた。
そうして、また、逃げた。
今もまだ逃げ続けようとしている。
「‥‥、本気ですよ。」
あれ。
と彼はどっかと腰を下ろしながら呟く。
「本気で、土方さんを諦めるつもりですよ。」
彼の事を諦めると言ったのは‥‥今度こそ本気だろう。
どれだけ好きでも、
相手を傷つけてまで欲しいとは思わない。
傷つけるくらいならば潔く身を引くのがという人だ。
二度と恋が出来なくてもきっと‥‥彼女は‥‥
愛する男が幸せなのを望むのだろう。
「‥‥‥」
土方は眉間の皺を濃くした。
不機嫌な‥‥というよりは、苦しそうな顔で、そんな顔をするくらいならどうして引き留めなかったんだと沖田は言い捨
ててやりたかった。
そんな事を言っても彼はただ無言で不機嫌になるだけで、彼女を追おうとはしないだろう。
「一つ教えてあげましょうか。」
「‥‥」
「、古文以外もサボってたんですよ。」
あまりに脈絡のない言葉に、一瞬土方は怪訝そうな顔をし、
「‥‥なんだって?」
そして次に意味を理解したのか、驚いたように顔をそちらに向ける。
やっぱり知らなかったかと沖田は内心で呟いた。
「単位落とすぎりぎりまで休んでるくせに、何も他の先生から言われないのおかしいと思いませんでした?」
普通、
一つの教科だけをサボっていると他から知られれば、担任教師や学年指導から何らかの事情を聞かれるはずだ。
もしかしたら、古文の教師と何かあったのではないか、だからその授業に出ないのではないか。
そんな詮索をされるはず。
だというのに、誰からも何も言われなかった。
それは何故か‥‥
「は、適度に全部の授業をサボってたからですよ。」
適度に授業をサボっていれば‥‥教師はきっとこう考える。
彼女自身に何か問題があるのではないか。
例えば大学受験が嫌になったとか‥‥勉強が嫌になったとか‥‥そんな風に。
そうして訊ねられたとき、
「少し、考えたいことがあって‥‥」
とかなんとか、勉強や進路について悩んでいると見せかければ誰も疑わない。
「‥‥まさか。」
そ。
と沖田は頷いた。
「全部、あなたに迷惑掛けないため。」
彼に迷惑を掛けないために‥‥は全ての授業をサボった。
そのしわ寄せは自分に来ると分かっていながら、授業を休んだ。
別れたのだからもう彼に気を遣う必要などないというのに。
なのに、彼女は‥‥
「‥‥きっと無意識なんだろうね。」
沖田は苦笑でひょいと肩を竦めてみせる。
「無意識にあなたを守るように出来ちゃってるんだよ。の頭。」
彼女にとっての一番は、土方という男だ。
彼女が何をしても守りたいもの、傷つけたくないものというのは、
この世のどこを探しても『土方歳三』という男以外にはないのだ。
そう、
自分さえも、
二の次なのだ。
それほどに彼女にとって、彼は大切なのだ。
――どこまでも献身的というか、愚かというか‥‥
やれやれと肩を竦めながら、それから、と彼はもう一度口を開いた。
「さっきのだけど‥‥がああいったのは、あの理事長先生のせいだからね。」
人の車の前にまで飛び出してまで「別れたくない」と言っていた彼女があっさりと掌を返したのは、決して彼女が心変わ
りしたからではないと沖田は教えてやった。
「あの人、に『土方さんがああなったのはあんたのせい』って言ったんだよ。」
馬鹿だよね、と沖田は笑い飛ばす。
「土方さんが飛び出したのは土方さんのせいであって、のせいじゃないのに。」
「‥‥」
どこまでも卑怯な女だ。
土方は内心で吐き捨てた。
自分のせいで土方が傷ついたと聞けば、あの優しい少女が自分を責めないはずがないじゃないか。
きっと‥‥彼女はすごく苦しんだ。
苦しんで、悩んで‥‥
そして、
結局手を離すことを決めたんだろう。
土方の事を傷つけるくらいならば、ずっと自分が苦しいままの方が良いと思ったに違いない。
「っ」
ぎりと唇を噛みしめた。
血が滲むほどに噛みしめ、握った拳に力がこもる。
沖田はそんな土方をじっと見て、ねえ、と声を掛けた。
「もう答え、出てるんじゃないんですか?」
彼女が轢かれるかもしれないと思った時。
勝手に身体が飛び出したのは‥‥ただ、彼女を助けたいと思ったからじゃないのか。
身を挺してでも、彼女を守りたいと思ったからじゃないのか。
それは‥‥
「‥‥好きなんでしょ?」
まだ、の事を。
男も好きだからじゃないのか。
だから、彼女が今でも傷ついているという話を聞いて、そんな顔をするんじゃないのか。
「‥‥ねえ、土方さん。
あんないい女他にもういないよ?」
「‥‥」
「あんなに、一人の男を好きだって‥‥命掛けて愛したいって言ってくれる女の子、もうきっと現れませんよ。」
ぎりと奥歯がきしむ音がした。
ちりと心が焼ける音がした。
「物がまともに食べれなくなるくらい、眠れなくなるくらい‥‥想ってくれる人、いない。」
自分の身を犠牲にしてまで、
ただ、自分の事だけを想ってくれる人はいない。
ゆっくりと沖田は立ち上がった。
言いたいことは言った。
あとは、彼が答えを出すだけだ。
「いいんですか?」
沖田は最後に、一つ問いかける。
「の事‥‥他の男に取られても。」
彼女の瞳も、声も。
その心も全部。
自分以外の男のものになってもいいの?
「他の男の隣で笑ってるのを‥‥あなたは黙って見ていられる?」
自分ではない男の隣で、
幸せそうに笑っている彼女を見て、
自分は‥‥

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