「それじゃ、行ってくる。」
  「‥‥」
  不安げにこちらを見上げる彼女に土方はひょいと笑みを向けた。
  「んな不安そうな顔するな。
  別に、死地に赴くわけじゃねえ。」
  ただこれを、と彼は手に持っている封筒をひらっと揺らしてみせた。

  流麗な彼の字で『退職願』と書かれている。

  それを見て、は苦しそうに顔を歪めた。

  「なんだ、自分一人が辞めれば済む‥‥なんて言ったら怒るぞ。」
  そもそも、最初に自分が一人で辞めると言ったときに怒って阻止したのは彼女だというのに。
  「‥‥これは、俺たち二人でやることにしたんだろ?」
  「でも‥‥」
  は俯いてしまう。
  いつだって不機嫌な顔をしているけど、この学校も、生徒も、それから教師という仕事も、好きなのだ。
  それなのに、彼から好きなものを奪うなんて、自分は酷いことをしている気分になる。
  は学校を辞めても彼がいる。
  それで十分だ。
  でも、彼は。
  「変な事考えるなよ。」
  こつんと、軽く頭を叩かれた。

  「俺の一番大事なもんは、おまえだ。」
  「‥‥」
  「それさえあれば、他はいらねえんだよ。」

  だから、と土方は苦笑での頭をくしゃりと撫でた。

  「おまえは心配しねえで、ここで待ってろ、いいな?」

  瞳をしっかりと見据えて言い放つと、は漸く納得したようにこっくりと頷いた。

  「それじゃ‥‥行ってくる。」
  「はい。」
  今度こそ、きちんと返事をした彼女に優しい眼差しを向け、彼は向き直った。

  こつと爪先を止めた先は他とは違う豪奢な扉が待っている。

  プレートに書かれている文字は『理事長室』

  土方はふ、と一つ深い呼吸をして、やがて、意を決したように拳を軽く握ると戸を叩いた。

  コンコン、

  「失礼します。」

  はい、と聞こえた声は、小さかった。

  扉を閉める間際、こちらを見つめるのはやっぱり‥‥不安げな顔だった。

  大きな机の向こう、
  理事長が座るだろう椅子は、こちらに背を向けている。

  自分は怒っている‥‥という言葉の現れだろうか?

  土方はやれやれと肩を落としながら、話があると切り出した。

  「本日をもって、一身上の都合で退職させてもらいたい。」

  ツカツカと歩み寄り、大きな机の上にトンと退職願を置いた。

  『そんなことさせないわ、そんなことをしたら、あの子をこの学園にいられないようにしてやるから』

  金切り声が返ってくる事を予想して、男は次の言葉を用意して、待つ。
  しかし、

  「それは‥‥困るねぇ‥‥」

  やけにのんびりとした声が聞こえ、土方は違和感に眉根を寄せた。
  しかし、その違和感に気付くよりも前に、くるりと椅子が回転し、その人がこちらに顔を見せる。
  瞬間、

  「あ‥‥んた‥‥」

  土方の目は驚きに見開かれた。

  とんと両手を組んだその人は、穏やかな笑顔で、笑った。

  「君に辞められると、非常に困ります。」

  白髪が交じった老人は、暢気そうに‥‥初めて学園で彼を迎えた時と同じ笑みを浮かべたのだった。