いつもは走るそれを早歩きに変えたとはいえ、時間を少し食ってしまった。
一分二分が惜しいのに‥‥と内心で呟きつつも、ここに来る途中で怪我をしてしまっては意味がない。
北校舎の一番奥。
剥げたプレートには『資料室』の文字。
そこが、彼の仕事部屋。
「‥‥」
左右確認。
人の姿はなし。
はコンコンとドアをノックすると、
「失礼します。」
と一言断りを入れて、入室した。
「おお‥‥」
から、と引き戸を開けると、椅子に腰掛けていたその人が顔をこちらに向けた。
そうして、僅かに笑みを浮かべてくれる。
「遅かったな。」
「ちょっと‥‥総司に捕まって‥‥」
文字通り、腕に捕まった。
「総司のヤツが?」
そうすると、彼は眉間に皺を刻み、
「なんだ、あいつまた何かおまえに余計な事でも言ってきたんじゃねえだろうな?」
と訊ねてくる。
前科があるだけにフォローは出来ない。
は何も言われてないけどと苦笑で誤魔化し、いつものように鞄を置くと、棚に向かって手を伸ばした。
彼女はこの部屋に来ると、いつもそこにある資料を読む事にしている。
こうしていると突然誰かが入ってきても「資料を探していた」と言い訳が出来るからだ。
実際資料室にある本には掘り出し物が多かったので、あながち嘘というわけではない。
この学校では必須ではない物理の問題集も、数豊富に揃っていた。
もしかしたらここは物理室だったのかもしれない。
「‥‥」
「‥‥」
ふと、沈黙が訪れた。
土方もやる事があるのだろう、視線を手元の資料に向けている。
は別にその沈黙が嫌いではなかった。
何も話さなくても、同じ空間にいられるだけで幸せだったから。
ただ、
「‥‥?」
ちり、となんだか張りつめたものを感じては顔を上げる。
彼は先ほどと同じように視線を手元に落としていた。
いつもと変わらないように‥‥見えた。
だが、元々人の感情に機敏なせいもあるが、こと土方に関しては本人よりも敏感だった。
その横顔に‥‥緊張の色が見えた。
「‥‥先生?」
呼びかければはっと、彼は我に返ったように身体を震わせ、こちらを振り向く。
「どうした?」
「‥‥」
問いかけてくる紫紺の瞳には‥‥先ほど見たような緊張の色は見えない。
気のせい‥‥だっただろうか?
「あ、ううん。」
なんでも、とは言い、再び資料へと視線を向けた。
気のせいならばそれでいい。
ちょっと自分は気にしすぎなのかもしれない。
「そういえば、
来月‥‥どうしましょう?」
「‥‥あ?来月?」
「ほら‥‥十二月の。」
彼女が言いたいのは十二月の二十四日の事を言っているんだろう。
クリスマスイブ。
恋人達の一大イベントだ。
クリスマスイブ前後には冬休みに入るので、泊まりがけでどこかに行こうって言ってたのは彼の方だというのに、まさか
忘れていたというのだろうか?
「‥‥ああ‥‥」
何故か、彼の声のトーンが落ちた。
あれ、おかしい。
はまた彼の方を見た。
彼はこちらを見ておらず、それどころか机にすら向かっていない。
視線を窓の外に向けていた。
煙草を吸っているのかと思ったが‥‥違う。
彼は、自分の前では煙草を吸わない。
なにかが‥‥おかしかった。
先ほど感じた違和感よりもずっと強い何かがあった。
彼の、背中に。
「土方さん?」
どうしたんですか?と声を掛けても、その背中から張りつめた何かが消える事はない。
そればかりか一層緊張は強くなり‥‥居心地が悪くなるほどぴりりと空気が重たくなってしまった。
不機嫌、
いや、違う、
「なあ‥‥」
これは‥‥
「俺たち‥‥別れよう。」
拒絶――
俺たち 別れよう
そんな短い言葉が、には理解できなかった。
だって‥‥意味が分からなかった。
突然、
別れようなんて、
意味が分からない。
「‥‥それ‥‥なんの冗談?」
それは冗談に違いなかった。
はあははと笑っていた。
「ちょっと、今日エイプリルフールですか?」
四月まではまだまだ遠い上に、そのジョークはあまり笑えないどころか、正直反応に困るから止めて欲しい。
冗談としては最悪極まりないが、それでも冗談に違いない。
だって‥‥
「‥‥土方さん?」
彼は笑わない。
まるで本当の別れ話みたいな、重たく苦しい空気になった。
「嘘‥‥でしょ?」
だって、昨夜、約束したのに?
「‥‥これからも‥‥ずっと‥‥一緒じゃないんですか?」
彼は言った。
卒業してからもこのまま恋人でいたいって。
それに、
「卒業したら‥‥一緒に住むって‥‥」
一緒に住もうって言ってくれたのに?
「‥‥」
男は応えない。
そうだとも違うとも言わない。
ただ、無言だった。
無言だけど、それが精一杯の拒絶だと分かった。
「‥‥どうして?」
どうして、突然別れたいなんて事になったんだろう。
何か、自分がしてしまったのだろうか?
例えば彼を怒らせてしまうようななにか‥‥
「私‥‥何かしました?」
「‥‥」
「なにか‥‥嫌な所ありました?」
「‥‥」
訊ねるけれど、彼はやっぱり答えない。
答えないどころか、振り返って、目さえも合わせてくれない。
「ひじ‥‥かた‥‥さん‥‥」
お願い、こっちを向いて。
こっちを向いて、
冗談だって笑って‥‥
「ひじかた‥‥」
ゆっくりと、
彼はこちらを振り向いた。
でも、
その瞳には‥‥冷たい色が浮かんでいた。
それはやっぱり拒絶の色で‥‥
「‥‥おまえの事‥‥もう飽きた。」
男はそう言って‥‥嗤った。
世界が砕ける音がした。
ぱりんと、
軽い、
音。
自分の世界というのはなんとも脆いもので出来ていたらしい。
脆くて‥‥
軽い、
もので。
たった、一言だった。
自分の全てだと思っていたものが‥‥たった一言で、
終わった。
――おまえの事――もう飽きた――
「っ」
危ない、と思ったときには一歩を踏み外していた。
一気に五段階段を落ちた自分にびっくりした。
最後にだん、と固い床に肩を打つ。
ころころと靴紐の切れた上靴が転がった。
紐が切れている事をすっかり忘れていた。
間抜けだなと自分を罵ってみた。
人のいない北校舎だ‥‥
助けは、ない。
「‥‥」
よたよたと身体を起こす。
不思議な事に‥‥痛くはなかった。
まるで、痛覚が麻痺したかのようだった。
いや、
麻痺したのは痛覚だけじゃない。
「‥‥」
は何事もなかったかのように立ち上がると、埃も叩かずに上靴をひっつかんで靴下で汚れた廊下を歩く。
あっけない終わり方だったと今更ながらに思った。
飽きたという一言で、終わり。
は足掻くことも縋ることもなかった。
いやだと引き留めることもせずに、ただ、そうかと視線を落とした。
納得するみたいに。
――その程度‥‥だったのかもしれない。
泣いて、縋って、離れたくないと言えるほどの恋愛じゃなかったのだと。
だから、
ずる、
と片方の脚を引きずって歩いた。
だから、苦しくなかったんだ。
――おまえの事――もう飽きた――
だから、
引き留める事も、なかったんだ。
結局――本当に好きじゃなかったんだろう――

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