情けない声を上げて逃げていく男を土方は見えなくなるまで見送る。
  そのついでにこちらを見ている下心見え見えの男達へとさりげなく牽制の為に睨みを効かせると、その誰もが慌てて視線
  を逸らした。

  隙あらば声を掛けようと思っている連中は、悟った。

  あれが相手では‥‥分が悪い――

  土方は端正な顔立ちを歪めて、ふっと溜息を零すと、漸くの方へと振り返る。
  彼女は驚きのあまり目をまん丸く見開いたまま固まっていた。
  どうやらここに自分が来る、というのは全く予想していなかったらしい。
  まったく、とここまで連れてきたはずの友人の姿を探したら‥‥見あたらなかった。
  まんまと逃げたようだ。

  「こんな所にコイツ一人放り出して何やってんだか‥‥」

  綺麗に着飾った彼女をこんな所に一人残す‥‥なんて、狼の群に子羊を放り投げるようなものだ。
  紳士の仮面を被った獣どもがうろうろしているというのに。

  「大丈夫か?」

  声を掛けるとは漸くはっと我に返った。
  それから改めて土方の姿を見て、

  「土方さん‥‥ですよね?」

  と訊ねてくる。
  ああ、と男は頷いた。

  「他に誰だと思ったんだ?」

  にや、と意地悪く訊ねるのは‥‥確かに彼の声だし、彼の表情だ。
  確かにいつもスーツを着てはいるけど、いつもはもっと‥‥どこか緩い感じだ。
  今のようにきっちりとボタンを上まで締め、ネクタイをきちんとしているということはまず珍しい。
  それに、髪だって。
  綺麗に後ろに撫でつけられて‥‥隙がないぶん、いつもよりも大人びた雰囲気。

  「‥‥別人かと思った。」

  「そいつは誉め言葉か?」

  くつ、と彼は喉を鳴らして笑う。

  自分もそうだけど、彼女も別人のようである。
  彼は改めて少女の姿を見る。

  可愛らしいピンクのドレスとファーの上着のおかげで、いつもよりも数段少女らしい甘さを感じる。
  だというのに開いた胸元が相反する女の色気というのを醸し出していた。
  控えめにしている化粧のせいで大人っぽくも見えるけれど、どこかに少女らしさを残している。
  なるほど彼女を作り出した人間というのは彼女の良さをよく分かっている。
  凛として大人っぽく見えるけれど、時折見せる彼女の柔らかさやら女の子らしい甘さとのギャップがの良さなのだ。
  どことなく危うげな感じのするギャップに、男はころりと騙されるのである。

  「土方さん?」
  マジマジと見つめられて、は居心地悪そうな顔になった。
  「‥‥変、ですか?」
  訊ねられて彼は苦笑交じりに首を振る。
  「よく、似合ってる。」

  綺麗、とか、可愛いとかそういう言葉で表現できなくて、彼は曖昧に似合っていると表現した。

  「‥‥ちょっと移動するか。」

  見つめ合っている彼らをまるで邪魔でもするかのように人の波が押し寄せてくる。
  土方はさりげなくの肩を抱いて壁際を歩いて、別の方から出口へと向かう。
  は彼に身を預けながらずっと抱いていた疑問をぶつけた。

  「どうしてここに?」

  ここはどこで、何故彼がここにいるのかという意味合いを込めて訊ねると、彼はひょいと肩を竦めた。

  「ここは‥‥おまえと、俺が着てる高級ブランドのプレイベント会場ってやつだ。」
  「プレイベント?」
  「ああ、会社の関係者と、出資者やらが集って一般に出回る前に新作をお披露目するってそういうイベントだな。」
  へえ、とはちらりと横目で人々を見る。
  確かに居並ぶ人々は誰もが金持ちっぽい。
  出資者というのならばよく分かる。
  ああそういえばさっきの男もそうなのだろうか?
  でもどうしてそんな会場に連れてこられたのだろう。

  「そいつのオーナーってのが‥‥実は山南さんなんだよ。」

  あまりに突拍子もない事を言われた気がする。

  「へえそうなんですか山南先生が‥‥ってはい?」

  は一瞬言葉を聞き流しそうになり、間抜けな声を上げて男を見た。
  彼もなんだか釈然としていないようだった。

  「山南先生が‥‥なに?」
  「ここのブランドのオーナー。」

  高級ブランドの‥‥オーナー。
  オーナー。
  所有者。
  つまり、

  「‥‥社長!?」

  思わず大きな声が漏れた。
  一斉に周りがこちらを見たが、は気付いていない。
  それどころじゃない。

  「‥‥やっぱそういう反応になるよな。」

  土方は苦笑している。

  だって、普段はのほほんと保健室で保健医をやってる男がまさか年収うん億という一流ブランドの社長なんてやっている
  とは思わない。
  というか、そんなものをやっているのに何故保健医などという冴えない仕事についているのか不思議である。
  金には不自由しないだろうに。

  「道楽‥‥だろうな。」

  あの人は変わってるから、と土方は呟く。
  変わっているとは思っていたが、まさか社長だとは微塵も思わなかった。

  「で‥‥でも、山南さんが社長なら‥‥どうしてここにいないんでしょう?」

  まだ信じられないという顔のままきょろきょろとあたりを見回す。
  そこでもう一つの質問の答え、である。

  「俺を病院から抜け出させるかわりに、自分の代わりにイベントに参加してこいっていう事になったんだよ。」

  これ、と土方はカードキーを取りだした。
  なんだそれと訊ねると、その鍵はこのビル‥‥上層階のセキュリティカードなのだという。

  「ここの上層部のセキュリティを全部こいつ一枚で管理してるらしくてな‥‥」
  鍵を開けるのも閉めるのも、そのカードが必要なのだと彼は言った。
  「つまり、このイベントがお開きになるまでこいつを持ってる人間ってのはホテルに残ってなくちゃいけない。」
  「‥‥まあ、そうですね。」
  「それが面倒くさいから俺に押しつけてったって事だよ。」
  あの人は、と彼は疲れたような溜息を漏らした。

  なるほど‥‥そういうことか。
  別に社長として彼が身代わりに残ったというわけではなく、ただ施錠の為に残されたと言うことか、なるほどなるほど。
  セキュリティ管理しているカードをそんじょそこらの人間に預けるわけにもいかないし‥‥彼は打ってつけの人材という
  ことか。

  「‥‥この上層階って‥‥つまり、山南先生の持ち物って事ですよね?」
  「そうなるな。」

  なんだかいちいち驚くのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
  とりあえず、住む世界が違うとそういう事で片付けておこう。

  「‥‥それにしても、病院抜け出したって‥‥大丈夫なんですか?」

  は探るような目で男を見る。
  どうやら松葉杖もしていなければギプスも嵌めていない。
  確か彼は脚を骨折していたはずだ。
  もう二十日以上は経つけれど、ギプスってそんなにすぐに外れただろうか?

  「プレートで固定してるから大丈夫だ。」
  「‥‥もう聞くだけで痛々しいですけどね‥‥」
  とても大丈夫とは思えないけど、彼は大丈夫なのだと言い張った。
  「家でじっとしてればいいのに‥‥」
  ぼそっと呟くと土方は疲れたような顔でそれが出来ないんだと答える。
  「あの女が俺の家の周りをうろついてるらしい。」
  いかに理事長権限といえど病院は誰もが面会禁止なので、家の周りをうろついているらしい。
  きっと顔を合わせればやれ結婚だ、なんだと煩く言われるのは目に見えているので、とりあえず保健医という立場を利用
  して山南に裏口から退院させてもらい、このホテルを暫く家代わりに使えと言われているようだ。
  家‥‥にするには豪華すぎるだろうと男は苦笑する。
  その隣ではなんだか暗い顔だ。
  まあ、彼女が土方の家の周りをうろついている‥‥と聞けば不安になるのも仕方ない。
  一橋は男を諦めていないということなのだから。

  「‥‥まあ、このホテルにいる限りあの女と顔を合わせることはねえ。」
  大丈夫だ、と土方はの頭をぽんと叩いた。
  確かに‥‥ここは限られた人間しか出入りすることは出来ないのだから安心、といえばそうだけど‥‥
  万が一にも山南のブランドが買収されない限りは。

  「ってことで、ちょっと部屋に行こうぜ。」
  俺は疲れた、と言って彼は会場を出ていこうとする。
  「え?でも、大丈夫なんですか?」
  鍵は彼が持っているというのにここを離れていいのだろうか?
  そう訊ねれば、土方は苦笑を浮かべて、
  「どうせイベントがお開きになってもあいつら全員が上層階ここに泊まるんだから、明日の朝までは閉められねえよ。」
  と答えるのだった。