部屋の中からはもう声がしない。

  しんと静まりかえって、穏やかな空気で満たされていた。

  時折、

  ひっく‥‥
  ひ‥‥

  としゃっくりの音が聞こえる。

  だ。

  泣いたのは何年ぶりだろう。
  両親が亡くなってから‥‥一度も人前で泣いてない。
  そういえばなんだかんだ言って、彼の目の前で泣くのも初めてだ。

  「‥‥」

  涙はもう止まったというのに、時折思い出したように背中を撫でてくれる手が優しくて、悲しくもないのに目尻からぼろ
  ぼろと涙が溢れて伝い落ちた。
  きっと彼のシャツは涙で汚れてしまっている事だろう。
  そんな余計な事を考えるなと‥‥彼は笑ってくれるだろうか?

  なんて考えていると、そっと肩を掴まれて引き離された。

  そうしてそっと頬を大きな手が包んで、ゆっくりお顔を上げさせられる。

  涙で少し視界がぼやけていた。
  でも、そこにはちゃんと土方がいる。
  これは夢じゃなく、現実。
  彼は目の前で‥‥笑ってくれていた。

  「‥‥」

  は頬を包む手に自分の手を重ねた。

  その人がここにあるのだと、確かめるように。

  「おまえの泣き顔‥‥初めて見た。」

  じっと顔を見つめていた土方が小さく呟き、親指で涙を拭ってくれる。
  瞬きを一つすると涙が落ちて、視界がクリアになった。

  琥珀の瞳が涙の向こうでゆらりと揺れている。
  まるで、水に落ちた宝石を見ている気分だ。
  とっても‥‥綺麗。

  「‥‥おまえの泣き顔、綺麗だけど‥‥」

  だけど、と彼はひょいと意地悪く目を細める。

  「エロイ。」

  なんだかものすごく場違いな発言を聞いた気がする。

  人の泣き顔を見て‥‥エロイというのはどういうことか‥‥

  「‥‥」

  は憮然とした面持ちで男を睨み付けた。
  なんですかそれとその目が語っている。

  「いや、褒め言葉だって‥‥」
  「どこがですか。」

  泣いたせいで少し鼻に掛かった声が漏れた。

  土方は不服そうに眇められた目元をちょいちょいと宥めるように撫でて、

  「エロイってのは‥‥」

  声を少しだけ落として、囁くように言う。

  「そそるって事だ。」

  そう告げる男の目に、一瞬にして男の欲の色が灯り、は目を見開いた。
  口も同様に開かれるけれどそこから言葉は出ない。

  衝撃で涙は止まってしまった。

  「あれ?もう泣かないのか?」

  残念。
  とどこか楽しげに彼は呟く。
  なんだかからかわれた気がして、

  「この‥‥エロオヤジっ」

  ぼすっと胸を一発叩く。

  いて、と小さく呻いたが、聞こえない振りをした。
  変なことを言った罰だ。

  「悪い悪い。」
  そう怒るなと土方はの頭をよしよしと撫でる。
  苦笑でそうしていたかと思うと、急に真顔になって、

  「‥‥先に、伝えておきたいことがある。」

  声も真剣になる。
  は居住まいを正した。
  同じく真剣な眼差しで見つめ返すと、

  「俺、教師辞めようと思うんだ。」

  彼はそう言った。

  「教師を辞めて、別の仕事に就く。」
  「‥‥」
  「そうしたら、もうびくびくしながらおまえと付き合うこともないだろ?」

  その言葉に、やはり別れた原因というのは、
  『生徒と教師が付き合っている』
  という事を誰かに見咎められたからなのだと分かった。

  「‥‥理事長に、見つかったんですか?」
  訊ねると、彼はそうだ、と溜息交じりに答えてくれた。
  「あの女、どこで手に入れたのか分からないが‥‥俺とおまえの写真を持ってたんだよ。」
  丁度彼女が自分の家から出てくる写真だ。
  あのマンションは学校関係者もいないし、学校からも離れているからと油断していたのがまずかった。
  どこからか、見られていたのだ。

  「それをネタに、取引を持ちかけられた。」
  「‥‥私と別れろって?」

  ああ、と彼は頷き、それだけじゃないと口元を歪めて笑う。

  「自分と結婚しろ、だってよ。」
  「‥‥とんでもない人‥‥ですね。」

  はしみじみと呟いた。

  とんでもなく卑怯だが‥‥確実に自分の欲しい物を手に入れる方法を知っている賢い女だとも思う。
  ただ、そんな方法で手に入れても虚しいだけだと思うけれど。
  だって、心までは手に入らない。

  「俺とおまえが教師と生徒だから‥‥問題になるわけだから、俺が辞めれば問題はなくなるはずだ。」
  「‥‥」
  「ただ、すぐにあの女と別れるってわけにもいかねえから‥‥」
  そんなことをしたら、彼女は確実にそのネタをばらまいて、彼女をねらい打ちするだろう。
  それでは意味がない。
  「だから俺が辞めて‥‥ほとぼりが冷めてからあの女とは別れるって事になると思う。」
  若しくは‥‥彼女の熱が自分から離れるのを待つか‥‥
  どちらにせよ少々長期戦になりそうだ。

  「‥‥その間は、悪いけど我慢してもらえるか?」

  彼女とやり直す、なんて言っておきながら二股を掛けているような状態だ。
  きっと今までのように会うことも出来ないし、暫くはあの性悪女に付き合ってやらなければいけない。
  もしかしたらあの性悪女はに対して嫌がらせもするかもしれないが‥‥少しの間だけ辛抱してもらいたい。
  そうすれば‥‥うまくいくはずだから。

  苦笑でそんな事を言うと、彼女は、

  「――いやです――」

  ときっぱりと首を横に振った。

  「そんなの我慢できない。」

  そんなの我慢が出来るわけがなかった。

  「なんで、そんなこと平気で言えちゃうんですかっ」

  は腹が立った。
  収まったはずの涙がまたこみ上げてくる。

  「なるべく時間は取るようにする‥‥」
  「そんなこと言ってるんじゃない!」

  噛みつくように反論する。

  会えないのは寂しいけれど‥‥そんなの些細なこと。
  それよりもなによりも、

  「土方さんが‥‥あの人に触れるのはもうやだ。」

  自分にしてくれるように、

  彼女の手に、
  髪に、
  頬に、
  唇に、

  触れるのは嫌。
  触れられるのも、嫌。

  「‥‥」
  「黙って、土方さんがあの人に触れるのを見てろって言うんですか?」

  ぎゅっと大きな、自分の手なんかすっぽりと包んでくれる大きな手を掴んでは嫌だと首を振る。

  好きな人が他の女に触れるなんて堪らない。

  「土方さんがあの人にキスするのも‥‥」
  「‥‥」
  「あの人を、抱くのも‥‥」

  黙って、見過ごせというのか。
  そんなの残酷すぎる。

  ――優しくしてくれる、と色っぽい眼差しで呟いたあの人を思い出す。

  自分を抱くように、
  愛さなければいけないのだとしたら‥‥


  「そんな事になるくらいなら、私が――学校、辞める。」

  きっぱりとは言った。
  迷いなど微塵もない彼女の言葉に、土方は一瞬呆気に取られ、

  「なっ、それじゃ意味が‥‥」

  自分が教師を辞める意味がない。
  それでは彼女の将来が台無しになってしまう。
  そんなこと、

  「私、別に将来なんてどうでもいい。」

  やっぱりは微塵も迷わずに、恐れずに言った。

  大学行けなくても、一流の会社に勤められなくてもいい。
  高校も碌に卒業できていなくてまともな仕事につけなくて、苦労したっていい。
  安定したものなんて全然いらないから。

  琥珀の瞳は、男だけを見つめる。
  迷いのない瞳で。
  彼だけを、求めるように。

  「土方さんが‥‥いてくれたら‥‥」
  それだけで、自分の未来なんてすごく幸せだ。

  「私、他になにもいらない。」

  贅沢なんて出来なくて良い。

  「土方さんさえいてくれれば、それだけで幸せ――」

  だから、とは笑った。
  そんな健気な事を言われて、男はなんとも言えない顔になる。
  泣きたいのか、笑いたいのか、それとも怒りたいのか。
  そんな顔をしばらくしていて、
  ああもう、と彼は呻いてをぎゅっと腕の中に閉じ込めた。

  「俺‥‥もう、地獄に堕ちてもいいや。」

  どこか投げやりに言って、溜息と共に笑う。

  きっと‥‥これだけ酷いことをしてきた自分は天国には行けないだろうが、今すぐ地獄行きを宣告されてもいい。
  彼女が望むなら、もう、それだけでいい。

  「わかった。
  おまえが嫌なら‥‥今すぐ別れる。」

  付き合ってるつもりは微塵もないけれど、彼女が嫌だというのならばすぐに手を引こう。
  もしこれで彼女が傷つけられることになったとしたら‥‥自分が守ればいい。
  傷ついても、傷つけても、

  もう、絶対

  「離さない――」

  真っ直ぐにきっぱりと、彼は言った。

  離さないでと返すように、は重ねてその手を握り返した。

  「覚悟しろよ?
  俺はこうと決めたら絶対に離さないぞ。」
  彼女が離してくれと懇願しても、もう、無理。
  茶化して言えばはくすくすと笑った。
  濡れた目元をそうっと細めて、
  「‥‥望むところ。」
  挑発するように笑う。
  「土方さんこそ覚悟しておいてくださいね?」
  私、しつこいですよと彼女は言葉を返す。
  そのしつこさは今回のでよく分かったよと土方は笑い、おしゃべりはここまでとでも言うように頬を撫でる手に別の意図
  を込める。

  「‥‥」

  それだけで、は感じ取って、一瞬だけ躊躇った後、
  ゆっくりと琥珀のそれを閉ざす。

  「すきだ」

  もう一度、想いを言葉に乗せて、そぅっと唇を重ねた。

  まるで、初めて口づけるかのような、
  新鮮な、キス。

  「‥‥」

  久しぶりに触れる唇は、これほどに柔らかかっただろうかと男を驚かせる。
  重ねただけで、そこからとろっと溶けてしまいそうな‥‥そんな柔らかさ。
  かさついた自分の唇では、傷つけてしまいそうだった。

  「ん」

  少し離して、舌で己の唇を湿らせる。
  それからもう一度、強く、押し当てればじりと合わせた所から妙な感覚が広がった。
  それは、自分だけではない。

  「あっ」

  やだ、と彼女は肩を押しのけようとする。
  逃がさないと追いかけて、もう一度触れるだけのキスをする。
  じりりと走るのは‥‥苦しいくらいの、熱と、疼き。

  「や、だ‥‥なんかっ」

  は涙目で訴える。

  なんだろう、キスだけなのにすごく敏感に感じる。
  身体が疼いて‥‥仕方がない。

  「ああ、そりゃ‥‥当然だ。」

  男も呼吸を乱して、色っぽい視線を向けてきた。
  ぞくぞくと背中を震えが走っているのを男も感じていた。

  「一ヶ月も離れてた分‥‥敏感になってる。」

  キスだけで‥‥感じるほどに、敏感になっているのだ。

  「あ、やっ‥‥」

  下唇を噛まれてぞくりっと背筋が震えた。
  思わず漏らした声は甘ったるく、媚びるような響きがある。
  恥ずかしくて声を抑えようとしたら、下唇にゆるゆると刺激を送られた。

  「ぁっ‥‥んっ‥‥」

  まるで、身体全体を愛撫されている時に、
  感じているときに漏れる声みたい。

  その声に男は更に煽られ、制服の上から胸をまさぐってくる。

  「やっ、まって‥‥」
  「待てねえ‥‥」

  今すぐ、欲しかった。

  早く、彼女と一つになりたくて。
  堪らなかった。

  だけど、そんな彼を咎めるかのように、

  ――じりっ――

  「っ」

  強烈な痛みが、そこから駆け上がってきた。

  時間切れ――

  「っつ‥‥」

  ずる、と頬に口づけていた唇が滑る。

  「わっ、だめっ」

  首筋を男の荒い吐息が擽った。

  駄目、
  これ以上は‥‥

  とが制止を掛けるよりも前に、

  「‥‥いってぇ‥‥」

  上がったのはうめき声。

  「え?」

  きょとん、とは一瞬目を丸くし、そうしてすぐに事態に気付いた。

  「うわっ!き、傷口!?傷口開いたんですか!?」

  うう、と肩にもたれ掛かる男の顔は真っ青だった。
  縫った傷跡を押さえている所を見ると、傷が開いたか、もしくは、薬が切れたか‥‥

  「ちょ、人!人呼んでくるから!」

  ああそれよりも、携帯で沖田を呼び出すのがいいか。

  は慌ててポケットに手を突っ込む。
  だが、その助けを呼ぶよりも前に、

  「え‥‥?」

  ぬっと彼の背後に現れた人影がもたれ掛かる男の腕を取った。
  その人は、呆れたような顔で眼鏡をそっと直しながらやれやれと呟いた。

  「君は自分が怪我人という自覚はあるんですか?」
  「さ‥‥山南先生‥‥」

  まったくと言いながら彼は肩を貸す。

  「それから、教職者という自覚も足りないようですね。」
  ここは学舎ですよという言葉に顔を顰めながら土方は反論した。
  「この‥‥出刃亀‥‥」
  「出刃亀とは失礼な。
  君が無茶をしないか監視をしていただけですよ。」
  それを出刃亀と言うんだと土方は言いたかったが、生憎と意識の方がギブアップだ。

  「ひ、土方さん!?」

  青ざめた顔で、目を閉じる彼には慌てて駆け寄るが、山南は大丈夫ですと笑ってくれた。

  「気を失ってるだけですから。」
  「そ‥‥うですか‥‥」

  ほっとは胸をなで下ろした。
  山南は気を失った男の顔をやれやれと言った風に見て、

  「ようやく、腹を括ったようですね。」

  小さな呟きを落とす。

  は幸せそうに笑って、はい、と頷いた。

  「でも、校内で性行為は禁止ですよ。」

  なんだか山南という人が分からなくなった瞬間――