「いた!」

  雪に足を取られながらも駐車場に続く道を走る。
  見つけた。
  彼だ。
  見慣れた、黒の車も見つける。
  助手席には‥‥人の姿はない。
  なんだか安心しながら、でも、もしかしたら彼女をあの席に座らせたのかもしれないという不安が頭を擡げた。

  『おまえだけの特等席』

  と言ってくれた彼はもう‥‥

  「ううん!」

  は頭を振った。

  そんなことはない。
  止まりそうになっていた足を叱咤して、走り続ける。

  あれこれ考えたって埒があかない。

  正面切ってぶつからないと‥‥何も始まらない。

  「あ、発車しちゃいました!」

  千鶴が息を切らせながら叫ぶ。

  運転席に乗り込んだ男は、ベルトを締めると当然のように発車する。
  勿論気付いていないのだから当然だ。

  そのまま走り去られてはまた次にいつ会えるか分からない。

  車は駐車場を出て、道路へ‥‥そして、彼らの前を走り去ろうとする。

  「このっ」

  沖田が突然止まった。
  かと思うと、持っていた携帯を思い切り振りかぶり、

  「止まれ――!!」

  それを車の前に投げつけた。

  勢いよく飛んだそれは空を切って狙い通りの場所へと飛んでいき、

  「っ!?」

  がちゃん、と黒いアスファルトが見えている地面を叩いて壊れた。

  唐突に何かが目の前に飛んできて、弾けた為、当然車は止まる。

  は好機と、階段を二段ほどすっ飛ばして走って‥‥

  ――ダン!!

  冷たいボンネットの上に、思い切り手を着いてやった。

  「‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥」

  息が、上がる。

  いつもはこんな距離全力疾走したって辛くもないのに、何日という栄養不足が祟ってか‥‥身体は思ったように動かない。
  立っているのがやっとという状態で、足だってガクガク震えていた。
  へたり込んでしまいたかった。
  でも、

  「‥‥‥‥」

  運転席の男が自分を見て、しっかりと名を呼んだのが唇の動きで分かる。

  「‥‥」
  「‥‥」

  沖田は千鶴の腕を掴み、離れた所で止まる。
  不安げに振り返る彼女に頭を振った。

  ここから先は‥‥彼女にしかできない事だ。

  一つ、息を吸い込む。
  すうと神経が冴えていくのが分かった。

  もう、
  退けない。

  逃げたくなかった。

  「――出てきて。」

  聞こえるくらいの大きな声で運転席の男に告げる。

  言葉に一瞬、彼の表情が強ばった。
  だがすぐにそれを冷たい仮面で覆って、静かにエンジンを止めると、ドアを開けた。

  「車の前に飛び出すなんてどうかしてるぞ。」

  出てくるなり、彼はそう言って咎めた。

  そんなの分かってた。
  どうかしてるのは自分だって分かってる。

  でもどうしても話がしたかったんだ。

  「‥‥俺は‥‥もう近付くなと言ったはずだが‥‥」
  双眸を険しくし、男は拒絶を露わにした。
  以前の自分ならばそれだけで手を退けてしまったかもしれない。
  傷つきたくないと‥‥逃げたかも知れない。
  今は違う。

  「私は、了承した覚えはない。」

  凛とした、揺るぎない言葉が口から零れた。

  「なんだと?」

  ぴくんと彼の眉が跳ね上がった。

  は一度、すぅと大きく息を吸うと、お腹に力を入れて、もう一度‥‥彼を真っ直ぐに見て口を開く。

  「私、まだ、納得してない。」

  何も。
  彼女の中では終わっていない。

  「‥‥勝手に別れようって言われた理由も、ちゃんと聞いてない。」
  「だから、それは‥‥おまえに飽きたって‥‥」
  「飽きたとは聞いた。」

  は聞きたいのはそれじゃないと言う。

  「‥‥でも土方さんが私を嫌いとは‥‥聞いてない。」

  嫌いになったから別れようと言われたわけじゃない。
  彼の気持ちがまだ、自分から離れたかどうかなんて分からない。

  は弱くなりそうな自分の心に、大丈夫と告げて、いっそ睨み付けるように愛しい人を睨んで言葉を紡いだ。

  「私に諦めさせたいなら、私をちゃんと嫌いだって言ってください。」

  ちゃんと、
  彼が自分を、
  嫌いだという想いを‥‥
  ぶつけてくれ。

  「納得できるまで‥‥何度だってぶつかってやる。」

  彼女の瞳は、酷く澄んでいて‥‥
  苦しくないはずはないのに、その瞳は真っ直ぐで。

  見ているこちらの方が、苦しくなってくる。

  どうして。
  どうして彼女は。
  何度も傷つけられたのに‥‥
  自分に何度も傷つけられたのに‥‥そんなに真っ直ぐに自分を見るのだろう。

  どうして、
  どうして‥‥向かってくるのだろう。

  「‥‥どうして‥‥」

  いいや、
  そんな女だった。
  彼女はそんな女だった。

  堂々として‥‥強くて。
  でも、弱くて。
  悲しいくらいに不器用で。
  脆くて。
  でも、

  「‥‥真っ直ぐな‥‥」

  ただひたすらに前だけを見つめる‥‥真っ直ぐな‥‥女。

  だから、
  だから、

  自分は――

  男は静かに溜息を零した。
  はっと漏らしたそれは、何かを諦めたような響きを持っていた。

  「おまえは‥‥本当に、どうしようもねえ馬鹿だな。」

  吐き捨てるような言葉にはむっとしながら、あなたもですと内心で答えた。
  紫紺の瞳が一瞬‥‥悲しいくらい優しい色を浮かべる。

  「‥‥嫌いだって言えば‥‥おまえは諦めがつくのか?」

  続けて紡がれたのは残酷な言葉。

  じゃあ、言ってやるよと男は投げやりに言った。
  こうすれば全てが終わるというのは分かっている。
  終わらせてやろうと思った。
  そうすればもう‥‥

  「俺は‥‥」

  彼女を――苦しめなくて‥‥すむ。