ゆらり、ゆらりと波の中にでも漂っているようだ。
身体が右に左に‥‥揺れている。
ふわふわ、ふわふわ。
心地良い。
「‥‥さん‥‥」
眠りの波に身を任せていたいのに、誰かが呼ぶ声が聞こえる。
何度も何度も自分を呼ぶ声。
もう、寝かせてよ。
眠っていたいんだから。
このままずっと‥‥
「さん!」
「!」
まるでそれを許さないかというような強い声が、意識をずるりと引きずり出した。
「‥‥あれ?」
目を開けると見慣れた天井が見える。
自分の部屋の寝室の天井だ。
でもおかしな事に、そこに沖田と千鶴の姿が見える。
「総司‥‥千鶴ちゃん?」
なんでここに?
いや、彼らがこの部屋に訪れるのは初めてじゃないけど‥‥なんでだろう。
二人ともすごく心配そうな顔で覗き込んでいた。
それが、ふにゃ‥‥と心底安心したような色に変わる。
「よかった‥‥」
沖田がほっと溜息を吐いた。
「覚えてる?
駅前で、雪の中で倒れてたんだよ。」
「‥‥駅前‥‥?」
なんでそんな所に?
「運良く、通りかかった人がいたから良かったけど‥‥あんな人気のない所で倒れて‥‥下手したら死んでたよ?」
分かってるの?
と強く言われて、は首を捻った。
「‥‥私‥‥どうしてそんな所にいたんだろ。」
「そんなのこっちが知りたいよ。」
やれやれと言ったように呟き、沖田は腰を上げた。
「山南先生。
、目を覚ましました。」
「そうですか。」
呼びかけに、これまた驚くことに部屋に入ってきたのは保健医の山南だった。
え、なんで?とこれには目を丸くして驚いていると、
「運良く通りかかった人‥‥というのは私の事なんです。」
と教えてくれる。
見知った人が雪の中に倒れているのを見つけて、の携帯を拝借しそこから沖田や千鶴に連絡を取りここまで運んでくれた
のだろう。
「熱がありますから、横になっていて下さいね。」
「‥‥お手数おかけします。」
そう項垂れると、全くです、と眼鏡の奥を細めて穏やかに窘めた。
「クリスマスだから気分が浮かれる気持ちは分かりますが‥‥だからといってあんな寒いところに何時間といるのはどう
かと思いますよ。」
クリスマス‥‥
その言葉でかちん、との頭の中で繋がってしまった。
何故、
そんな所に、
いたのか。
そして、
彼の、言葉を。
思い出してしまった。
「‥‥‥」
くしゃと歪む彼女の顔を見て、千鶴はもう我慢できないとばかりに立ち上がった。
「私!いますぐ土方先生の所に行ってきます!」
「え‥‥千鶴ちゃん?ちょっと?」
コートを羽織ると、本気で飛び出していこうとする。
ちょっと待ってとは声を上げ、上体を起こした。
くらん、と目眩がした。
熱があるのだから当然だ。
しかし、山南は咎めず、腕を組んでその動向を見守っている。
「待って、なんでそこで土方先生が出てくるのさ‥‥」
「だって!さんがあそこで倒れてたのって‥‥土方先生を待ってたからじゃないんですか!?」
あそこが二人の待ち合わせ場所というのは千鶴も、沖田だって知っている。
そんな所で倒れていた理由もだからなんとなく分かっていた。
きっと、彼を待って‥‥待って‥‥来なくて‥‥倒れた。
「違うって‥‥」
はあははと笑った。
「ほら、ちょっとクリスマス気分を味わいたいって思って‥‥さ。
山南先生の言うとおりだよ。浮かれすぎて‥‥」
「やめてください!!」
悲鳴にも似た声が言葉を遮った。
千鶴は苦しげに眉を寄せていた。
「そんな風に無理して笑わないでください。」
そんな、
苦しそうに。
無理に笑顔を作らないで。
見ているこっちが辛い。
彼女はそんな風に空っぽに笑わない。
見ているこちらが幸せになるくらい、楽しそうに笑う人なのに。
そんな‥‥苦しそうな顔で。
笑わないで。
「さん、全然ふっきれてないじゃないですか‥‥」
彼のこと。
全然吹っ切れていないじゃないかと言われて、はどきりとした。
ずきんと胸が痛んだけれど、それはきっと気のせい。
「吹っ切れてるよ。」
「吹っ切れてませんよ!」
千鶴が強い調子で言った。
そうしてずかずかと近付いてくるとの腕を掴む。
ほっそりとした‥‥骨と皮だけになってしまった手。
「今だって好きで仕方ないからっ‥‥ご飯も喉を通らないんでしょう!?」
まるで、彼がいない今を拒むように。
「ご飯も喉を通らなくてっ‥‥眠れなくて‥‥」
まるで、彼を失ったまま生きるのを拒むみたいに。
う、と嗚咽が聞こえた。
ぼた、と次の瞬間、の手の甲に滴が落ちる。
千鶴の涙だ。
すごく‥‥暖かい。
まるで彼女の自身のようだ。
「そんな状態になっちゃうくらいなら‥‥もっと足掻いてください!」
苦しくて。
悲しくて。
生きていることさえ辛いなら、もっと足掻けばいい。
「さん、全然足掻いてないじゃないですか!」
そう、足掻いていない。
ただいらないと言われて、そうか、と納得した。
いや、
納得した振りをした。
だって‥‥そうしないと‥‥
「どうして、どうして戦わないんですか!?」
「――怖いからに決まってるっ!!」
自分でも驚くくらい、強い声が漏れた。
言葉にしてから、そうだったのかと気付いた。
足掻こうとしなかった理由は。
受け入れた振りをした理由は。
ただ、
怖かったから。
吐いてしまってから、身体が一気に震えた。
恐怖で。
呼吸が乱れて、苦しくなる。
「‥‥怖いんだよ‥‥」
震える自分を押さえるように。
あるいは、自分を守るかのように。
は己の身体を己の手で抱く。
「足掻いて‥‥縋り付いて‥‥やっぱりいらないって言われたときにっ‥‥」
自分の気持ちをちゃんとぶつけたときに。
やっぱり、
いらないと言われたら。
「こわくて‥‥」
こわくて、堪らない。
だから逃げた。
傷つく前に逃げた。
逃げて逃げて逃げて‥‥
徹底的に逃げて‥‥
「それで、何か変わった?」
静かな沖田の問いかけに、ひくりと喉が震える。
こんな時、彼は残酷だと思う。
彼はいつだって‥‥冷静に‥‥
容赦なくつきつけるから。
真実を――
そう‥‥何も変わっていない。
何も‥‥何も変わらず。
ただ、
自分は生きることを諦めようとしている。
でも、今更気づいたところで遅い。
どうしろっていうんだ。
彼はもう、自分の所には戻ってきてくれないのに‥‥
「結婚‥‥するって‥‥言ってたもん。」
無理だ。
足掻いた所で無理じゃないか。
彼はもう、別の人を選んだ。
「それって‥‥あの理事長先生の事でしょ?」
「‥‥」
は頷かなかったが、そんなの聞かなくても分かった。
でもさ、と沖田は首を捻る。
「僕‥‥あの人、なにかしてると思うんだよね。」
なにか。
これは予想‥‥というより確信になりつつある。
あの女が汚い手を使って、土方とを別れさせ‥‥自分の物にしようとしている、と。
「おおかた、二人が付き合ってる事をばらされたくなければ‥‥とかそういうんじゃないの?」
「‥‥そんな事で‥‥土方さんがさんと別れるとは‥‥」
それくらいなら自分が辞めてとか言いそうなのにと千鶴が言いかけると、沖田は首を緩く振って否定した。
「土方さんはバラされても辞職すれば済むけど、の将来が台無しになるっていうのをあの人が黙って見ていられるとは
思えない。」
「あ‥‥」
確かに。
千鶴は納得した。
彼の言うとおり、土方は教職を辞すればそこで収まる。
でもはどうだろう。
学校を卒業するまでそれが付きまとうのだ。
そして下手をしなくても彼女の大学進学まで影響は及び‥‥は未来を奪われることになる。
高校を辞めた所で‥‥同じ事だ。
「それに‥‥好奇の目で晒される。」
人は好き勝手に言い、彼女を傷つける。
そんな事‥‥あの男が許せるはずがない。
「ほら、。
これだけ愛されてるんだよ?」
結局を傷つけてるあたり、本末転倒もいいところだと思うが彼女を守ろうとした気持ちは汲んでやりたい。
「自分の人生棒に振ってまで、守りたいって‥‥好きじゃないと出来ないでしょ?」
「そうですよ!だから自信を持ってください!」
沖田と千鶴に励まされ、うっかり、頷いてしまいそうになる。
でも、二人が言ってることは結局、
「憶測‥‥」
想像でしかない。
「そんなの‥‥本人に聞かないと分かんない‥‥」
「それなら聞けばいいじゃないですか。」
尤もな意見を述べたのは、第三者だった。
「‥‥山南先生?」
二人も驚いて彼を振り返ると傍観していたはずの山南は腕を組んだ状態のまま、を真っ直ぐに見て淡々と告げる。
「分からないなら聞けばいい。
当然の事です。」
それはそうなのだけど‥‥
「で‥‥でも‥‥そんなの教えてくれるわけ‥‥」
教えてくれる保証はない。
それどこか、自惚れも良いところだと軽蔑されてしまうかも知れない。
「それに、もう近付くなって‥‥」
もう、俺に近付くなと彼はきっぱり拒絶した。
きっぱり拒絶されたのに。
「あなたは――納得したんですか?」
納得。
近付くなと言われて。
納得‥‥
「出来るわけ‥‥ない。」
きゅっと唇を噛みしめて悔しげに言葉を紡いだ。
納得できるわけがない。
近付くなと言われても。
そもそも別れようと言われた言葉にさえ納得していない。
自分は了承だってしていない。
「なら、いいじゃないですか。」
自分の好きにして、と山南は笑って言った。
「あなたが納得していないなら、納得できるまで好きにすればいいじゃないですか。」
とことんぶつかって、納得の答えが得られるまでやればいい。
「それから‥‥」
「‥‥」
そうっと双眸を細めて、優しく彼は笑った。
「あなたが‥‥彼を想い続けることも‥‥」
彼女が好きなようにすればいい。
好きなだけ想って‥‥好きなだけ追いかければいい。
そんなの誰にだって止められない。
例えばあの理事長先生にだって、
勿論、
土方にだって。
「まだ、好きなんでしょう?」
すとんと言葉が落ちてきた。
まだ、彼のことが好きなのだろう?
そう、
自分は、
「‥‥好き‥‥です。」
あの男を未だに愛している。
不器用で、分かりにくくて、繕うことだけは上手い、面倒くさい‥‥だけど、すごく優しいあの人を。
愛している。
そう改めて思うと、なんだろう、心の中につっかえていたものがぽろっと取れたような気がした。
状況はなんら変わらないのに‥‥どうしてだろう、心が‥‥軽い。
「無理矢理自分の心を変えようとするから、余計に辛いんですよ。」
山南は言った。
彼の言うとおりだ。
納得したんじゃなく‥‥無理矢理‥‥ねじ曲げた。
ねじ曲げて本当の気持ちを見ないようにした。
だから‥‥心が拒絶したんだ。
偽りだらけで生きることを。
「あなたは本来、まっすぐな人なんですからね。」
山南はまるでそれが正しいことなのだと言うようにきっぱりと言い、静かに部屋を出て行った。
扉を開けた瞬間ふわりといい香りがしたから、もしかしたら何か作ってくれたのかも知れない。
「いい、先生だなぁ。」
その後ろ姿を見送りながらふふと笑っていると、そっと伸びた手が頭をわしゃわしゃとかき回した。
「わ!?」
なに?と視線を向ければ、沖田が苦笑を浮かべていた。
「、先生だけじゃないでしょ?」
「な‥‥なにが?」
「の味方。」
え?
驚いて目を丸くすれば、沖田と千鶴はにっこりと笑顔を浮かべてこちらを見つめてきた。
「私たちがいます。」
「そう、だから、一人で我慢する事ないって事。」
「っ」
二人はそう言うと、の手をそれぞれ取った。
じんわりと暖かい熱が手を包み‥‥それが伝染していく。
彼らの優しい気持ちごと。
伝染して‥‥弱った心を、包み込んでくれるみたいで‥‥
「‥‥っ、うれし‥‥」
はくしゃっと顔を歪めた。
嬉しいなら笑ってよと沖田が茶化すと、千鶴がその彼を窘める。
その間も、手は、ずっと握ったまま。
彼女の手が‥‥温もりを、優しさを取り戻すまでずっと、繋いでくれるつもりだ。
「ああ、でもきっと僕たちだけじゃなくて‥‥」
他の人だって‥‥と言いかけたのと同時に、ばんっと乱暴に戸が開かれた。
「姉さん!無事っ!?」
「か、薫!?」
飛び込んできたのは、千鶴と同じ顔をした‥‥でも、男子の制服を着た人物。
正真正銘千鶴の双子の兄、雪村薫だ。
彼もまたの従兄弟で‥‥また、妹に負けず、
「ああ無事だった!良かった!」
ぐいと手を繋いでいる沖田の手を邪魔だとばかりにふりほどいて代わりに自分がの手を取ると、心底安心したという風に
笑った。
彼は普段あまり笑顔を見せない事で有名だが‥‥そこは見事な馬鹿、である。
忙しい両親に代わって、昔から可愛がってくれた本当の姉みたいな存在ならば当然かもしれない。
実は相当のシスコンという事でも有名である。
その対には千鶴も入っていた。
「大丈夫だからね、僕が守ってあげるから。」
「薫‥‥どうでもいいが、病人の前でうるさくするな。」
続いて入ってきたのは薫と同じ風紀委員である斎藤だった。
「一!?」
なんでおまえまでここに‥‥と声を上げれば、彼もまた苦笑を浮かべて、
「おまえが倒れた‥‥と聞いてな。」
放っておけるわけがないだろうと言いながらベッドの傍に近づいてきた。
「具合は‥‥ああ、まだ顔色が悪いな。」
「‥‥」
「精のつきそうなものを買ってきた。」
彼は言いながらベッドサイドにドンドンと栄養のありそうな食材を置いていく。
しかも大量に。
「ちょっと一君。
確かに精はつくけど、ウナギ丸々一尾は無理でしょ。」
まだ食欲ないってのに‥‥と言うと、彼は失念していたという風な顔になる。
どうやら彼らしくもなく冷静さを欠いていたらしい。
それだけ彼女の事を心配していたのだろう。
それをふふんと嘲笑い、
「僕も栄養ドリンクとか、手っ取り早く採れる物を持ってきたよ。」
薫も負けじと持っていた袋からケースで栄養ドリンクを取り出した。
随分と重たそうだ。
「あ‥‥ええと‥‥ありがと‥‥」
「あと、これは平助が。」
続いて斎藤が取り出したのは何故かカイロのパックだ。
「‥‥身体を冷やすなと言っていたが‥‥」
「平助君‥‥がどういう状況かいまいち分かってないんじゃない?」
「ま、まあいいじゃないですか。
平助君なりに考えてくれたんだし。」
「何言ってるのさ、僕の方がずっと‥‥」
「だから薫、あまり騒がしくするなと言ってるだろう?」
「おやおや随分と賑やかになりましたね。」
苦笑でやってきた山南が一同を見回して呟く。
ふわりと良い香りがして、のお腹が久しぶりにくうと音を立てた。
騒がしかったくせにその音は皆に聞こえたらしく、一瞬しんと静まりかえって、
「‥‥」
流石に注目されては少しばかり恥ずかしいと視線を落とした。
がいつまで経っても誰も何も言わず、笑いもしない。
どうしたんだろうかと顔を上げれば、
「‥‥」
みんながこっちを見て、笑顔を浮かべていた。
とっても優しい顔で、
まるで、それが当たり前なんだと言うように、笑っていた。
ふと、唐突に部屋が狭く感じた。
そんなに狭い部屋じゃないはずなのに‥‥どうしてそう感じるのかと思った。
ああそうだ、いつもは一人だから。
今はこんなに人がいっぱいいる。
みんながいて。
笑っていて。
みんなが、
明るくて。
それから、
優しくて。
「ほら‥‥ね?」
沖田は苦笑で呟く。
彼が突然何を言い出したのか‥‥そんなの聞き返さなくてもよく分かっていた。
‥‥本当。
は小さく頷いた。
「私‥‥幸せ者だなぁ‥‥」
声が震えたのは、きっと寒いからでも怖いからでもない。
嬉しいから――

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