待ち合わせは決まって駅前。
  でも、人に見つかるといけないから少し離れておく。
  少し行った所に可愛らしい雑貨屋さんがあるのに気付いた。
  そして何故かその雑貨屋さんの前に、一本のモミの木が植えられていた。
  背丈は‥‥大人の男性よりもちょっと大きいくらい。
  それはコンクリートを突き破って大きくなりました‥‥という逞しさが現れているけれど、誰も目を留めない。
  ひっそりと佇むそれになんだか妙に興味を惹かれた。
  だからはそこを待ち合わせ場所にする事にした。

  冬になったら‥‥モミの木は飾られて、人がいっぱいになるかもしれないけど、そこがいつもの待ち合わせ場所。


  は。
  と白い吐息がこぼれ落ちる。
  いつもの待ち合わせ場所は‥‥やっぱり人通りはなくて‥‥
  でも、

  「‥‥ほんとに飾ってる。」

  はくすくすと小さく笑った。

  モミの木は、色とりどりの電飾やら、オーナメントやらで賑やかになっていた。
  根元には赤い恰好のサンタクロースがいる。
  きっと雑貨屋の人が飾り付けをしてくれたのだろう。

  「‥‥」

  時計を見れば、もうじき、九時。

  はいつもの場所に佇みながらふと‥‥思った。

  どうして、ここで立っているのだろう?
  どうして、
  あの人を待っているのだろう。

  もう、あの約束はなかった事になっているのに。

  どうして‥‥どうして‥‥

  足が動かないんだろう?


  空から、雪が降ってくる。
  今夜は‥‥ホワイトクリスマスだろう。



  足下の感覚がなくなったのはいつだろう?
  手の感覚がなくなったのは?
  頬の感覚は‥‥

  時間の、感覚は。


  ガタンゴトンと入ってきた列車から、人が流れ出てくる。
  足早に家路へと急ぐ人々を見送りながら、視線を巡らせば‥‥時計の針は、10時を越えていた。
  先ほどから比べて、人の数は減ってきている。

  「‥‥」

  はぼんやりとそれを見送った。

  気がつくと、肩や頭は雪で真っ白だった。

  どうして‥‥待っているんだろう?
  もう十時だ。
  彼は来ない。
  いや、そもそも来るはずがない。
  だって、別れたんだもん。
  もう自分と彼は恋人同士じゃない。
  なのにどうしてここにいるんだろう。
  どうして、彼が来ると思ったんだろう。
  どうして‥‥どうして‥‥

  「‥‥?」

  来て欲しいなんて、

  期待するんだろう。

  「‥‥あ‥‥」

  ぼやけた視界なのに。
  もうほとんど見えない目なのに‥‥
  何故かはっきりとその人の姿が見えた。

  その人の姿だけ、は。

  「‥‥土方‥‥さん‥‥」

  「おまえ、なんで、こんなところに‥‥」

  彼は愕然としたようにを見る。
  それは当然だ。
  彼女の肩や頭には随分と雪が積もっていた。
  しかもコートも着ずに、である。
  この寒空の中、彼女が一時間以上もそこで待っていたというのを示していた。

  「おまえっ‥‥何考えて‥‥」
  「よかった‥‥」

  はそっと目を眇めた。
  笑ったようだが、泣いているように見えた。

  「きて‥‥くれた。」

  その言葉に、男の身体がぎくりと強ばった。
  そうして、決まり悪そうに、視線を落とす。

  あれ?
  どうしてそんな顔をするんだろう。
  遅れたからって別になんとも思わないのに。
  来てくれただけで十分なのに。

  それだけで、

  「‥‥あら?あなた‥‥」

  男の横からひょいとその人の影が現れた瞬間、
  絶望の淵へとたたき落とされた気がした。

  がつんと、頭を思い切り殴られたような感覚に、意識が、冴える。

  「‥‥り、じちょう‥‥」

  彼女が‥‥いた。
  男の隣に、彼女の姿が‥‥あった。

  きて、くれたんじゃ‥‥ない。

  当たり前じゃないかと冷静な自分が言う。

  何を期待していたんだと。
  彼はもう、恋人じゃない。
  自分に会いにくるはずなんてない。

  偶然なんだ。
  ここを通りかかったのは‥‥偶然。

  「‥‥こんな所で待ち惚け?
  ひどい彼氏もいたものね。」
  まあ、すごい雪、と言って優しさなのか哀れみなのか分からない目で見て雪を払ってくれる。
  ふわりときつい香水に‥‥彼の香りが混じってして‥‥目眩がした。

  「やめて‥‥」

  は力無く払いのけ、ぐらりとよたついて、でもしっかりと立つ。

  触るな。

  「‥‥ご機嫌ななめ‥‥のようね。」
  ひょいと一橋は肩を竦めておどけてみせ、
  「土方さん。行きましょう。
  私たちがここにいてはお邪魔かもしれないわ。」
  と男を促した。
  でも‥‥と土方は一瞬躊躇う。

  だって彼女がここで待っていたのは‥‥
  もしかしたら、自分との約束を覚えていたからじゃないかと思ったから。

  だから、彼女は「来てくれた」と言ったのではないか。

  だとしたら‥‥

  「‥‥なん‥‥で‥‥」
  どうして、とは訊ねていた。
  自分でもよく分からなかった。
  「その人と‥‥一緒に、いるんですか?」
  聞かなくても理由なんて分かり切ってる。
  こんな時間に、
  こんな日に、
  腕を組んで親しそうにしている理由なんて、
  一つだけ。

  「‥‥」
  男の顔が僅かに歪んだ。
  それを見て、一橋はそっと‥‥まるで何かを暗示でもするかのように男の腕に触れた。
  触れられた瞬間、そこからまるで蝕まれていくかのように‥‥男の思考が冷えていく。

  「その人‥‥なんなんですか?」

  理事長である以外に何があるというんだろう?

  分かっていたのに。

  その質問をしたら、

  確実に、

  トドメを刺されるって‥‥

  土方は静かに溜息を吐いた。
  そうして、紫紺の瞳でしっかりと琥珀のそれを見つめると、言い放った。

  「‥‥俺たち‥‥結婚するんだ。」

  まだ、
  トドメを刺されていないつもりだった自分に‥‥驚いた。



  上も下も。
  右も左も。
  寒いのか熱いのか。
  自分が立っているのか、しゃがんでいるのかも分からない。

  何もかもがぐるぐると回って、ぐちゃぐちゃになっていく。

  頭が痛い。
  割れる。
  吐きそう。
  苦しい。

  苦しくて呼吸が出来ない。

  「俺たち‥‥結婚するんだ。」

  男の言葉に、女は満足げに笑った。

  「良かったら式にはご招待するわよ。
  とはいっても、先生ばかりだから堅苦しいかも知れないけど。」

  腕に縋り付いて、こつんと肩に頭を寄せる。
  触れた場所から、冷たくなった。

  「日程はまだ決めてないけど‥‥早い内に‥‥」
  そうしたら、自分は別の学校に行くことになるだろうと言った。
  別に彼女に言うべき事でもなかったなと頭を振って、男は背を向けると、

  「だから‥‥もう、俺に近付かないでくれ。」

  と言って歩き出した。
  もう、振り返っても、くれない。

  さく、
  さく、

  と雪を踏む音がやけに大きく聞こえた。

  けっこん‥‥?
  誰が。
  誰と。

  けっこん‥‥

  彼が、
  あの人と‥‥

  「結婚‥‥」

  「あ、一つ言い忘れてたわ。」

  驚くほど近くで声が聞こえ、は慌てて顔を上げた。
  目の前に、一橋の顔があった。
  彼女は窶れた少女の顔を見て、にんまりと笑みを浮かべると、

  「もう、あなたが何をしても無駄よ。」

  そう言った。

  「彼は、私のものだから。」

  自分だけのものだと。
  女は言う。

  「これから一生、彼は私を愛してくれる。」

  優しく、
  そして、
  激しく、

  彼女だけを愛して――

  栗色の瞳が、そうっと残忍な色を孕んだ。

「あなたを忘れて、私だけを――」


  世界が黒で塗りつぶされて、消えた。