それから数日が経ち、彼らは下総・流山にある金子邸へと移動する事となった。

近藤は戦うことに乗り気ではなかった様子だったが、土方が必死に説得したおかげで重い腰を上げてくれたようだった。

会津に行く準備が整うまでここで調練を続ける事となり、斎藤は、市川で連隊に新式装備の訓練を続けている。

山南や藤堂ら、羅刹隊は一足先に宇都宮経由で会津を目指すことになった。

 

「近藤さん?」

は覇気のない近藤へと声を掛ける。

彼は金子邸にやってきてから、ぼんやりとしている事が多かった。

あてがわれた部屋でつまらなそうに本を読んでいるか、縁側で草花を眺めているだけの日々が続いている。

甲府での戦いがまだ尾を引いているのだろう。

誰もがそう思っていた。

 

「お茶、入れてきましたけど‥‥」

 

がひょいと顔を覗き込むと、近藤は本から顔を上げた。

「ああ、ありがとう。」

頁をめくる手を止め、優しい笑顔を向けてくれる。

「何を読んでるんですか?」

ひょいと表紙へと目を向ける。

彼が読んでいたのは、三国志演義だった。

その向こうには清正記が置いてある。

彼が好きな軍記物の小説だ。

「もう暗誦できるくらい読み込んだんだが、何度読み返しても新たな感動があってなあ。」

近藤は笑った。

そう言えば、は何度か彼に読み聞かせてもらった事があった。

軍記物なんて子供には分からないだろうにと誰もが笑ったが、はそのはらはらする内容を彼が楽しそうに読んで

くれるのが好きだった。

「子供の頃は、思ったもんだよ。

いつか関聖帝君みたいに立派な武将になって、自分ではない誰かの為に戦おうって‥‥」

その顔に少年みたいな笑みを浮かべ、懐かしそうに言う。

それもすぐに、寂しそうな色を帯び、

「ただ‥‥願うだけでは名将にはなれんのだな。

それに気づくのが、ちと遅かったようだ。」

ぽん、と表紙を叩いて机へと置いた。

その顔にかつての、勇ましさを感じなくなり、はわざと明るい声で言う。

「何言ってるんですか。

まだまだこれからですよ。」

と言うが、彼はの言葉には答えない。

その答えの代わりに、

「トシは、どうしている?」

「土方さんなら、部屋で手紙を書いてます。」

多分、市川の斎藤宛だろうと言えば、彼はまた、ため息を吐いた。

 

「トシには‥‥無理ばかりさせているな。」

 

言葉に、は自分がもっとしっかりしなくてはと思った。

もっと強ければ、

もっと‥‥

 

「酷な事を、させちまったなぁ。」

 

寂しそうな呟きに、は「え」と小さく声を上げて彼を見た。

その横顔にどこか、諦めの色を見つけ、がどうしたのかと問いかけようとしたその時だった。

 

バンっ

 

と襖が勢いよく開き、険しい顔の土方と島田が部屋に飛び込んでくる。

「何かあったんですか?」

尋常ではない様子に、はさっと気を引き締め、立ち上がった。

「すぐ、逃げる準備をしてくれ。

ここは敵に囲まれてる。」

急いで走ってきたらしい土方が、息を切らせながらそう言った。

囲まれてる?

は瞠目した。

 

「敵兵は、二、三百はいます。

奴らに気づかれないよう、裏口からここに入ってきました。」

島田も同じく息を切らせて言った。

二、三百‥‥

は顔を顰めた。

その数を、この人数ではどうにもできない。

せめて、桁がもう一つ少なければ‥‥いや、せめて半分ならば‥‥

は奥歯を噛みしめた。

「今からじゃ、斎藤たちを呼び戻す時間もねえ。」

「そう、ですね。」

走っても間に合わない。

「俺が‥‥なんとかするしかなさそうだな。」

つぶやきにははっとした。

まさかと言いかければ、土方は即座に命令を下し始める。

、島田。

近藤さんを連れて先に逃げてくれ。」

彼の言葉には首を振った。

「無理ですよ、1人でなんて!

今は昼間で体調だって悪いんですから!

それなら、私が残った方が‥‥」

というに、土方は鋭く反論した。

「やってみなきゃわかんねえだろ!」

「しかし、相手は銃を主体とした部隊です。」

今にも飛び出していきそうな土方を、島田との二人で抑える。

なんとかこの状況から脱する方法はないか‥‥そうが考えたそのとき、

 

「俺が、向こうの本陣へ行くよ。」

 

それまで沈黙を続けていた近藤が、覚悟を決めたような顔でそう呟いた。

 

「‥‥え‥‥」

言葉に、も、土方もそれから島田も驚き‥‥

「何を言ってやがる!

みすみす死ににいくようなものじゃねえか。」

土方は声を荒げて反対をした。

もそうだと言えば、近藤は真面目な顔でこう続ける。

「もちろん、新選組の近藤だとは名乗らんよ。

偽名を使って、別人になりすますつもりだ。」

自分たちは旗本で、このあたりを警備している鎮圧部隊だと言えば誤魔化せるだろうと。

そうすれば、

「おまえたちが逃げる時間くらいは稼げるはずだ。」

近藤の言葉に、と島田は続く科白を見失ってしまった。

ただ土方だけが声を荒げながら叫んだ。

 

「何を言ってやがる!!

あいつらがそんな甘い連中だと思ってんのか!?

京で、散々見てきたじゃねえか!」

「‥‥」

「奴らが俺たちを恨んでねえはずがねえ!

すぐにばれて、捕まえられるに決まってるだろ!!」

必死に言えば、近藤は臆した様子もなく言ってのける。

「仮に捕まってしまったとしても、俺はもう大名の位をもらってるんだぞ?

そう簡単に殺されはしないさ。」

「あんたは甘いんだよ!!」

そんな彼に苛立った様子で土方が反論する。

「旧幕府からもらった身分なんて、奴らにゃ毛ほどの価値もねえ!

殺されちまうのがわかってるのに、みすみす行かせられるはずがねえじゃねえか!」

肩で息をしながら、土方はそれにと続けた。

「俺は羅刹になちまってるんだ!

心臓を貫かれねえ限り、死ぬ事はねえ!

だから‥‥!」

土方の必死な説得にも、近藤は表情を変えない。

一種の冷徹ささえ感じさせる瞳で土方を見据えた後、

「おまえが何を言っても無駄だ。

もう、決めてしまったことだからな。」

近藤は、きっぱりと‥‥その瞳に揺るぎないものを込めて、そう言った。

 

ああ。

は心の中で声を上げた。

 

止められない‥‥

 

それが、分かった。

彼はもう、自分が犠牲になるつもりなのだと。

死ぬ覚悟を決めてしまったのだと。

それが、分かった。

 

「ふざけんじゃねえ!

大将のあんたがいなくて、何が新選組だ!」

それは土方も分かっただろう。

だからこそ、彼は認められなかった。

そうだ。

彼がいなくて何が新選組だ。

局長近藤勇がいなくて何が‥‥

わなわなと震えていた土方が、まるで癇癪でも起こしたように叫んだ。

「俺は、あんたを引きずってでも連れて行くからな!」

そう言って、土方は近藤の胸ぐらを掴んだ。

「今更逃げ出すなんて許すもんかよ!

あんたの身体は、あんた1人のものじゃねえんだからな!」

土方は、双眸には涙が浮かべて絶叫した。

だけど、その剣幕を凌駕する勢いで、

 

「ならばこれは命令だ!」

 

強い声で、局長らしく命令を下した。

「島田君とを率いて、市川の隊と合流せよ!」

「!?」

それに一瞬、土方は虚を突かれたようになる。

その声には‥‥反論を許さない、強い力があった。

確かに彼が、新選組の荒くれ者共を纏め上げてきた‥‥局長としての風格を感じさせるものだった。

 

やがて、土方はくしゃりと顔を歪めた。

「俺に‥‥命令するのか、あんたが。

なに‥‥似合わねえ真似してんだよ。」

土方は唇を噛んで呟く。

涙を含んだ声が震えて、聞いているのがつらかった。

 

「局長の命令は、絶対なんだろう?」

厳しい声で彼は続けた。

「隊士たちに切腹や羅刹化を命じておいて、自分たちだけは特別扱いか?

‥‥それが、俺たちの望んだ武士の姿か?」

「‥‥」

諭すような声に、土方は今一度悔しげに唇を噛みしめた。

 

新選組を守るため――武士の生き方を示すため、隊規を徹底させたのは他の誰でもない土方だ。

それをわかっているからあえて、近藤はその言葉を彼に投げつけた。

 

そう、

彼を、

生かすために。

 

「さあ、もたもたしていると奴らがここに飛び込んできてしまう。

早く、皆を連れてここを出てくれ。」

 

近藤は島田へと視線を向けた。

彼は一瞬迷った後、

 

「‥‥行きましょう、副長。」

 

近藤の命令に従った。

促された土方は、しかし動かない。

すると、近藤がいつもの‥‥純朴で優しい表情に戻りながら、土方の肩に手を置いた。

 

「なあ、トシ‥‥

そろそろ楽にさせてくれないか。」

 

優しい声で彼は言った。

「俺を担ぎ上げる為に、目をつり上げてあちこち走り回って‥‥

しまいには羅刹にまでなっちまって。」

「‥‥」

「そんなおまえの姿を見てる方が、俺は辛いんだ。」

彼は辛いと言った。

自分にはそんな価値がないのだからとも。

その言葉を土方は黙って聞いていた。

懸命に涙を堪え、どこも見ないようにして‥‥喉の奥から言葉を絞り出す。

 

「俺は‥‥

俺のしたことは何だったんだ‥‥」

 

ひどく頼りなげな呟きが、落ちた。

 

「侍になって、御上に仕えて‥‥

戦に勝ち続けて‥‥そうすりゃ、あんたは、一緒に喜んでくれるとばかり‥‥」

悲しそうな言葉に、近藤は申し訳なさそうな顔で口を開いた。

「‥‥すまないな。

おまえにそこまでさせたのはこの俺だ。

俺が、おまえを追い詰めたんだ。」

 

ちがう。

 

は心の中で叫んだ。

 

ちがうそうじゃない。

どちらが悪いわけでもない。

ただ、お互いにお互いを思って‥‥

お互いが好きだから、喜んで欲しいから‥‥

 

その形が‥‥いつの間にかどこかで歪んだだけ。

それだけだ。

 

土方は息を殺し、涙を必死にこらえ、目を閉じた。

やがて、何かを自分の中に全て押し込むようにして、顔を上げる。

 

「‥‥島田、残った隊士たちに伝令だ。

逃走経路も確保しとかねえとな。」

僅かに震える声で彼は言った。

「はい!」

言うが早いか、二人は部屋を飛び出した。

残されたは、近藤を見つめたまま、動けなかった。

 

‥‥」

近藤が優しく名を呼んだ。

に名前を、世界をくれたのは彼だった。

「おまえも‥‥行きなさい。」

その彼が、今まさに死地に赴こうとする。

は彼がいてくれればそれでいいと思った。

彼こそが世界の全てだと。

だから‥‥

「‥‥いけません。」

は首を振った。

「私は、ここに残ります。」

近藤と共に在ります。

そして、彼と共に果てるのだと。

 

。」

近藤はことさら優しい声で首を振った。

それは駄目だと。

そう言うように。

「私は近藤さんの為にあります。

だから――

近藤が死ぬというのなら彼と一緒に死ぬのが‥‥

 

「おまえが一緒にありたいのは‥‥俺じゃないだろう?」

 

静かな一言に、はぎくりと肩を震わせた。

瞳に驚きの色が浮かぶ。

 

「おまえが一緒にいたいのは‥‥」

 

「‥‥っだめ‥‥」

は力無く首を振る。

言わないでと言うが、近藤は優しい声で言った。

 

「おまえがいたいのは‥‥トシの傍だろう?」

 

が傍にいたいと思うのは。

暖かな世界をくれた近藤ではなく。

 

――あの不器用な男の傍なのだと。

 

「っ」

 

は喉を震わせた。

違うと、口を開いたが、言葉が出なかった。

悔しくては何度も口を開くが、やはり否定の言葉は出ない。

 

彼の言うとおりだった。

 

がずっと傍にありたいと願うのは‥‥土方の傍だった。

彼を支えたいと思った。

傍にいたいと。

他の誰でもない、

土方だけの傍にあり続けたいと。

 

「薄情‥‥ものっ」

は自分を罵った。

近藤はに名前を、世界をくれたのに‥‥

彼を一人、残そうとしている。

一緒に果てようと最初に決めたのに。

なのに‥‥自分は、彼の手を離して生きようとしている。

 

他の男と共に。

 

「ごめん、なさいっ」

は顔を歪ませた。

目に涙が浮かんだ。

そんな彼女に近藤は首を振って、

「‥‥そんな顔をしなくていい‥‥」

ぽんとその頭を大きな手で、撫でた。

出会ったときと同じ、優しくて、無骨で、大きな手で。

 

「俺に遠慮をする事はない。」

 

拾ってくれた恩だとか、そんなものを気にする必要はない。

もう、十分、近藤はに色んなものを貰った。

十分と言うほど恩を返してもらえた。

彼女のお陰で、皆のお陰で、ここまで来られた。

 

彼はひどく満足そうな顔で笑った。

 

「近藤、さん‥‥」

「おまえは‥‥俺の分まで幸せになってくれ。」

 

それが、

それこそが、

 

と彼は優しく目を細めて、笑ってくれた。

 

「俺の幸せだ――

 

 

許されるならば‥‥声を上げて泣きたかった。