5
その後、一行は江戸へと戻り、現在の屯所である旗本屋敷で永倉達と合流した。
初めての負け戦を経験した近藤の落胆は、彼らの想像を遙かに超えるものだったらしく‥‥
屯所に戻ってからも、疲れたため息をひっきりなしに零すようになった。
幕軍の総大将たる慶喜公は朝廷からの追討令を受け、上野の寛永寺にて謹慎してしまっている。
朝廷も、薩摩や長州の重鎮たちの手で動かされるようになり――
いよいよ佐幕側の劣勢が確実になり始めた。
そんな中、一つの別れがあった。
「新八さん、左之さん‥‥本当に‥‥」
屯所の門前まで、出てきたは二人を見上げて訪ねる。
その二人は手に大きな荷物を持っていた。
そしてその顔には、もう、未練の色は、ない。
彼らは今日、新選組を出る。
「俺たちと近藤さんじゃ、目指してる物が全然違う。
これから先、一緒にやっていけるとは思えねえ。」
どこで道を違えてしまったのか分からない。
ただ、近藤と、永倉・原田の目指す先が完璧に違ってしまった。
もうこれ以上共に戦う事は出来ないと、彼らは脱退を申し出たのだ。
彼らは彼らなりに新政府軍と戦うつもりらしい。
「この先、ばったりどこかで会う事もあるかもしれねえな。」
同じ敵を討とうとしているのだ、と原田は笑った。
しかし、は笑えなかった。
彼女にしては珍しく、言葉数も少ない。
俯いている彼女に、二人は顔を見合わせ、
「なんだ?
俺たちがいなくなって寂しいのか?」
「寂しいなら寂しいって言っていいんだぞ?」
にやにやとからかうように言ってのける。
そうすると、
「‥‥寂しい‥‥です。」
は本当に寂しそうな顔で、
素直に自分の思いを口にした。
その表情は見た事がないくらい、無防備で、心細そうな顔で――
偽りではなく揺れる瞳に、二人は再び顔を見合わせた。
それから、
「ぶ、はっはっ!」
二人は揃って笑い出す。
は憮然とした面もちで顔を上げた。
何故ここで笑うのだと言いたげな顔で。
「悪い悪い!
別におまえの事を笑ったんじゃねえよ。」
自分たちがいなくなる事を『寂しい』と言ってくれる相手を笑うなんて事出来るはずがない。
そうじゃなくて、
「ようやく‥‥思った事を言ってくれたな、と思ってさ。」
永倉がくしゃ、とその小さな頭を撫でた。
幼い頃からずっと一緒にいた。
記憶を失っていた子供は感情表現さえ忘れてしまっていた。
彼らと共に過ごすようになり、少しずつ感情を知り、少しずつ彼女なりに表現するようにもなった。
手本が悪かったせいか、あまりかわいげはなかったが‥‥それでも、感情を見せてくれる事は嬉しかった。
ただ、
それでもは感情を表に出す方ではなかった。
特に、
自分の我が儘故に生まれる感情は。
誰かの負担になるような感情は。
絶対に出さなかった。
寂しいとか、悲しいとか、苦しいとか、辛いとか。
からそんな言葉を、感情を見せられた事はなかった。
それが初めて、
ここに来て漸く、見る事が出来た。
「それでいいんだよ。」
永倉は笑う。
彼も、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
ああそうだ。
自分だけじゃない。
彼らだって寂しいと思ってくれているのだ。
ここを去る事。
自分たちと‥‥別れる事。
「寂しい‥‥です。」
「ああ、俺たちも寂しいよ。」
でも、
「でも、俺たちはもう決めた。」
と彼らは言った。
自分たちの歩く道を決めたと。
寂しいけれど‥‥離れがたいけれど‥‥自分の信念を曲げてまで、共にいる事は出来ない。
それは原田たちも‥‥も、だ。
自分の信念を曲げて共にいる事は出来ない。
「‥‥」
は少しだけ視線を落とした。
最初から分かっていた事だ。
彼らを引き留める事は出来ない、と。
そんな彼女を見て、原田は目元を歪め、少し腰を屈めて目線を合わせる。
そして、いつもよりも幼く見えるの、やっぱり小さな頭をくしゃっと撫でて、こう言った。
「おまえに必要なのは‥‥俺たちじゃねえだろう?」
彼は、寂しそうな顔で、笑った。
そう。
に必要なのは――もう、ただ一人きり――
「失礼します。」
は土方の部屋の襖をそっと開けた。
開けた瞬間、張りつめた空気を感じ、一瞬、中に入るのを躊躇う。
部屋の中には山南と藤堂、そして土方の姿があった。
何事かと思うほど真剣な面持ちで立ち尽くしている彼らに、は一瞬声を掛けられず、
「‥‥失礼しました。」
呼ばれたというのに、襖を閉めようとした。
それを、
「構わねえ‥‥ここにいろ。」
土方のぶっきらぼうな言葉に呼び止められ、は足を止める。
振り返るのと同時に、山南が声を荒げた。
「羅刹隊の増強を中止せよ、とは、一体どういうことです?」
「そのままの意味だ。
今後、羅刹隊の隊士を増やすつもりはねえ。
今いる人員で何とかしてくれ。」
と言われ、彼は納得できないと首を振った。
「今の新選組の兵力を考えると、羅刹隊の増強は急務のはずです。」
どうやら、羅刹隊の今後について話し合われていたらしい。
常々山南は自分たち羅刹隊をもっと使うべきだと言ってきた。
そして、もっと人数を増やして増強すべきだと。
彼らは傷を負ってもすぐに回復する。
それに、人並み外れた力を持っているのだ。
それを戦に生かすべきだと。
「先ほど平助から聞きました。
永倉君と原田君が脱退してしまったと。彼らの脱退は相当の痛手です。」
そんな状況なのに、何故、と言いたげな山南の横で、藤堂は落ち込んだ様子だった。
彼は山南とは違い、羅刹隊の増強には反対のようである。
「確かに、あんたの言うとおりだ。
兵力を増強する事を考えるなら、羅刹隊を強化するのが一番手っ取り早い。」
「ならば、どうして‥‥」
「だが、羅刹には重大な欠陥がある。
これは信頼できる筋から得た情報だ。」
ぎくりとは知らず身体が震えた。
「羅刹の力の源は‥‥その人間の寿命だ。
つまり力を使えば使うほど、この先生きていられる時間が短くなる。」
「何ですって?」
眼鏡の奥にある冷徹な瞳が驚愕に見開き、やがてあてもなく足下へと落ちる。
「つまり、そういう事だ。
やむを得ねえ時を除いて‥‥羅刹の力はなるべく使わねえにこしたことはねえ。」
土方は少し声の調子を落とした。
彼らに突きつけたのは‥‥あまりに非情な事実だった。
その力は、命を代償にしているのだと。
土方よりも先に羅刹になった彼らは‥‥もう随分と命を削ってしまっているのだと。
いつ、
その命が尽きるか、分からないのだと。
山南はじっと足下を見つめていた。
放心していた彼は、やがてふっと息を漏らして、笑った。
「でしたら‥‥なおさら研究を進めるべきでしょう。」
「山南さん。」
「その欠陥というのも現時点での物に過ぎません。」
かっと視線を上げ、彼は狂ったように瞳をぎらつかせて言う。
「研究を続ければ欠陥を補う方法が見つかるかもしれない!
それは‥‥羅刹となった君の為にも必要なことのはずです!」
そう、確かに。
羅刹となった土方の為にも、研究は必要かも知れない。
彼の命を長らえるために。
しかし、土方は揺るがなかった。
「副長命令だ。
羅刹の研究は中止してくれ。
もちろん、部隊の増強もなしだ。」
きっぱりとした命令に、山南は静かに肩を落とした。
そうですかと小さな呟きが聞こえ、藤堂は静かに「もういこう」と彼を促した。
山南は肩を落としたまま、広間を後にし‥‥
「あれ?近藤さん?」
不意に外で、藤堂の声が上がる。
どうやら近藤が外にいたらしい。
「こんな所で何やってんだ?」
「あ‥‥いや、ちょっと散歩に、な。」
明るい藤堂の声に答える近藤の声は、やはり覇気のないものだった。
やがてその会話も足音も遠ざかると、土方はどっかとその場に腰を下ろし、深い溜息を漏らす。
ついでに窮屈そうな首元を緩める彼に、
「冷めちゃいましたけど‥‥」
とん、とはお茶を差し出した。
きっと根を詰めているだろうと思って用意してきたが、冷めてしまっている。
「入れ直しますか?」
訊ねるが、彼は首を振って、
「喉が渇いてた。
これくらいが丁度いい。」
一気に湯飲みを煽る。
そして飲み干すと、とんと、湯飲みを置いて、また溜息。
おかわりをとが立ち上がろうとすると、
「新八と原田の足抜けは相当の痛手、か。
まるっきりの正論だよな。返す言葉もねえや。」
土方は苦笑混じりに呟いた。
「いずれこうなるだろうってのは覚悟してたし‥‥あの二人に夢を見せてやれなかったのは俺たちの落ち度だからな。」
「‥‥」
「目指してる先が違うんなら、それぞれの道を行くのが当然だ。
義理だとか、情に縛られる必要なんて、どこにもねえ。」
だからあれでいいんだ。
と彼は笑った。
晴れやかに、だけど、少し寂しそうな顔で。
「あいつらはあいつらでやっていくさ。
俺たちが俺たちの道を行くみてえにな。」
その言葉はに聞かせる、というよりは、自分自身に納得させているように聞こえた。
きっと‥‥彼の中でも揺らぎがあるのだろうとは思った。
「それにしても‥‥新選組も人が随分減って‥‥様変わりしちまったな。」
遠くを見るような眼差しで土方はぽつりと呟く。
はそうですねと頷く。
人も少なくなった、何より、彼自身が変わった。
人ではなくなった。
羅刹に‥‥
『羅刹の力の源は‥‥その人間の寿命だ』
先ほど、彼が山南に告げた言葉が蘇る。
彼は何度羅刹になっただろう。
風間と戦って‥‥それに、
を止めるためにも羅刹になった。
どれだけ命を削られた?
そのどれもが、自分のせいだった気がする。
「もう‥‥力は使わないでください。」
気がつくと、は口からその言葉を発していた。
「ああ?」
唐突な言葉に土方は眉を寄せる。
「羅刹の力です。
もう、出来れば使わないで‥‥」
は真っ直ぐに彼を見据えて言った。
彼が羅刹となって戦う必要はない。
それよりも、自分が戦えばいいのだ。
自分も羅刹と同じ‥‥傷を負ってもすぐに治る。
彼女は羅刹のように命を削ってというわけではない。
それならばが戦う方がずっと‥‥
「勘違いすんなよ。」
言葉に土方は低く唸るように呟く。
表情は険しくなり、彼は馬鹿にするなと吐き捨てるように言った。
「前にも言ったが、俺は力が欲しくて変若水を飲んだ。
俺は俺の意志で羅刹になったんだ、誰に強制されたわけでもねえ。」
この決断は自分が下した。
誰に責任を押しつけるつもりもないと彼はきっぱりと言う。
「だから、必要なら使う‥‥それだけだ。」
「でも」
「おまえがつまらねえ事を気に回して思い悩む必要なんてねえよ。」
放っておけと言いたげな言葉は、でも突き放すような響きはない。
どちらかというと悲しいくらい優しい感じがした。
「死ぬのは、怖くねえ。」
その言葉はまるで差し迫った死を受け止めているみたいにあっさりしていた。
でも、それは彼の本心ではないはずだ。
誰だって命を削りながら戦うなんて‥‥したくはないはずだ。
「そう、言われる私の気持ち‥‥分かりますか?」
はふいに問いかけた。
なんのことだと首を捻る彼に、は視線を逸らさずに告げる。
「苦しいのに、何でもない顔して、我慢して一人で突っ走って‥‥それを見てる私の気持ち、土方さん分かりますか?」
どれだけもどかしいか。
自分の無力さに歯がゆい思いをしているか。
彼はきっと分からない。
「別に俺は‥‥」
辛くなどないと視線を逸らす彼に、は言う。
「辛いなら辛いって言ってください。」
戦いが苦しいとか、
疲れた、とか。
本当は羅刹になりたくなかったとか‥‥
「私にくらい‥‥本当の事言ってくれてもいいじゃないですか。」
一人くらいには本当の事を言ってもいいじゃないか。
もしかしたら頼りないかもしれない。
でも、愚痴を言いたければ聞き役にくらいなれる。
疲れたというのならば肩くらい貸せる。
に意地を張る必要はない。
だって彼女は土方の助勤だ。
彼に仕え、彼を支えるのが彼女の役目なのだ。
だから――
「っ」
そう言うと、何故か彼は吹き出した。
「敵わねえな‥‥」
何故笑われるのかと眉を寄せる彼女に、土方は苦笑を漏らして、目を細めた。
「なんだか、姉貴に説教されてる気分になる。」
唐突にそんな事を言われ、は首を捻った。
どういう事?と視線で訊ねると、彼は少しだけ照れくさいような顔で、口を開いた。
「俺は‥‥多摩の百姓の末っ子でな。」
そうだったのかとは思わず内心で呟く。
彼の傍に長く仕えてはいるが、彼の昔話など聞いた事がない。
なんとなく新鮮な感じがして、は口を噤んで彼の言葉に耳を傾けた。
「親父もお袋もわりと早くに亡くなっちまったから、四つ上の姉貴に面倒見てもらってて‥‥」
呟きながら思い出したのか、決まり悪そうな顔で首の後ろを掻く。
「これが、男顔負けの気の強い女でさ。」
兄や弟も、彼女には口で負かされっぱなしだったと彼は苦笑した。
「‥‥その姉貴と‥‥おまえ‥‥ちょっと、似てる。」
彼女も良く、頑固で聞き分けのない土方をそうして諭した。
こうして正座で顔をつきあわせて、懇々と説教をされた事を思い出す。
決して強い口調ではなかった。
だが、揺るがない強さと同時にくすぐったくなるほどの優しさを感じる眼差しと言葉に、逆らうことは出来なかった。
はその姉にどこか似ていた。
そんな彼女に言われると、
「身内に叱られてるみてえで、言うことを聞かなきゃならねえような気にさせられちまう。」
そうして、くすぐったそうな顔で笑い、彼はひょいと肩を竦めた。
「本当にどうしようもねえくらい辛くなったら、そう言うさ。
だから。」
心配するな、と彼は笑いかけた。
はそれを受け、小さく頷く。
多分、そうは言っても彼は無理をするのだろう。
必要とあらば羅刹にもなるだろう。
命を削ると分かっていても、彼は戦い続けるのだろう。
しようのない人だと、は溜息をこっそりと吐いた。
それでも、
自分はついていこうと決めたのだ。
「‥‥これから‥‥どうするんですか?」
空になった湯飲みを手の中で遊ばせている男に訊ねれば、彼は北へ向かうと答えた。
北上し、東北諸藩と共に戦うのだと。
松本の手配で流山に武器弾薬、そして人を集めてもらっている。
そこで皆と合流し、会津に向かう。
「仮に江戸を奴らに取られたとしても、奴らはいずれ京に戻らなきゃならねえはずだ。
そうなったらすぐに江戸を取り戻して‥‥」
そう言いかけた時、
突然土方が胸を押さえて苦しみ始めた。
「ぐっ、うぅっ!?」
食いしばった歯の隙間から、苦しげな呼吸と共にうめき声が漏れた。
「土方さん!どうしたんですか!?」
の問いかけに土方は答えず、頭を振って声にはならない苦痛を1人でこらえようとする。
その様にすぐに察した。
「血‥‥ですか?」
は問いかけた。
答えはなかったが、発作が起きているのは明白だった。
は無言で刀を引き抜き、腕を切りつけようとする。
それを、男の手が遮った。
「土方さん‥‥」
駄目だとが首を振れば、土方は苦しげな呼吸の下、
「俺が、やる。
おまえは、じっとしてろ。」
そう呟いた。
土方はの後ろに立ち、軽く襟元を指先で引いた。
広げやすいように釦に一つ手を掛けて外すと、後ろで軽く嘆息が聞こえ、更に襟を開かれ、首元を露わにされた。
日に焼けていないうなじに、土方は指で触れ、傷をつくる場所を探す。
やがて、
冷えた刃が押し当てられ、音もなく皮膚を切り裂いた。
傷が出来た場所に鋭い痛みが走った。
痛みはさほど感じなかった。
それよりも、
「っ‥‥」
暖かい唇が首筋に触れた瞬間、はびくりと肩が震えた。
唇の後に、ざらりとした感触。
舌だ。
それが浮かんだ血をぺろりと舐め、やがて、傷口に唇を押し当てて血を啜りだす。
「っん‥‥」
発作のため、乱れた熱い吐息が首筋を擽り、吸われる感触に、ざわりと肌の下が粟立つ。
間違いなく嫌悪とは違う感覚に、は唇を噛んだ。
わき起こる感情を抑えつけようと奥歯を噛みしめる。
荒くなりそうな呼吸に、一つ大きく息を吸って、震える吐息を漏らした。
「‥‥すまねえな。」
不意に耳のすぐ後ろで声が聞こえ、その掠れた音に脳髄までが痺れそうになり、慌てて意識を集中させた。
なにがですか?といつものように答えれば、
「今、俺が狂うわけにはいかねえんだ。」
ごくりと血を嚥下する音が聞こえた。
は分かっていると答えた。
「私で役に立てるなら‥‥血だって、命だって、差し出します。」
それは本心だった。
彼の役に立てるなら、惜しくはないと。
だから、彼女は気にするなと言いたかった。
彼にとって必要なのは、の力との血。
それだけでいい。
それだけ必要と思ってもらえれば十分だ。
「‥‥」
その言葉に土方は僅かに顔を顰め、
言葉の代わりに、肩を掴んでいた手を前に回して、拘束する腕に力を込めた。
抱きすくめられる感覚に、また、鼓動が跳ねる。
目を瞑ってそれを抑え込めば、
「そんなこと抜かしてると‥‥都合良く使い捨てられちまうぞ。」
自嘲じみた声が、やはり耳元で聞こえた。

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