7
その後、土方たちは、金子邸の裏口から飛び出した。
もうじき近藤は新政府軍に投降してしまうだろう。
何度も振り返る島田やとは違って、
土方は一度も振り返ることなく、前を見て走り続けた。
日が西へ傾き、あたりが暗くなり始めた頃――
「おい、そこの者、止まれ!
どこへ向かうつもりだ?」
様式の軍服をまとった兵士が彼らを呼び止めた。
「‥‥」
土方は険しい表情のまま兵士をむしして通り抜けようとするが、
「止まれを言っているだろう!
貴様、まさか幕兵か!?」
「いや、こいつの顔、どこかで見覚えがあるぞ‥‥」
兵士達は険しい顔を、はっと強張らせ、高らかに彼の名を呼んだ。
「こいつは、新選組の‥‥新選組の土方だ!」
その声に、兵士たちは手にしていた武器を取り、坂本殿の仇と声を上げる。
どうやら相手は土佐藩の兵士らしい。
ち、とは舌打ちをし、己の腰へと手を伸ばした。
それよりも前に、土方が走った。
羅刹の力を解放させた彼は刀を構え、猛然と斬りかかる。
「ぐぁ!?」
「がはっ!!」
その動きが目で追えぬほどの早さで走り、一気に二人を斬り殺してしまう。
血で濡れた刀をぶんと振り回し、彼は冷徹な瞳を死んだ兵士に向けた。
「運が悪かったな。
今の俺は‥‥ちょうど虫の居所が悪いんだ。」
状況の異常を察したのか、離れ多場所にいる官軍兵たちが一斉に銃を撃ってくる。
「っぐ‥‥」
放たれた弾丸のいくつかが土方の身体に命中した。
「土方さん!」
は彼を呼び、自分も参戦すべく刀を抜いた。
「これが、銃の痛みか‥‥
思ったよりどうってことねえな。」
彼は笑い、瞬く間に癒えていく傷口を睨み付けた。
そうして次に迫り来る敵兵へと目を向けて、
「‥‥あの人が、これから受ける痛みに比べたら‥‥全然なぁ!!」
悲痛な咆吼を上げ、彼は風になった。
その時の表情は、悲しみと怒りがないまぜになった表情だった。
胸の中の無念を‥‥何かにぶつけるように。
ひたすら彼は敵を斬った。
「駄目っ‥‥土方さ‥‥」
その力を使ってはとが言うが、彼はぎろりと睨み付け、黙っていろと叫んだ。
木々の間を飛び移り、白刃を振るう。
悲鳴と血しぶきの中を舞うその姿は悪鬼羅刹そのものだった。
返り血を浴びながら、それでもまだ足りないと言わんばかりに敵兵を切り続ける。
戦うことしか知らないようなその姿は、凄惨で‥‥ただただ悲しかった。
やがて動く者がいなくなり、
森の中に静寂が戻ってくる。
土方は刀を手に、背を向けながら口を開いた。
「‥‥島田。
他に敵がいないか、見てきてくれ。」
唐突に呼ばれ、島田はびくりと肩を震わせ、
「は、はい!」
緊張した声を漏らして、走り去っていく。
足音が遠ざかる中、
「おまえも‥‥一緒に行け。」
土方はにも行けと命令した。
「‥‥」
は、動かない。
ただじっとその背中を見つめていた。
「何を、してやがる‥‥
俺の命令が聞こえねえのか。」
副長命令だぞと言われても、は動かない。
苛立ちの籠もった声に、は首を振った。
「‥‥聞けません。」
「‥‥」
頑なに拒む彼女に、背を向けたままの彼は、くそ、と吐き捨てた。
その声は、震えていた。
土方は周りの全てを拒むように、背を向けている。
彼が今、どんな表情をしているのか‥‥には見えなかった。
ただ、その背中が他のどれよりも悲しくて、寂しそうだった。
「俺は‥‥何のためにここまでやって来たんだろうな。」
ふいに、ぽつりと彼は零した。
その言葉は近藤が甲府の山で、土方自身が金子邸で漏らしたのと同じ言葉だった。
「‥‥あんな所で、近藤さんを敵に譲り渡すためか?
その為に、今まで必死に走って来たのか?」
違うだろうと彼は自分で、自分を否定した。
俺がしたかったのはこんなことじゃないと。
「あの人を押し上げて‥‥もっともっと高い所までかつぎ上げてやりたかった。」
「‥‥」
「関聖帝君や清正公どころじゃねえ。
もっともっとすげえ戦をさせて‥‥本物の武将にしてやりたかった。」
彼が大好きだった軍記物。
そこで輝いていた武将の姿。
何度、彼らは同じ夢を語り合ったのだろう。
は思った。
「片田舎の貧乏道場の主と百姓の子で、どこまでいけるのか試してみたかった。」
どこまでも一緒に行こうと‥‥何度語り合ったのだろうと。
その声が小刻みに震えていた。
誰かが傍で聞いているのを気にかける余裕なんて、もうなかったようだ。
「俺たちは、同じ夢を見てたはずだ。
あの人の為なら、どんなことだってできるって思ってた。」
それはも思っていた事だ。
この人のために在りたい、と‥‥
「なのに、どうして俺はここにいるんだ?
近藤さんを置き去りにして、どうして、てめえだけ助かってるんだよ?」
自分だって、そうだ。
彼を見捨てて、ここに、いる。
「結局‥‥結局俺は、あの人を見捨てて来たんじゃねえか!」
空気を切り裂くその声は、
まるで、
泣き叫ぶみたいな声で。
声に混じる、悲しみを、怒りを、
彼が抱える痛いほどの苦しみを、
痛いほど、肌に、感じた。
「徳川の殿様と同じで、絶対に見捨てちゃいけねえ相手を捨てて‥‥てめえだけ生き残ってるんじゃねえかよ!」
まるでその痛みを、何かで誤魔化すみたいに、
土方は拳を太い木の幹にたたき付ける。
どんっと遠慮無く叩かれた木は、しかし折れることはない。
ただ緩く枝葉を揺らしただけ。
みしりと嫌な音が聞こえた。
そのとき、は彼の髪が元の色に戻っていることに気づいた。
「だめ、土方さん‥‥」
「くそ!!くそがっ!!」
の制止など聞こえていない。
土方は何度も何度も拳をたたき付ける。
何度目かで皮膚が裂けた。
血が空に舞った。
それでも男はやめなかった。
ただただ自分を傷つけるためだけに拳を振るった。
「っ!」
は気がつくと走っていた。
男の腕にめがけて飛びついて、
「やめてっ‥‥」
これ以上傷つけまいと、その腕を必死に守る。
だけど、土方はそれさえも煩わしいとふりほどこうとした。
腕を振り回されるけれど、は離さない。
「やめっ‥‥」
そのうちに本当に遠慮がなくなって、
「っ!」
どん、とは木の幹にたたき付けられた。
ぐぅと短いうめき声を、歯を食いしばって堪える。
その音でようやく‥‥男は気づいた。
「‥‥」
男の身体から力が抜ける。
はほっとした。
それから、掴んでいた腕を取り、固く握りしめた指を解かせて傷の具合を見る。
勿論、羅刹となってしまった彼の身体はそんな小さな傷などつけてもすぐに治ってしまう。
実際が見たときにはもう傷口はどこにもないようにみえた。
ただ‥‥
その心には大きな傷を負っている。
見えない、でも、身体に受けるそれよりもずっとずっと大きくて深い傷、だ。
「ねえ、土方さん‥‥」
静かには唇を開いていた。
「近藤さんは‥‥」
声が震えないように必死に力を込めながら、言葉を紡いだ。
彼の名を口にした瞬間、視界が潤み、一気に決壊しそうになるのを、奥歯を噛みしめて、堪えた。
「近藤さんは‥‥土方さんが大好きだったんです。」
今更言う事じゃないのは分かっている。
そんなのわかりきっていた事だ。
だけど、あえて口にした。
彼は土方が好きだった。
友として仲間として、彼が好きだった。
‥‥土方が、近藤を好きだったように。
お互いがお互いを好きで、お互いがお互いを想った。
「だから‥‥近藤さんは、好きな土方さんに死んで欲しくなかった。」
ただ、相手に幸せになってほしかった。
「土方さんに死んで欲しくなくて、
もっともっと生きて欲しくて‥‥」
もっと、生きて欲しくて‥‥自分が投降した。
きっと‥‥今まで全力で走ってきた彼の姿を見ていたから。
自分のためにぼろぼろになっていく彼の姿を見ていたから。
近藤も、
苦しかったのだ。
自分のために、身を削って死に急ぐ友の姿を見るのが。
もういい‥‥と彼は言った。
もう、休ませてくれと‥‥
それは、自分の事じゃない。
きっと、土方の事を休ませてやってくれと言ったに違いない。
もう自分から解き放たれて、自由になってくれと。
自分のために苦しまないでくれと。
「生かすためって‥‥」
掠れた声が聞こえる。
「俺を、生かすためって‥‥」
今まで聞いた何よりも悲しくて‥‥寂しげな音だった。
「‥‥新選組に近藤勇がいなくなった今、どうやって生きろってんだよ。」
包み込んだ拳がかすかに震えていた。
「あの人を高いところまで押し上げるって夢があったから、俺は今まで生きてこれたんだ。」
は気づかないふりをする。
「‥‥それがなくなっちまった今、俺なんてもう、
抜け殻みてえなもんじゃねえか。」
自嘲するような泣き笑いの声に、の胸はじりりと痛んだ。
もういいよ。
もう分かった。
何も考えないでそのまま目を閉じて。
このまま立ち止まって全てを忘れてしまって。
走らなくていい、もういいから。
そう‥‥言ってしまいたかった。
でも、その変わりに、
「‥‥」
彼の手に、自身の小さな手を重ね、こう言った。
「それでも、生きて‥‥」
はそう言うしかなかった。
それが、近藤の望んだ事だから。
そして‥‥自分の望む事だから。
残酷だと分かっていた。
でも、彼に生きて‥‥幸せになってもらうことが。
近藤の最期の望みだから。
だから‥‥
「皆、俺に厄介ごとばっかり押しつけてくれやがるよな。」
寂しげな呟きの後に、ひ、と嗚咽みたいな声が漏れた。
身体が震え、細い吐息が何度も零れる。
「っ」
それを押さえつけるみたいに、男は拳を握りしめた。
絡んだ女の小さな手ごと。
強く。強く。
力の加減が出来ずに手の甲や、掌に爪が立てられ、皮膚が裂けた。
それでもは何も言わず、慈しむように彼の手を握り返した。
まるで、
自分の存在を彼に教えるみたいに。
自分だけはずっと彼の傍にありたいと思う。
もしかしたら、土方には必要がないかもしれない。
でも、それでも自分は傍にいて‥‥彼を支えたいと思った。
誰が敵に回ろうとも。
誰に理解されなくとも。
自分は彼の傍に居続ける。
例え、
――世界を敵に回そうと。
彼を、
一人にはしたくない。
そう、
思う。
そう思った瞬間、
はああ、と諦めのため息を漏らした。
もう気づかないふりは出来ない。
出来るはずがない。
声を上げて泣く事さえ出来ない‥‥不器用で悲しい男を‥‥
愛しいと思う気持ち。
それは無かった事には出来ないのだ。
もう、二度と。
「忘れる事なんて出来ない。」
はぽつりと呟き、握りしめる指先を、甘く絡めた。
それにまるで縋るように、男の指先が追いかけてくる。
追いかけて、
きつく、
自分の爪を立てた。
じりと肌を焼くようなその感覚さえも、愛しくて。
止める事など、出来ない。
何度押し込めても、この感情は溢れて、
――この身を、焦がすのに――

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