3
結局、向かってきた敵の半数以上を五体満足ではない身体に変え、敵部隊が後退し始めた所で戦場を後にした。
林の中を振り返りもせずに走り通し、人が通った跡をたどる。
が、近藤や斎藤と合流したのは夜になってからだった。
見れば二人だけで、他の仲間達はばらばらになって逃げているそうだ。
この先の、八王子で落ち合う予定だという。
ならば早く合流地点へ急いだ方がいいと、たちは3人固まって、夜の森を歩き続けた。
「‥‥、平気か?」
斎藤が声を掛ける。
差し出された水筒を受け取り、それを飲みながらは頷く。
「平気。」
生ぬるい水が喉を越す。
「‥‥」
彼はまだ心配そうな顔でこちらを見ている。
無理もない事だ。
戦いが始まるや否や、前線へと飛び込み、鬼神のごとく戦った。
こちらが不利と見て永倉や原田が撤退を促しに戻っている間も、決してここを通すまいと守り通し、彼女はしんがり
まで勤めたのだ。
おまけにその身体で彼らに追いついてきた。
そして休む間もなく、八王子まで急がねばならない。
少し休もうと言ってやれないのが心苦しい‥‥と斎藤は思った。
「平気。大丈夫。」
はにこっと笑って、血と汗と砂埃で汚れた顔を袖で拭う。
自分よりも、
「近藤さん、大丈夫ですか?」
は彼こそが心配だった。
「もう少しで八王子に着きますよ。」
振り返って言えば、近藤は覇気のない表情で「ああ」と頷いた。
心ここに在らずといった感じだ。
「‥‥」
合流してから、近藤はずっと元気がなかった。
初めての負け戦で参っているのだろうか‥‥はなんとも言えない顔で斎藤と何度か顔を見合わせた。
「たくさん‥‥隊士を死なせてしまったな。」
ぼそりと、近藤がそんな事を呟いた。
たくさんの隊士が、死んだ。
それは、彼の采配で出てしまった犠牲だった。
「‥‥」
は黙り込む。
それは、仕方のない事ではないかと思う。
今は戦をしているのだ。
戦って死ぬのは仕方がない事だと。
それが分かって彼らはついてきたはずだった。
それにこの戦に負けたのは彼のせいだけではない。
数も、武力も‥‥向こうの方が圧倒的に優位だったのだ。
むしろ全滅しなかった事を奇跡とさえ思えるほどに。
しかし、近藤は溜息を一つ零した。
やはり覇気のない声で、口を開く。
「大将が俺じゃなくて別の誰かだったら‥‥
あいつらも死なずに済んだかもしれんなぁ。」
その言葉に、はすかさず反論に口を開いた。
そんな言葉を彼に言って欲しくなかった。
だって‥‥そんな事を言ってしまえば‥‥
「っ!?」
がさりと向こうで物音がして、は開いた口を閉ざす。
続いて、聞き慣れない男の声が。
「おい、そこに誰かいるのか?」
し、とが二人を止める。
影からこそと覗くと、そこには異国の服に身を包んだ兵士が3人ほど、武器を手に立っていた。
見るからに新選組の人間ではない。
「‥‥ここで見つかると面倒だ。」
斎藤が目配せする。
「分かった。」
は頷くと、近藤の手を取り、先を急ぐ。
同時に、斎藤は逆の方へと走り出した。
素早く林道を抜け、合流地点へと向かって疾走する。
しかし、
「っ!?」
ぴんっと張りつめる糸のような。
そんな殺気には立ち止まり、彼を制した。
即座に腰に手を伸ばして構えれば、茂みの奥からのっそりと‥‥大きな影が揺れて、出る。
「やはり‥‥ここを通ると思っていました。」
現れたのは、かつて対面したことがあった鬼の姿。
「天霧‥‥」
大きな体躯に、堂々とした出で立ち。
素手で戦うという豪快さを持ちながら、しかし、彼は一見どこか穏やかにも見える。
だが、穏やかではあるが、敵に変わりはない。
「、彼は確か薩摩藩の手の物だったな。」
「‥‥はい。」
は頷く。
薩摩藩の、鬼。
その強さはも身をもって知っている。
この男とは、人間の身では戦うことは出来ない。
まさかこの男まで差し向けられているとは思わなかった。
この状況は、少々きつい。
「‥‥新選組を、追って?」
近藤の問いに、天霧は首をゆったりと振る。
否と。
新選組を斬るために来たのではないと。
「用があるのは‥‥あなたです。」
天霧がそっと蒼い瞳を向けたのは、の方だった。
何故?
は目をすがめて問いかける。
すると、天霧はいささか顔を顰めて、
「君と、土方という若者は風間を狂わせる。」
そう告げた。
藩の意向を無視し、単独行動ばかりを起こす彼に薩摩藩も手を焼いているのだと。
なるほど、彼の行動はいかに力のある鬼といえど、薩摩藩では問題視されているらしい。
「だが、我々としても今薩摩藩と手を切るわけにはいかない。」
「‥‥」
「それに‥‥」
天霧の瞳に殺気が籠もる。
「君は‥‥生かしておくのは危険な人物だ。」
人として。
いや、鬼として。
彼女の濃い鬼の血は危険だと。
その血を求めて鬼たちが一斉に動き出すかもしれないと。
そして、その血はいずれ、
人の世を滅ぼすかもしれないと。
「だから、君にはここで死んでもらします。」
静かな構えと共に、鬼は告げた。
予想していた言葉にはただ「そう」と呟くばかりだった。
男が見逃してくれるつもりでないのはよく分かった。
ここで彼は、本気でを殺すと。
ならば、
「」
すらりとは刃を抜きはなった。
そうして、まっすぐに鬼を睨み付ける。
「近藤さん、先に逃げて。」
「!?」
「この人が狙ってるのは私だけだから。」
私を捨て置いて、先に行って‥‥
そう告げれば、彼は顔をぐしゃりと歪め、泣き出しそうな顔になった。
「そんなことっ‥‥」
出来るかと言う言葉をは遮る。
「私は」
の迷いのない瞳が彼を見上げた。
「私は‥‥あなたを守るためにここにいるんです。」
「‥‥」
「あなたを守り、生かすために。」
は言い、絶望めいた表情になる彼に、そっと頭を振って笑いかける。
「大丈夫。
死なないから。」
それだけ言い、は再び視線を天霧へと向けた。
近藤はその身体に小さかった少女を重ねる。
何も知らず‥‥ただただ自分を慕ってついてきてくれた少女。
彼女はやはり、なんの疑いもせずに自分を、彼と同じように支えてくれた。
その小さな身体で‥‥何度も傷を受けて、彼を守った。
それを今‥‥痛感した。
自分は、
娘のように思っていた少女を、
盾にしようとしているのだと。
「っ」
ぎりと近藤は奥歯を噛みしめる。
そうして、
「退け」
短く言うと、を押しのけて、抜刀した。
「近藤さんっ?」
前に出た大きな身体には驚きの声を上げる。
一体何をと問えば、彼は振り返りもせずに答えた。
「どんな理由があろうとも、女を見捨てて逃げるなど、武士のすることではない。」
「近藤さん!何言ってるんですか、無理です!」
逃げてと言うが、近藤は聞く耳を持たない。
「‥‥俺は、敗残の将だ。
無謀な作戦でたくさんの部下を死に追いやった。」
「近藤さん!」
「そんな俺が、女性を守って死ぬ事が出来るんだ。
武士として――男としては最高の死に方じゃないかね。」
にやりと口の端に笑みを浮かべた近藤の瞳は、あの時、
風間に挑みかかる直前の、井上のように迷いのない瞳だった。
何を言っても、どんな言葉を並べても、到底説得できない。
そんな強く、覚悟を決めてしまった瞳。
その瞳に、強い気迫を込め、
「新選組局長・近藤勇、参る!」
白刃を手に、近藤が勇猛に斬りかかった。
「近藤さん!!」
の口から悲鳴みたいな声が漏れた。
無茶だ。
あなたでは敵わない――
「やぁああっ!!」
ぶんと、風を唸らせて刃を振り下ろす。
真っ直ぐすぎる太刀筋を、天霧は流れる動作でかわし、
「――むん!」
その鳩尾に素早く手刀をたたき込んだ。
一瞬だった。
「ぐっ!?」
前のめりに突っ伏しかけた近藤の身体をひっくり返し、その背中を思い切り地面にたたきつける。
地面に倒れた彼は、目を見開き、口をぱくぱくと何度も開閉させ、すぐに苦しげな顔で胸のあたりをかきむしった。
「肺袋を思い切り叩いた。
しばらく呼吸はできないだろう。」
倒れ伏した近藤をしばらく見下ろしてから、今度はへと向き直る。
「さて‥‥次は君だ。」
「‥‥」
じゃりと、砂を踏む音が聞こえる。
は刃を構え、一瞬、自分がどうすべきかを考える。
このままでこの男と戦った所で、勝ち目がないのは分かっていた。
一度だけ刃を合わせた事があるが‥‥は純血種とはいえ、女だ。
力では敵わない。
ならばやはり‥‥
「鬼に‥‥」
呟いた瞬間、悲鳴と炎が脳裏に蘇る。
濁っていく目に映る、自分の、変わり果てた姿。
そして、
意識を黒く塗りつぶされ、自分でなくなる‥‥感覚。
怖いっ――
の瞳が揺れた。
その瞬間、天霧が走る。
「っ!」
その大きな身体には似合わない素早さで一気に間合いを詰められ、大地を彼の足がどんと叩いた次の瞬間、
「ふっ――」
息を短く吐く声が近くで聞こえ、重たい風が叩きつけられる。
「っうぁ!」
多少受け身を取っていたにせよ、強い衝撃に身体ははね飛ばされた。
だんっと背後の太い幹に背中から叩きつけられ、みしりと嫌な音を立てて背骨が軋む。
ぐ、と血の塊が喉を駆け上がり、は吐き出すのを堪えた。
名残が唇の端からつっとこぼれ落ちる。
「!」
誰かの声が聞こえた。
痛みで一瞬ぼやける視界に、黒い影が飛び込んでくる。
斎藤だ。
どうやらあちらは終わったらしい。
彼は声を上げ、こちらへ駆けてこようとする。
それをは手を挙げるだけで制した。
「‥‥」
しばし、俯いて吐き気を堪える。
喉の奥を血の味が逆流した。
一度、二度、と大きく息を吸い込み、視線を上げる。
視線を上げれば、天霧はじっとこちらを見ていた。
その瞳には迷いはない。
を殺める事に、躊躇いは、ない。
怖いなどと言っている場合ではなかった。
このままでは確実に、ここで、死ぬ。
『俺は必ず戻る。』
言葉が脳裏に蘇る。
彼の真っ直ぐな瞳に、の迷いは‥‥消えた。
「約束‥‥した。」
『必ず生きて、俺を待て。』
いつまでも彼を待つと。
戻ってくるのを待っていると。
だから‥‥
「ここで、死ねない。」
の瞳に、強い色が浮かんだ。
「一‥‥」
は前を見据えたまま呟く。
「一つ頼みがあるんだけど‥‥」
「なんだ?」
斎藤は怪訝そうな顔をした。
は預けていた幹からよっと背を離し、口元の血を拭いながらにやりと笑って見せた。
「近藤さんの事、頼む。」
「‥‥」
まさか遺言かと思う言葉だが、その口調には決して諦めの色は見えなかった。
むしろ、彼女は勝機を確信しているようだった。
ただ、
「何があっても、近藤さんだけは守って。」
その口元は苦々しげに歪められており、
「‥‥」
その意味をくみ取る前に、彼女は決めてしまった。
そっと瞳を閉じ、気を落ち着ける。
『ねえ』
は呼びかける。
己の中に。
『ねえ』
心の奥底‥‥自分でも触れられないような場所に、声を掛ける。
『聞こえてるんでしょ?』
呼びかけに、闇の奥でぐるりと獣が唸るような音が聞こえた。
そしてすぐにくつくつと笑い声が。
――わたしの力を求めるのか?
闇の中ぼんやりと自分と同じ格好をした、だけど自分よりももう少し色っぽい女が浮かぶ。
彼女はにやりと口元を歪めて笑っていた。
――今度こそ、わたしに取って食われるかもしれないのに?
揶揄するような言葉を投げかけられ、
しかし、金色に染まる美しい瞳を真っ向から睨め付け、
『力を貸せ』
絶対の力で命令を下した。
――おまえが狂ったら、俺が止める――
脳裏に響く力強い言葉に、気位の高い鬼の姫はくつくつと喉を鳴らして笑った。

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