「戦況は、新政府軍の優勢です。」

甲府城へと向かう最中、先に様子を見に行っていた山崎がそう言った。

 

「近藤さんと、土方さんの居場所は?」

 

「近藤局長は本陣‥‥山の中腹あたりです。

土方副長は援軍要請の為、江戸に戻られたと聞いています。」

その言葉に、沖田は目を剥いた。

「江戸に戻った!?」

驚きに表情を変えたのは一瞬で、すぐに怒気と失望を瞳に浮かべる。

「近藤さんを不利な戦場に残して‥‥自分は江戸に逃げ帰ったわけか‥‥」

吐き捨てるような彼に、千鶴は違うと口を開くが、それよりも先に口を開いたのは山崎だ。

「援軍要請は局長命令だそうですが。」

苛立ったような言葉に、沖田も負けじと返す。

「近藤さんを持ち上げて、無理に言わせたんじゃないの?」

無言でにらみ合う二人に、千鶴は慌てて仲裁に入った。

「落ち着いてください!

お二人があつくなってどうするんですか!」

間に入り、二人を交互に見て、

「今はっ‥‥そんなことを言い争ってる場合じゃないでしょう!?」

と告げる。

そうだ。

言い争っている場合じゃない。

そんなことよりも前に彼らに追いつかなければいけないし、なにより、沖田にそんな事を言って欲しくなかった。

土方が、近藤を見捨てるような真似をするはずがない。

それは千鶴にだって分かっているし、沖田にだって分かっているはずだった。

「土方さんは‥‥そんなことをする方じゃありませんっ」

無性に泣きたい気分になり、千鶴は唇を噛む。

ややあって、沖田は落ち着いた声音で呟いた。

「‥‥近藤さんと合流しよう。」

言葉に、山崎も冷静な声音で答えた。

「了解です。組長。」

二人の間からぎすぎすした空気が消え、千鶴はほっと胸をなで下ろした。

そのとき、

 

「合流する前に――

 

楽しげな声が響いてきた。

声に二人が構えれば、茂みより小さな影が姿を見せる。

 

「俺と遊んでくれないかな?」

 

闇より出てきたその人は‥‥にこりと邪気のない笑みを浮かべた。

「薫!?」

思わず一歩下がる千鶴を、沖田はかばうように前に出た。

「‥‥遊び相手は、僕とこの子で十分だろう?」

その言葉に薫が反応するより早く、山崎が身を昼返した。

――先行します。」

静かな声で告げ、瞬く間に目の前から姿を消す。

それを薫は止めることもなく見送り、

「見捨てられたわけ?

人望無いんだね、沖田って。」

挑発するように薫が笑った。

「彼とは合わないんだよ、昔から。」

その挑発に、沖田はやはり笑って答える。

ああそうと薫は呟いたが、その目はもう山崎になど向けられていなかった。

元々彼は山崎など眼中にはない。

目的は沖田と、千鶴‥‥いや、千鶴だけ。

だから、山崎を行かせた。

近藤と合流させるために。

そう望んだ沖田の意図に山崎は応えてくれた。

 

さて、

と薫は言い、不似合いな刀をすらりと引き抜く。

「今日は、沖田の様子を見に来たんだ。」

その小さな身体には大きすぎると千鶴は思った。

「戦場には血の臭いが溢れてる。

羅刹化した身体には刺激が強いだろ?」

しかし、楽しげに笑うその目には‥‥血の色を感じた。

彼が人を斬った事があるというのが分かった。

同じ顔をしている兄は、既に、その手で誰かを殺めたのだと。

「‥‥だから、何?」

どこか呆然とする千鶴の前で、沖田は余裕の表情で刃を引き抜いた。

「僕が刀を手にしてから‥‥血なら飽きるほど浴びてきたよ。」

言うなり、彼は地を蹴った。

千鶴が目で追えたのは、

 

――月光にきらめく白刃の軌跡だけだった。

 

きぃん!!

 

と次には甲高い音を立て、全力で振るわれた刀同士が激突する。

そしてすぐにほぼ同時にお互いが距離を取り、

「‥‥」

気づけば沖田の身体は羅刹のそれへと変容していた。

真紅の瞳が静かに薫を睨み付けていた。

「沖田は‥‥羅刹の分際で生意気だな。」

「僕はおまえに辟易してる。

だから、今日こそ死んでもらうよ。」

二人は軽口をたたき合い、また、切り結び――

 

――うぐっ!?」

 

次の瞬間には、薫の身体に深々と傷が刻まれた。

でも、彼は鬼だ。

「こんなもの、ただのかすり傷だね。」

その傷は瞬く間に塞がる。

薫は余裕の表情で言うが、

――僕は容赦しない。」

沖田は冷たい声で言って、彼の傷が治りきるよりも前に、次の一撃をたたき込む。

「っ!」

ざん、と肉を絶つ音が聞こえ、血が溢れた。

表情が苦悶の色を浮かべる。

 

決して薫が弱いわけではない。

沖田が‥‥強すぎるのだ。

 

「‥‥」

 

千鶴は知らず、その光景を食い入るように見つめていた。

沖田の強さは知っていた。

何度も見た。

でも、ここまで強く‥‥そして鮮やかだとは知らなかった。

彼の剣戟は、どこまでも美しかった。

 

「くくっ‥‥くくくく!!」

 

沖田の一撃が振るわれる度に、薫の身体には傷が増えていく。

だというのに、彼の口からは楽しげな笑い声が漏れていた。

鮮血がまるで花びらのように舞った。

 

「気でも違ったの?

それとも、鬼にとって苦痛は快楽なのかな。」

 

そんな彼を、沖田は僅かに軽蔑の眼差しを込めて告げる。

彼がそんなおかしな趣味があっても、彼にはどうでもいいことだ。

いずれにせよ、

 

きぃん!!

 

甲高い音を立て、薫の手から刀をはじき飛ばす。

弧を描いて空を飛んだ刀はやがて、ぐさりと地面に突き立った。

 

「これで‥‥終わりだ。」

 

切っ先を突きつけられ、薫は空になった手をゆっくりと下ろした。

 

「ふぅん‥‥強いね、沖田。」

 

のど元に剣先を突きつけられる。

だというのに、薫は余裕の色をなくさない。

それがひどく、不気味だった。

 

「前に会ったときよりも動きが早い。

ねえ‥‥もう血を飲んだ?」

「呑気にしゃべってる場合?

まさか、この剣が見えないわけじゃないよね‥‥」

眉一つ動かさずに沖田はそう言うけれど、薫はまるで聞こえていないように話を続けた。

「その剣の速さが血を飲んだせいなのか、俺に対する怒りのせいなのかはわからないけど――

どちらにせよ、と彼は言う。

「おまえが羅刹である限り、血を飲まずにはいられないよ。」

その言葉はつまり‥‥いつか、血に溺れ、狂うと言いたいのだろうか。

「よくしゃべる口だな‥‥そんなに早く死にたいわけ?」

沖田の表情が冷たいものへと変わっていく。

 

しかし、切っ先は動かない。

 

動かないそれに、薫はにやりと嫌な笑みを浮かべた。

 

「羅刹は、血を飲むたびに強くなる。」

赤い目を見て、薫は口を開いた。

「でも、一度でも血を口にすると次から血に対する抑えが効かなくなる。

後は狂っていくだけさ。」

「‥‥」

「だからといって血を飲まなければ苦痛に耐えられなくなる。」

悲劇だね、と薫は目を細めた。

 

「‥‥何が言いたい?」

 

「狂うことなく強くなるためには、鬼の血を飲めばいい――

 

ねえ、と薫は視線を千鶴へと向けた。

その視線は、驚くほどに穏やかで優しい色を浮かべていて、千鶴は驚いた。

彼は、その穏やかな目で愛しい妹を見て、

 

「そんな嘘にも、縋り付きたくなるよね。」

 

残酷な言葉を吐いた。

 

「‥‥う、そ‥‥?」

 

唐突な言葉に、千鶴は一瞬、呆けた。

このとき、

致命的な隙が出来てしまったのだろう。

 

薫は沖田の脇をすり抜け、千鶴へと一気に迫った。

 

「その子に触るな!」

声を上げた時には既に遅く、薫の手が千鶴の腕を掴んだ。

殺される――

千鶴は瞬間、そんな事を思う。

だが‥‥

 

――っ!?」

 

首をへし折られるよりも前に、薫が手にしていた物を無理矢理口に押し込まれた。

驚きに見開いた瞳に、その滴が飛んで、見えた。

それは‥‥血のような赤。

 

「ぐっ!?」

 

はき出しきれなかった一滴が喉の奥を滑り落ちた。

 

「あははははははは!!」

 

嚥下した音を聞いた瞬間、薫の嬌笑が響き渡った。

呼応するようにどくんと胸の奥が脈動した。

 

恐ろしい形相の沖田が薫の心臓を一突きしようと刃を繰り出すが、

「きゃっ!?」

薫は千鶴を突き飛ばすことでかわし、彼との距離を取る。

「薫!

おまえ、今のは‥‥」

沖田の声は怒りで震えていた。

「沖田だけ羅刹だと‥‥寂しいだろ?」

びりびりと肌を刺すような殺気を向けられながらも、薫は酷薄な笑みを浮かべているだけ。

「これで二人は仲良く羅刹だ!

兄さんの計らいに感謝して欲しいな。」

「貴様っ!」

ぎりと沖田は奥歯を噛みしめる。

悔しげな顔をした彼に、薫は冷たい声で言い放った。

「おまえのせいだよ、沖田。

妹の前だからって、俺を殺すことを躊躇っただろう?」

「‥‥っ」

迷うべきではなかった。

このとき沖田は自分の甘さをはじめて呪った。

相手を殺すことを躊躇ったのは‥‥多分初めてだった。

それは全部、彼女のためだった。

そして‥‥

「相手を思いやればやるほど、おまえたちは破滅に追いやられる。

なんて愉快なんだろうね。」

見事に裏目に出た。

「ひ、どいっ‥‥」

身体の中で生じ始めた違和感に、千鶴は息を乱しながら彼を睨み付けた。

そんな彼から返されたのは、さげすむような眼差しだった。

「俺はおまえが大嫌いだよ‥‥」

さげすむような眼差しの奥に‥‥僅かに見えるのは、切望する色だった。

その意味を、千鶴はまだ分からない。

 

「変若水を飲んだ鬼って、どんな狂い方をするのかな?」

「‥‥」

呆然とする千鶴に、薫は笑って、背を向けた。

「次に会うときが楽しみだよ。」

高らかな笑い声が、耳に残って‥‥消えた。

 

やがて森に静寂が戻ったとき、沖田はいつもの姿に戻り、

「‥‥ごめん。」

沖田はへたり込んだ千鶴の前に膝を突いて、謝った。

どうしてと視線を上げれば、彼は苦渋に眉を寄せながら口を開く。

「薫の言うとおりだ。

‥‥僕の迷いが、君を害した。」

こんなことになるなら、迷わず殺しておくんだったと悔しげに唇を噛みしめる彼に、千鶴は首を振る。

「沖田さんは私を守ってくれました。」

しかし、沖田は目を伏せ、

「僕は、君を守れると思ってた。

‥‥油断していたのは僕の方だ。」

ごめんともう一度謝る。

謝ることなんて何一つ無い。

だって、彼は千鶴のために迷ってくれた。

 

「‥‥身体、大丈夫?」

口を閉ざす千鶴を、気遣わしげに沖田は覗き込んだ。

千鶴はこくりと頷いた。

今は‥‥落ち着いている。

この先を考えると不安でたまらないけれど‥‥でも、

「大丈夫です。」

沖田をこれ以上不安にさせたくなくて、千鶴は笑ってみせた。

「今から新選組に合流するんですよね?」

きっと、近藤の顔を見れば沖田も元気になるだろう。

そう思って千鶴は言うけれど、

「もう、戦いは終わったのかもしれない。」

少し考え込んだ沖田はそう言って首を振った。

言われてみれば、あたりから音が消えていた。

「戦いが終わったのなら、その‥‥」

新選組はどうなったのだろう?

もしかしたら負けたのだろうか。

千鶴は言葉を濁した。

そんな彼女の前で沖田はしばらく考え込んだ後、決断した。

 

「僕たちは僕たちで‥‥江戸に戻ろう。」

 

その戦いは、やはり新政府軍の勝利だったというのを知ったのは‥‥江戸に戻ってからだった。