傷つけたくないと思った。

決して彼女を傷つけたくないと。

 

だから、突き放した。

 

冷たい態度と言葉で。

彼女を突き放した。

 

それに彼女は従ってくれた。

 

だけど‥‥

 

彼女を傷つけまいとして突き放した結果が‥‥

彼女を更に傷つけたと知った。

 

開いた距離でも分かる。

 

彼女が何度も何度も悲しそうな顔をするのが。

苦しそうな顔をするのが。

それをなんでもない顔で誤魔化すのが。

 

そして、その時に分かった。

 

そんな彼女を見ているのが、

彼女を傷つける事よりも、

 

ずっと‥‥苦しいと――

 

 

ただ誰の者のために

 

燦々と照りつける日差しの下、男は疾走した。

江戸まで続く道を一人で。

遠慮のない日差しに額には汗が浮かんでいた。

それは疲労から来るものだけではなかった。

苦痛を堪えるが故の、脂汗だ。

 

羅刹として身体を蝕まれている男には昼の日差しは苦痛でしかない。

 

本来ならばまともに動く事も出来ないだろう。

しかし、

土方は走った。

その日差しなど気に掛ける事もなく、ただひたすら走った。

 

 

どこかで、銃声が轟いた気がした――

 

 

 

年若い隊士が戦いの火ぶたを切った。

偵察の為に近付いてきた新政府軍に対し、銃を発砲した事から始まってしまった。

あくまでこちらは幕臣として、甲府城付近を守っているだけだった。

やり過ごせばよかったものの、彼らは敵の気に飲まれたのだ。

あっという間に戦場と化し、あちこちで銃声と、悲鳴と、血のにおいが‥‥世界に広がった。

 

「近藤さん!無理だ!

あいつら、鳥羽伏見で戦った奴らだ!!」

永倉が返り血で顔を染めながら、駆け込んでくる。

統制の取れた指揮で、こちらが付け入る隙がない。

そればかりか、敵の持っている新型の銃のおかげで、近寄った端から撃ち殺され、あちこちに隊士の死体が転がった。

こちらも銃を持っているものの、扱いに慣れないずぶな素人ばかり。

怯えているうちにずどん、とやられ、こちらの犠牲が増えるばかりだ。

「一旦退却してくれ!

体勢を立て直してもう一度っ」

と叫ぶように言えば、近藤は首を振った。

「敵を目の前にして逃げろと言うのか!

貴様はそれでも武士か!」

恥を知れと罵声を浴びせられ、永倉がぎりと奥歯を噛みしめる。

 

彼は決して命が惜しいわけではない。

ただ、

このままでは無駄死にが増えると分かった。

だからこそ退けと言った。

逃げるのではなく、勝つために一度引くべきだと。

しかし、近藤は取り合わなかった。

あくまで戦い抜くべきだと。

武士としての誇りを持ち、武士らしく果てるべきだと。

 

前線に立たない彼には分からない。

 

あそこにはもう、そんなものはないのだと。

あるのは空しい『死』だけだと。

 

「近藤さん!頼む退いてくれっ」

続いて駆け込んできた原田が顔を歪めて叫んだ。

むっとして今度もまた怒鳴り散らそうとした彼は、原田の言葉で遮られた。

 

「このままじゃ――

 

 

バァン!!

と激しい音が轟き、地面を穿った。

それをどうにかかわし、は風のように走る。

茂みに飛び込んで前へと進めば、目の前に敵が飛び込んできた。

 

「‥‥」

 

それを見越して刃を一閃させれば林の中で悲鳴と鮮血が上がる。

踏み越え、は走った。

途切れた林の間、

再び銃声が轟く。

 

ち、と頬に熱を感じ、は目を細めて木の陰に隠れた。

 

触れれば指先に血の感触。

頬だけではない、あちこち掠って‥‥白い上衣をところどころ赤く染めていた。

下は黒いせいで分からないが、破れている所を見ると弾はいくつか掠ったらしい。

ほどの人間でも、一斉射撃されては無傷というわけにはいかなかった。

銃の性能も優れたものながら人間の技術が上がっているらしい。

これは苦戦をするぞとはあちこちで上がる銃声と、それから悲鳴とを聞きながら思った。

ちらりと自軍の方を見遣れば、立っている隊士の数が少ない。

反して倒れている隊士の数が多くなっていた。

 

先ほどまで立っていた原田がいなくなっているのを見て姿を探したが‥‥どこにも見あたらなかった。

どうやら陣に戻ったか。

因みに斎藤は奮闘中である。

がしかし、どれほどこちらに優れた人材があると言っても、所詮は多勢に無勢。

おまけに射程距離の長い反則みたいな銃に、ただの人間が敵うわけもない。

 

「‥‥私がどこまで踏ん張れるか‥‥な。」

 

はとん、と胸を叩いた。

最低でも、ここと、頭は死守しなければいけない。

他は腕でも足でも、打ち抜かれた所で平気だ。

羅刹隊と違って銀の弾丸で傷の治りが遅いというわけでもないのだから。

 

それでも、

 

ごりっ

 

と木の幹がえぐれた。

見ればこちらまで近付いてきていた敵兵が銃を向けている。

は考えを止め、また走った。

引き金を引く。

その瞬間、勢いよく銃口から飛び出した弾が止まったように見えた。

 

の目は一瞬、金色に染まり、

 

「がぁっ!?」

 

敵は袈裟懸けに斬られ、絶命した。

 

「それでも、私は生き抜かないと。」

 

 

 

「大丈夫?千鶴ちゃん。」

長い道のりを行きながら、沖田は何度も振り返って訊ねる。

ええ、と千鶴は荒い息を吐きながら何度も頷き、その度に青白い顔の沖田に不安の色が広がった。

今は日中で‥‥沖田にとっては辛いはずの日差しが差し続けている。

それでも彼は立ち止まる事もなければ、歩調を緩める事もない。

ただ、一心に前だけを見て歩いた。

時折千鶴を気遣うが、彼の心は戦場へと馳せているのだろう。

早く到着したい。

早く彼の為に戦いたい。

だから、松本の許可が下りた瞬間、一も二もなく飛び出した。

千鶴はがくがくと震えそうになる足を叱咤し、歩き続ける。

 

早く。

 

千鶴は思う。

 

沖田を近藤の元に行かせてあげなければと――

 

ずきんと、

足の指が痛んだ。

痛いと思うのは嘘にした。

そうしなければ、彼を止めてしまうと分かったから。

 

彼を、

これ以上待たせたくなかったから。

 

 

 

「‥‥」

目の前に広がる光景に、近藤は苦しげに顔を顰めた。

地面には赤い池が広がっていた。

あちこちに転がるのは年若い隊士達の姿。

そのどれもが息絶えていた。

銃声が上がりまた、悲鳴が上がる。

見ている目の前でまた、一人が倒れた。

続けて、また。

 

それは、戦いなどではなく、

一方的な殺戮だった。

 

「‥‥分かっただろ?」

 

永倉が苦しげな声で呟く。

彼の決断が、この結果を生みだした。

もう少し早く引いていれば‥‥これほどの犠牲を出す事はなかった。

もう少し早く‥‥彼が現実を見ていれば、

生き残った隊士は多かったはずなのに。

 

「もう、いいだろ。」

原田の言葉に、近藤はうつむき、拳を握りしめた。

どこかでどさりと倒れる音と悲鳴が尾を引く。

ぎりぎりと歯ぎしりし、やがて、彼は顔を真っ赤にし、目を血走らせて、声を張り上げた。

 

「皆の者、退却だっ――!!」

 

悲痛なその一言で、原田と永倉は漸くほっとしたような顔をした。

 

「斎藤っ」

そうして素早く動き始める。

彼は斬り結んでいた敵を即座に切り捨てると深追いをすることなくこちらへと引きながら、彼女を呼んだ。

!退却だ!」

言葉に呼応するように林よりは飛びだしてくる。

それと同時に目の前にいた敵の一人を斬り伏せ、鮮やかな風のようにこちらへと舞い戻ってきた。

「了解。」

僅かに息を弾ませ、彼女は汗を拭った。

そのあちこちに滲む血の痕に、近藤の顔は再び歪む。

「斎藤、近藤さんを頼む。」

先に引いてくれと原田に言われ、斎藤は一瞬の間の後、

「分かった」

こくりと頷いた。

そうして刃を鞘に収めながら、

「局長、こちらへ」

と近藤を促す。

それと一緒に隊士達もぞろぞろと引き始めた。

勿論、こちらが引けば敵は追ってくる。

原田と永倉はそれぞれに武器を手にし、

「さて、一暴れといくか‥‥」

「へますんなよ。」

互いに楽しげな笑みを浮かべて言い合う。

 

そんな彼らをは一瞥し、

やがて、

 

「新八さん、左之さん。」

 

静かに彼女は二人を呼んだ。

なんだぁと二人は背を向けたまま返事をする。

その間をはすっと抜けた。

二人よりも一歩だけ前に踏み出した彼女に、

「お、おい?」

永倉が戸惑いの声を上げる。

いつの間にか、空は茜色に染まっていた。

地面を染める血と同じ、色に。

それをじっと見て、は言い放った。

 

「しんがりは私が勤める。」

 

言葉に、二人は一瞬呆気に取られ、

「そ、そんな事出来るかっ!」

次の瞬間、二人は猛反対をした。

「おまえ一人が戦うなんて無茶だ!」

「さっきからずっと戦い通しだろうが、いくらおまえでも無理だ!」

二人は言い、刀を、槍を構え、を押しのけようとする。

 

瞬間、振り返ったその瞳に鋭い色が浮かんだ。

 

「これは、命令です!」

 

鋭い、凛とした声が、空気を震わせ、

「っ!?」

二人は言葉を飲み込み、ついでに動きを止める。

大の男二人を止めるだけの力が、そこにはあった。

 

「‥‥局長・副長がいない今‥‥新選組の指揮権は私にある。」

 

は鋭く二人を見つめたまま、言い放つ。

 

強い眼差しは、

副長を支え、彼の代わりを勤めるだけの風格がある。

口を開いたが、二人は反論することは出来なかった。

 

「私が、しんがりを勤める。

二人は、先に撤退を‥‥」

その言葉に、二人は揃って奥歯を噛みしめるのが分かった。

悔しそうな顔で、苦しそうな顔で、こちらを見る二人の気持ちは、痛いほど分かった。

有り難いと思った。

「大丈夫。」

そんな彼らに、は僅かに目元を綻ばせて笑った。

「無理はしない。」

いつものように、彼女は笑ってみせた。

「私‥‥約束したんですよ。」

言って、抜き身の刃を敵へと向ける。

何人もの人を斬ったというのに刃こぼれ一つしていない刃が、ぎらりと光った。

 

「土方さんと‥‥約束したんです。」

 

『俺は必ず戻ってくる』

 

彼はいつものように、強い眼差しで言ってくれた。

 

必ず戻ってくると。

 

『必ず‥‥何があっても、おまえも生きろ』

 

生きて、

再び会おうと約束した。

 

だから、

 

「絶対‥‥何があっても死なない。」

 

生き延びてみせる。

は誓った。

ここを切り抜けて、必ず、必ず‥‥

 

「あの人に会う。」

 

決して、自棄で口にした言葉ではない。

彼女は信じていた。

その約束を必ず叶えられると。

叶えてみせると。

 

その強い眼差しに、誰が否を唱えられようか。

 

「‥‥約束‥‥だからな。」

やがて血を吐くような思いで、永倉は言った。

悔しそうな声と共に、ざっと乱暴に地を蹴る音が聞こえた。

原田もその背中を見つめて、告げた。

「先に行って、待ってる。」

頷きもしない、その背中は‥‥こんなに大きかっただろうかと、彼は思った。

 

 

さて、

は迫り来る敵兵を見つめながら、どう切り抜けたものかと呟いた。

迫る敵の数は‥‥数十。

一人で戦うにはちと骨が折れる。

こちらももう‥‥ぼろぼろだ。

だけど、

 

「うぉおおっ!」

 

迫り来る一人が抜刀し、斬りかかってきた。

上段から来たそれを、は風のようにかわすと、

 

――ざん!!

 

鮮やかに、斬って捨てる。

そして次いで向かってくるもう一人を一呼吸の間に貫く。

 

ばぁん!!

と轟音が空に上がる。

 

「っぐはっ!!」

その銃弾を、は今し方貫いた一人を盾にし、やりすごす。

そして刃を抜きざまに、走り‥‥向かってきた次を‥‥薙いだ。

 

 

「なんだ‥‥あいつは‥‥」

 

 

誰かが呆然と呟く。

数ではまだまだこちらの方が有利だというのに。

相手はただの一人だというのに‥‥何故だろう‥‥

彼らは攻められずにいた。

 

引き金を引けば討ち取れるかもしれない。

簡単にその命を奪う事が出来るかも知れない。

でも、

 

彼らには出来なかった。

呆然と見ている事しか出来なかった。

 

ざん、

とまた一人、屠りながらは遠く離れた敵を見て、笑った。

 

ぞくりと肌が粟立つような色っぽさと。

背筋が震えるようなおぞましさを併せ持った瞳が、

金色に光った――

 

誰にも止めさせない。

彼らの行く先が、地獄だとしても。

決して救いのない道だとしても。

 

「ここは、誰一人通さないよ」

 

べろりと返り血を舐ったその姿は、息を飲むほど美しかった。

 

とても、

 

滅び行く未来へと突き進んでいるとは思えぬほど――