先ほどまで悩んでいたのが嘘のように、の胸の内は晴れていた。

案外自分は単純らしい。

彼の言葉一つで、あっさりと悩みが無くなった。

 

問題自体が解決したわけではない。

自分の罪は決して消えないし、いつ我を忘れるか分からないと言う不安は付きまとう。

悩みが消え失せたといったら嘘にはなるが‥‥

彼の言うとおり、

「大丈夫」

なのかもしれない。

少なくとも、

彼がいるうちは。

 

そう納得できる自分が、すごく不思議だと思った。

 

「‥‥さてと‥‥」

問題も解決したところで土方が己の膝を叩いて立ち上がる。

「俺はもう少し仕事をしてくる。」

途中だった、と思い出して口にすれば、が申し訳なさそうな顔をした。

「馬鹿、んな顔しなくていい。」

謝罪を口にするよりも前に、土方は苦笑で遮る。

「俺が勝手にした事だ。」

おまえが気に病む事はねえよ、と彼は言った。

確かに予定は大幅に遅れてしまったかもしれないが、彼はそれで良かったと思っている。

今から仕事の遅れを取り戻すことは出来ても、彼女が出て行ってしまったら取り返す事が出来なかっただろう

から。

 

それならとは口を開く。

「あの、お手伝いすることありますか?」

これだ。

先ほどまで悩んで飛び出そうとしていたかと思えば、途端にいつもの頑張りやの副長助勤に戻る。

土方は馬鹿ともう一度呆れたように言う。

「病み上がりが何言ってんだ。」

そんなことしなくていいから休めと、しっしと犬を追い払うみたいに手を振る。

「病み上がりじゃないですよ。

ただ‥‥ちょっと寝てただけで。」

傷だって完治してると言うが、彼は取り合ってくれない。

「いい。

おまえは寝てろ。」

「土方さん。」

「斎藤だって島田だって手伝ってくれてる。

おまえに頼まなきゃいけねえほどの事はねえよ。」

「でもっ」

は食い下がった。

今日何度目の「でも」だろう。

土方は苦笑で振り返り、心配そうな顔でこちらを見るの額をこつんと突いた。

「いいから寝てろ。」

と言えば彼女は「あいた」と痛くもないのに言って、不満げな目でこちらを見てきた。

しかししつこく言わない所を見ると、一応は納得したようだ。

それから、突然、苦笑を漏らした。

「どうした?」

何かおかしな事でもあったかと問うと、彼女は首を違うと振った。

「だって、ほんとに土方さん相変わらずだなーと思って‥‥」

言ってる意味が分からず、彼は眉根を寄せる。

はだってね、と続けて口を開いた。

「私が鬼だって分かっても、全然変わらないし‥‥あんな事があったって言ってもほんとに、何一つ変わらない

んだもん。」

知った後も、前も、変わらないと安心したように呟くと、彼はあほかと目を眇めて呟いた。

「だから言っただろうが、何もかわらねえって‥‥」

「それでも、普通は変わりますよ。」

は言葉を切って、意地悪く笑った。

「だって私、あの鬼と同じなんですよ?」

あの鬼。

彼女が言うのは風間の事なのだろう。

名を口にはしなかったがそれは分かり、土方の顔が見る見るうちに不機嫌なものになっていく。

因みに名前を言わなかったのは彼がそうなると分かっていたからだ。

「あいつと同じ‥‥」

いや、それよりももっと、

「濃い鬼の血が私には流れてる。」

は言った。

それがどういった作用をもたらすのか彼女自身知らない。

どれだけの力を自分が持っているのかも‥‥分からない。

確かなのは、何十という人間をあっという間に殺してのける‥‥そんな戦闘能力を持つという事。

「‥‥怖くないですか?」

かつての時の権力者達も皆怖れた。

怖れ、彼らの自由が出来ないように‥‥彼らを散り散りにさせ、あるいは滅亡させた。

それだけの力を自分が持っているとは思えないけれど、人は、怖れるものだ。

未知なる力を持つ人ならざる者を。

 

そうすれば、もう一度、土方の目がすいと細められ、

 

「誰が怖いもんかよ」

 

今度はふに、と鼻の頭を摘んだ。

瞬間、

「ふにゃっ!」

が変な声を上げる。

濃い鬼の血を持つ、人ならざる存在とは到底思えない、間抜けな顔で。

 

「総司と一緒になって悪さばっかりやってる悪ガキのくせに、生意気な事言うんじゃねえよ。」

暗殺が大の得意という副長助勤をとっつかまえて「悪ガキ」と呼ぶのはきっと彼くらいなものだろう。

悪ガキ呼ばわりされたは、僅かに眉根を寄せ、

「子供じゃないですよ。」

もう、とその手を払いのけた。

確かに彼女はもう、立派な大人だ。

子供と言っては失礼な、年頃の娘だ。

「っても、俺に取っちゃ‥‥」

 

妹みたいなもの――

 

そう言いかけ、

 

「‥‥」

言葉に違和感を覚えて止める。

 

妹‥‥というのは変な感じがした。

だからといって、娘ではないし、ましてや弟でもない。

一番しっくり来るのが、妹‥‥という存在なのだが、

 

「‥‥なんか違うな‥‥」

 

土方は一人ごちる。

は何が違うのかと首を捻った。

何故ならそれは彼の頭の中で処理されている出来事だからだ。

 

「いや、なんでも‥‥」

改めて言うことでもない。

土方は首を振り、ふとその瞬間、首を捻る彼女の‥‥胸元が寂しいのに気付いて、思い出した。

「忘れるところだった。」

立ち止まり、唐突に懐に手を差し込んだ。

指先にそれが触れた。

 

、後ろを向け。」

「後ろ?」

唐突すぎる言葉には目を丸くした。

いつもの意趣返しだ。

理由も言わずに早くと、彼女の肩を押してぐるりと背を向けさせると、は「なんなんですか?」と声だけを

後ろに向ける。

そんな彼女の首に、

 

とん、

 

と何かが触れた。

 

――え‥‥」

 

触れたのは、覚えのある感触だ。

毎日のように触れていたはずの、でも、なんだか懐かしい感じのする感触。

それは、彼女の体温を忘れて、冷たくなっていた。

 

まさか、まさか、そんなはずはないとは恐る恐る己の首に手をやる。

固い感触が触れた。

鏡があるわけじゃないので感触で形を確かめるしか出来ない。

丸みを帯びた、冷たい、石。

指に馴染むその感覚は、

 

「嘘‥‥」

 

彼女が失くしたと思った、首飾り。

 

思い出したくもない、風間に引きちぎられたそれだ。

 

「土方さん‥‥?」

首の後ろできゅと紐を結んだ男は、よしと彼女の肩を叩く。

叩かれ、は振り返った。

困惑した表情で見上げれば、彼はひょいと肩を竦めて見せた。

「拾っておいた。」

うち捨てられていた首飾りを彼が見つけた。

紐は引きちぎられ、石は血で濡れていた。

きっとの血だろう。

噛みちぎられたというのはすぐに分かった。

 

「‥‥」

 

思い出して、土方の眉間に皺が寄る。

の首にはもう傷はない、が、あの鬼が彼女の首を噛み切ったと思うと、今でも怒りがこみ上げてくる。

散々好き勝手にしやがってと内心毒づきながら、土方は視線をへと戻した。

彼女はまだ信じられないと言う風な顔で、虚空を見つめている。

指先はずっと首飾りに触れたまま。

「紐は、千切れたから変えておいた。」

「‥‥」

「石はそのままだ。」

「‥‥」

反応がない。

彼はそんなの様子に、僅かに顔を曇らせた。

 

「迷惑‥‥だったか?」

 

てっきり、

彼女は気に入ってくれているものだと思っていたが。

もしかしたら迷惑だっただろうか?

もしかしたらもういらないものだっただろうか?

 

訊ねるが、は無言だった。

 

驚きの表情で地面を見つめたままの彼女の手の中で、石は段々と温もりを取り戻していく。

いや、実際は冷たいままなのかもしれない。

でも、彼女にはそれが暖かくなっていくような気がしたのだ。

そう、まるで、息を吹き返すように。

 

戻ってきた。

戻ってきた。

 

実感が沸いたと同時に、色々な感情がわき起こって、はうーっとよく分からない呻り声を上げる。

しかしそれだけじゃ気分は全く収まらず、

「ほんとに、戻ってきた!」

は衝動のままに傍にあった温もりに手を伸ばした。

 

「お、おい!?」

 

飛び上がる勢いで抱きついてきた彼女に土方は思わず戸惑いの声を上げ、受け止める。

予想していなかった行動に半歩だけ後ろに下がり、遠慮無く飛びついてきた柔らかな感触に、一瞬どきりと胸が

が高鳴った。

 

っ」

「ありがとうございます!ありがとうございますっ!!」

ありがとございますとは言いながらばしばしと遠慮無く彼の背中を叩いた。

かと思うとぴょんぴょんと跳ねるものだから、首にしがみつかれた男は痛くて仕方がない。

落ち着けと言ってやりたかったけれど、その声がひどく嬉しそうで、止めた。

代わりに、たかだか首飾り一つでそうまでして喜ぶものかと彼は呆れる。

呆れたと同時に、そこまで喜んでくれることが、なんだか嬉しいと思った。

 

「‥‥」

土方は目元を細め、

抱きついてきたその背中にそっと手を伸ばす。

少し力を入れると、その温もりをはっきりと感じた。

腕の中にある温もりに、ひどく安心させられ、また更に、腕に力が込められる。

だけど苦しくない程度に‥‥まるで壊れ物を扱うように、男はその身体を抱きしめた。

引き寄せれば、の温もりと柔らかさを強く感じた。

「良かったな」

思ったよりも優しい声が自分の口から漏れたのは‥‥きっと、彼女がひどく喜んでくれたからだ。

 

大きな手が背中を抱き、その瞬間、は我に返った。

 

あ。

 

小さな声が喉の奥で弾ける。

 

無骨なはずの男の手は、優しく‥‥だけど強くを抱きしめていた。

ただ受け止めるのではなく、

彼女を、

抱きしめた。

 

どくん

 

その瞬間、

は唐突に気づいた。

 

まるで、それが当たり前だったように、唐突に‥‥彼女の中に答えが産まれた。

 

大きな、その身体に。その温もりに。甘い香りに。男の鼓動に、声に。

 

どくんと鼓動が跳ねた理由に。

 

わたしは‥‥

 

包み込む、言いしれぬ安心感とこみ上げる切なさに。

答えが‥‥見えた。

 

この人が‥‥好きだと

 

 

彼らを傷つけたくないと思ったくせに、

彼らの元を離れるのを躊躇った理由。

それは簡単な答えだった。

 

凛とした強さを持つその人が、

悲しいくらいの不器用さに足掻く人が、

泣きたいくらいに優しい手を伸ばす人が、

 

土方が、

 

 

好き――だから――

 

 

だから、

傷つけたくなかったのに、離れたくなかった。

土方を、

 

好き――だから。

 

そう思うと、全てが納得できた。

不思議と、自分の中にすとんと答えが落ちてきた。

 

いつから‥‥?

彼のことを、特別だと思い始めたのは。

彼に‥‥

恋心を抱くようになったのは。

 

きっときっかけなんて些細なものなのだ。

小さな何かが始まりで、

彼は仲間ではなくなった。

上司ではなくなった。

彼は、

にとっては唯一の――男。

 

 

‥‥」

呼びかけに、頭がぼうっとする。

名前を呼ばれただけだっていうのに、思考が蕩けていく気がした。

 

すき

 

唐突に意識した瞬間、どうしようもない愛しさが溢れてくる。

すきだと、

この人がすきだと。

狂おしいほどの想いに、言葉が勝手に溢れそうになる。

 

でも――

 

「‥‥」

 

夢見心地だったそれを、現実へと無理矢理引き戻す。

甘い色を湛えていた瞳に、一瞬、悲しそうな色が浮かんだ。

 

そんな事を口に出来るはずがなかった。

 

何故なら、彼は‥‥

いや、自分たち、戦いの最中に生きているのだ。

平穏な生活を送っているわけではない。

いつ死ぬか分からないと言う危険な毎日の中にある。

 

その中で想いを告げてどうなる?

 

二人で幸せに‥‥なんてなれるはずがない。

恋愛にかまけている時間などないのだ。

 

それに、

は苦しげに眉を寄せた。

 

もし、例えばその言葉を口にして。

彼の態度が変わったら?

お互いにぎすぎすしてしまったら?

この、気安い関係が崩れてしまったら‥‥

 

「‥‥」

 

緩く、頭を振った。

目眩がした。

考えただけで指先が冷えていった。

 

――この居心地のいい場所を‥‥失いたくない――

 

「‥‥」

そっと、胸を押される感覚に土方は背中に回していた手から力を抜く。

そうすると、は僅かに身体を離した。

細い息を零して、尾を引く感情を、胸の内に押し込める。

そうして、

「‥‥土方さん。」

はいつもの笑みを浮かべる。

にこりと彼を見上げて、何でもない顔を装って、言った。

 

「ありがとうございます。」

 

感情を殺す事など、造作もないことなのに。

何故か、

じりりと胸が痛んだ――