「おいおい、なんだ?」

「慌ただしいな。」

永倉と原田が顔を出す。

そうすれば、走ってくると、土方の姿を見つけた。

「あれ?‥‥寝込んでたんじゃねえのか?」

「っていうか‥‥何してんだ?あいつら。」

おいかけっこか?

と暢気そうに二人は首を捻る。

 

やだ、どうしてとは走りながら思う。

何故彼は追いかけてくるのだろう。

いや、そりゃ寝込んでた自分が起きて動き回って‥‥しかも逃げ出したら追いかけるか。

追いかけるよな。

は自問自答をしながらばたばたと廊下を走った。

「待て、止まれっ!」

土方の声が後ろから飛んでくる。

その足音や声に、誰もがなんだなんだと顔を出した。

「あっれー、?」

そのうち羅刹隊の人間も起こしてしまったらしい。

藤堂が寝ぼけ眼で顔を出した。

山南も煩そうな顔でこちらを見て、僅かに眉間に皺を寄せていた。

おまけに、

「副長??」

仕事中だったのか、両手に荷物を抱えた斎藤まで出てきて自分たちを驚きの表情で見ている。

 

大集合だ。

 

ああもう。

は思う。

黙って出ていくはずだったのにどうしてこう騒ぎが大きくなるんだろう。

もしかしたら呪われているのか?

そういう運命の元に生まれてきたというのか?

まさかそんな。

 

「止まれ!止まれっつってんだろ!」

今度は怒鳴り声だ。

誰が止まれるものかとは思う。

ばたばたばたと決して長くはないはずの廊下を走り回った。

ぐるりと邸を囲むように続く廊下だ。

そのうち、一周するんじゃないかとは思った。

 

ふと、は気付いてしまった。

土方の足音は近付く事もなく、遠ざかることもない。

ただ、その呼吸が段々と荒いものになっていた。

まさかこれくらいで息切れを起こしたというのだろうか‥‥と思ったが、それよりも大事な事に気付いた。

土方は‥‥羅刹になったのだ。

そう、そして今は昼間。

 

それにさっき見た彼の顔は確かに青かった。

そうだ。

彼は、昼も夜も動き続けていると思い出した。

江戸にやってきてからずっと‥‥働きづめだと。

 

「うっ!」

唐突に苦しげな声が聞こえた。

振り返れば、彼は口元を押さえて眉根を寄せている。

「土方さん!」

身体がぐらりと傾ぎ、前のめりに倒れ込む。

――倒れる。

思ったときには身体が動いた。

 

は走っていた。

 

身体が床にたたきつけられる前に、手を伸ばして、

 

どさ、

 

と重みが身体にのしかかる。

腕の中には男の重み。

どうにか彼を受け止める事が出来、はほうっとため息を零した。

しかし、

 

ぎゅ、

 

「ようやく捕まえた。」

 

そんな言葉と、背中を抱く手にぎょっとする。

見れば、土方はしたり顔でこちらを見ていて‥‥

 

「い、今の芝居?」

 

にやり。

と口元に浮かんだ笑みには口元を引きつらせた。

苦しげに倒れ込んだのは、を捕らえる為の芝居だったというのだろうか‥‥

「卑怯な。」

呻いたが、彼はしれっとした顔だ。

いやそれでもやはり、顔色は悪い。

具合が悪いのは本当の事のようだ。

「‥‥」

一応、無駄とは思いつつもその腕から逃れようとしてみた。

勿論男の腕はびくともしない。

 

「なんで逃げる。」

「‥‥土方さんがすごい形相で追いかけてくるからです。」

は視線を逸らしながら、むすっとした声で答える。

まさに鬼に追いかけられた気分だ、と言うと土方は眉間に皺を刻んだ。

「おまえが逃げたからだろうが。」

「逃げられたら追いかけるんですか?」

「それが男の性ってもんだ。」

 

どんな性だ。

は心の中で呟いた。

しかし、突っ込む前に土方の真面目な声が降ってきた。

 

「ここから‥‥出ていくつもりだったのか?」

土方は見事にの気持ちを言い当てる。

察しがいい、というのは本当に厄介だ。

「なんで揃いも揃ってここを出ることを考えるんだ。」

土方は一人呻く。

千鶴とは、あれほど違う性格をしていながら、よく似ている‥‥と思う。

自分の事を省みず、他人のために自分を犠牲にするところなんかそっくりだと。

それは決して褒められることじゃない。

土方は一度、ため息を零した。

 

「‥‥脱走は、切腹だぞ。」

「見逃してください。」

「出来るか。阿呆。」

「‥‥前に‥‥私が抜けたいって言ったとしたら、見逃すって言ってくれたじゃないですか。」

古い話だが、彼が言ったことだ。

それを持ち出すと彼はこともなげにあっさりと、

「そんな約束は忘れた。」

と言ってのける。

卑怯な。

もう一度は心の中で呟いた。

 

いや実際は‥‥彼も覚えているだろうし、そうしてやるつもりはあるのだろう。

がもし本気で新選組を抜けたいと思うのならば、見逃してやると。

何があっても抜けさせてやると思っている。

だが‥‥

これは違うと土方は思った。

彼女は抜けたいのではない。

戦うことを止めたのではなく‥‥そう、

 

「一人で‥‥戦うつもりか?」

 

それはきっと、の出自に関わる事なのだろう。

彼女が、

 

「私‥‥鬼だから。」

 

だから、一緒にいられない。

と彼女は答えた。

 

鬼。

鬼は化け物。

人とは違う存在だ。

 

ああやはりと土方は心の中で呟いた。

でもそれを言うなら――

「んな事言ったら俺は羅刹だぞ。」

何を言うと言いたげな言葉。

自分だって化け物だ。

刀傷や銃弾を受けても、すぐに治る化け物。

そして、いずれ血に狂い見境無く人を襲う‥‥正真正銘の化け物だ。

そう答えるが、は首を振った。

「土方さんは‥‥生まれは人だもん。」

「‥‥」

「私は、生まれから人と違う。」

鬼。

生まれた時から化け物なのだ。

身のうちを流れる血は、化け物のそれなのだ。

一見普通に見えても、でも、自分の中には化け物と呼ばれるものが確かにあるのを知っている。

 

かつて「静姫」と呼ばれた鬼姫であった自分。

自分が何をしたのか、朧気ではあるが思い出した。

まだ10にもならない子供であった自分は、人間を‥‥数十人殺した。

 

いや、それだけじゃなく、自分は‥‥

 

同胞さえも手に掛けた。

 

憎しみに駆られて生きているものを全て壊そうとした。

林の中、一人彷徨っていた自分は‥‥

きっと壊せるものを探していたんだろう。

自分たちの敵だけではなく、

なんの関係もない人間でさえも、手に掛けるつもりだった。

 

壊して壊し尽くして、

ただそれだけを考えていた。

 

そんなの、

自我のない、ただの化け物だ。

 

「きっと‥‥土方さんだって私の事を知ったら、軽蔑する。」

 

そんなの嫌だとは思った。

彼らを傷つけるのも嫌だけど、彼らに恐れられるのも嫌だ。

夢の中の彼らのように。

人殺しと、

化け物と、

罵り蔑まれ、恐れられるのは嫌だ。

 

他の人間達と同じような目でなんて、

見られたくない。

 

「だから‥‥」

が強く男の肩を押せば、

「っ!?」

ぐいと些か乱暴な手がの顎を掴んだ。

驚きに双眸を見開くと、すぐ傍に土方の‥‥美しい顔がある。

切れ長の瞳をつり上げ、真っ直ぐに自分だけを見つめている。

その瞳に怒りを湛えていた。

 

「ひじ‥‥」

「俺を、見くびるな。」

 

呻くような声がその唇から紡がれる。

怒りを孕むその瞳に縫い止められたように、視線を逸らすことが出来ない。

土方は琥珀の瞳の奥に、彼女の悲しみを、苦しみを、迷いを見た。

それをしかと受け止めながら、彼は思いを音に乗せた。

 

「そんな過去くらいで、てめえを放り出すような小せえ人間だとでも思ってんのか。」

が過去にどんなことをしていたのか。

どんな人間だったか。

土方は知らない。

彼が知っているのは、自分たちと一緒にいた、

という名の女の事だけだ。

もしかしたら、

彼女のことを何一つ理解していなかったのかもしれない。

でも、

 

「そんなことは関係ねえ。」

 

関係ないと土方は言った。

 

「てめえが過去にどんな事をしてようが‥‥どんな人間だろうが‥‥俺には関係ねえんだよ。」

 

自分が知っているという人が、どんな人間なのか‥‥

それだけで彼は十分だ。

という人は、

いつもふざけたことをして人を怒らせ、意地っ張りで頑固で、

だけど誰より正々堂々として、強く‥‥

優しい、女。

彼の知るという人間は、確かにそうだ。

 

――だからこそ、

黙ってはいられなかった。

 

「先日、私があなたに刃を向けたのをお忘れですか?」

声が震えないように、は腹に力を入れた。

わざと慇懃無礼に言えば、男の眉がぴくりと跳ね上がった。

は畳みかけるように言った。

 

「あなたの知るという人間は‥‥憎しみで、我を忘れるような人間なんです。」

 

憎しみに駆られ、

我を忘れ、

向かってくる人間の全てに刃を向けた。

 

そう、

 

「あなたに刃を向けたときのように。」

 

あの夜、

迷わず土方に斬りかかった時のように。

 

「敵味方の区別も分からなくなって、人を殺しまくる化け物だったとしても‥‥」

いつか、

彼らを殺してしまう時がくるかもしれない。

彼の大事な人を殺してしまうかもしれない。

 

それでも、

 

「あなたは私を許せるっていうんですか!?」

 

噛みつくような、

だけど、悲痛な叫びに男も――吠えた。

 

「なら、おまえがどんな罪を犯したのか話してみやがれ!!」

 

何も知らなければ何を咎めることもできない。

何も知らなければ何も許すことはできない。

 

男の鋭い声に、の瞳に一瞬、迷いの色が浮かんだ。

しかし、土方の真っ直ぐな瞳に負けじと、その色は挑発するようなそれに変えた。

 

「‥‥後悔しても、知りませんよ。」

 

手負いの獣のような。

触れる全てに牙を剥ける弱さに、土方は嗤う。

 

「出来るものならさせてみろ――

 

これではまるで、

喧嘩だ‥‥と彼らは思った。