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「‥‥あ‥‥」
ひどく頼りなげな声が口から漏れる。
ふわりと風が吹き、川面を揺らした。
いつの間にか雲は晴れ、月は姿を現している。
声は、もう、聞こえなかった。
ただ、
どくどくと、
心臓の音だけがやけに響いた。
喉の奥が乾く。
まるで干上がってしまったかのようだ。
は自分の手を見下ろして、自分が震えている事に気付いた。
今のは夢でもなんでもない。
静姫が見せたものは。
すべて。
人を殺したのは。
鬼を殺したのは。
すべて。
ホントウ――
「姉さん‥‥」
声が聞こえた。
あの時と同じ。
でも、あの時よりも少しだけ大人びた声。
「‥‥」
振り返れば、あどけない表情を浮かべたその人の姿。
「ちづ‥‥る?」
呼びかければ、その人はそっと首を振った。
「僕は、薫。」
薫。
ああ、そう。
千鶴の双子の兄。
そうだ、自分が守るべき存在。
そう、
守るべき、命。
「いたぞっ!!」
その背後で声が聞こえた。
はっと見遣れば、武器を手にした男の姿があった。
彼らは鉄砲を持ち、薫へと狙いを定めている。
「貴様っ、よくも我らを謀ったな!」
それはいつか彼に利用された御陵衛士の残党だ。
まだ残っていたのかと面倒そうな顔で薫は彼らを見る。
「まったく、人間って面倒くさいよね。
何人殺しても後から後から湧いてくる。」
まるで虫みたいだと彼が笑えば、男はぎりりと奥歯を噛みしめ、
「くそっ!!」
ばぁん!!
銃口から火が噴いた。
それはちっと、薫の頬を掠める。
赤が、
散った。
「‥‥」
傷をつけられとしても、彼らは鬼。
そんな傷などすぐに塞がる。
だけど、
どくんと、血が煮えたぎる感覚に襲われる。
また。
まただ。
あの時と同じ。
また、
「人間が‥‥」
吐き捨てる薫の声に、のそれが重なる。
人間が。
侮蔑と怒りの色を湛えたその声は、のそれよりももっと低く、そして艶めいた声だった。
人間という生き物はどうしてこうも愚かしいのだろう。
大した力も持たぬくせに。
人の大切なものを武力で奪い、我が物顔で歩くのだ。
力も持たぬくせに。
虫けらほどの力しか持たぬくせに。
大切なものを‥‥踏みにじる。
すらりとが刃を抜く。
青白い月光があたりを照らした。
ああ、
と薫が歓喜の声を上げるのをは聞いた。
さらりと零れる髪は、
白銀。
そして、
怒りに染まるその瞳は、
神々しい、
黄金色。
「殺してやる――」
人など。
愚かな人間など。
生きている価値もないと、その人は叫んだ。
言葉に応えるように、
激しい雨を大地に叩きつけた――
銃声が聞こえた瞬間、土方は走った。
まさかそんなはずはと思ったが、その人が邸の中にいない今、最悪の事態だって考えられる。
土方は一人走った。
ここ数日の疲労に身体はあちこちガタが来ている。
おまけに突如降り出した雨で大地はぬかるみ、見る見るうちに衣を濡らしていく。
身体が重たかった。
それでも、
走った。
激しい雨は一瞬で過ぎ去る。
その後を追いかけるように、江戸の通りを走り、
やがて、
見つけた。
「‥‥‥‥?」
ざんと、美しい一振り。
まるで風のように舞い、一太刀の内に敵を斬り伏せる。
ひらりと衣が闇に舞った。
ふわりと、髪が夜空に舞う。
羅刹を思わせる白銀。
しかし、
その瞳は。
「‥‥」
は走り、一人、二人と屠っていく。
鮮やかな剣戟に、思わず、土方は息を飲んだ。
やがて、一呼吸の元に、男達は動かなくなる。
ぱた。
との刃から血が滴った。
転がる死体を見る目は‥‥恐ろしいほど冷たい色を湛えていた。
まるで、別人のようだと土方は思った。
「‥‥‥‥」
小さく名を呼んだ。
すると、彼女はゆったりとした動作でこちらを見る。
輝かしい金色に、一瞬目を奪われた。
無感情なそれは、土方を捕らえると、
「‥‥」
刃を一閃させた。
「っ!?」
ぎぃん!!
咄嗟に応戦し、刃を受け止める。
それは驚くほどの力だった。
びり、と腕が痺れた。
と刃を打ち合わせたのは数回しかないが、明らかにそれは彼女の力ではないと分かった。
人ではない力だ。
そう、それはの中の、鬼の力。
「!!」
土方は声を張り上げて呼んだ。
ここにはいない。
彼女を呼ぶように。
そうすれば、傍にいた薫がくくくと喉を震わせて笑った。
「なんて名前で呼ばないでよ。
その人は僕の愛しい姉さんなんだから。」
口元を歪ませ、彼は嬉しそうに笑う。
千鶴と同じ顔で、だけど全く違う顔で笑う彼に、言いしれぬ気味の悪さを感じた。
いや、彼に気を取られている場合ではない。
土方はへと向き直った。
「っ!しっかりしろ!っ!!」
何度も呼びながら、ぎんっと刃を弾いた。
瞬間、彼女の身体は大きく後ろに後退する。
それを見逃さず、土方は距離を詰めて、彼女の刃を持つ手を取った。
強く捻れば、
からんと、
その手から刃は落ちた。
しかし、の瞳には正気は戻らない。
「殺してやる‥‥」
彼女の口から低く、暗い声が漏れた。
憎しみ、怒り、悲しみ。
全てを言葉に詰め込み、は言う。
「殺してやる‥‥」
言葉に呼応するように、
彼女の中から鬼の力があふれ出す。
男には到底敵わないはずの力も、いつしか押されて土方は目を見開いた。
「っ‥‥っ!?」
やがては彼女の額に現れたものに、彼は声を失う。
角だ。
それは明らかに、
人ではない存在のもの。
鬼の――角。
「殺して、やる‥‥」
角を生やした鬼は、まるでそれしか言葉を知らぬように続けた。
駄目だ、このままでは‥‥
「っ」
「ねえ、気安く触らないでくれない?」
正気に戻らせるべく名を再び呼ぶのを、薫が煩わしげな声で遮った。
そして、
「っ!?」
ざんっと、背後から斬りつけられ、慌てて横に飛ぶ。
掴んでいた手を離し、刃を受け止めた。
ぎんっと嫌な音を立て刃がぶつかる。
恐ろしいほど千鶴とそっくりな彼は、不快そうに眉を寄せて、しかし笑っていた。
「僕の姉さんなんだからさ。」
なんて名前じゃないよ。
と言って、薫は力任せに刃を押し流す。
彼の力量はすぐに分かった。
それほど強くない。
あの、風間とかいう男から比べると格段に劣るし、土方でも簡単に斬り殺せる相手だ。
なんと言うこともない敵のはずだった。
しかし、
土方は疲弊していた。
羅刹になってもなお、昼間に動き、
きっと常人であればすぐに身体を壊すであろう多忙の日々が続いていた。
おまけに病人怪我人を抱えて気の休まることもなく、それを誤魔化すために仕事に没頭していた。
ここ数日、ろくに寝ていない。
おまけにが突然姿を消したということで、半ば冷静さを欠いていたのだろう。
「っ!?」
ずる、と背後についた足が滑った。
草を濡らす血に足を取られたのだ。
しまったと思ったときには身体の均衡は崩れ、薫の刀が振り下ろされるところで。
「死ねぇえ!!」
月夜に輝く月光を、ぼんやりと彼女は見つめていた。
『死ねぇえ!』
狂気じみた声が聞こえる。
あれは誰の声だろう?
薄い膜を張った視界に、二人の姿が映っていた。
子供と、男。
狂気の笑みを浮かべる子供が、刃を振り下ろそうとしている。
それを見ているもう一人は、双眸を見開いていた。
あの男は死ぬな。
とどこかぼんやりと思った。
あれではきっと首を刎ねられて死ぬ。
殺すのが勿体ない、綺麗な男だ。
しかし、
死ぬ。
きっと男も諦めたに違いない――
その紫紺の瞳に、きっと、絶望の色が浮かぶに‥‥
「――」
――その瞳に浮かんだのは絶望でも、驚きでも、諦めの色でもなかった。
紫紺の瞳は刃を振り下ろされよとしてもなお、
力強い光を浮かべていた。
怯むどころか、睨み付けるようなそれで、薫を見つめている。
彼の瞳は、
諦めてなどいなかった。
絶望的な状況にかかわらず、
諦めもせず、
真っ直ぐな瞳を敵へと向けていた。
それはいっそ、潔いまでの眼差しだった。
ああ、あの瞳‥‥
私は知っている。
いつだっただろう?
あの瞳を見たのは。
知るはずがない男なのに。
あの瞳は見たことがある。
あの瞳は、
あの、瞳は、
――私の、好きな目――
「‥‥な、んで‥‥?」
世界が一瞬にして変わった。
からんと固い音を立てて刀が転がる。
一体何が起きたのか分からないという顔で、薫は自分の刃を弾いたその人物を見つめていた。
黒光りする鞘を投げた、その人物を。
「‥‥」
乾いた土方の呼びかけに、彼女は応えない。
ただ、ぼんやりと立ちつくしたままだ。
「どうして、姉さん。」
どうして邪魔をするの?
と薫は言いながら近付いてきた。
一歩、二歩と近付くに従って、は地面から己の刀を拾い上げ、構える。
薫に向かって。
「どう‥‥」
「‥‥‥」
「姉さん‥‥」
「‥‥」
呼びかけに応えはない。
彼女は唇を引き結んだまま、強い光を湛えた瞳を薫へと向けていた。
それは‥‥明らかな拒絶だった。
「どうして‥‥」
力無い足取りで薫は彼女へと距離を詰めようとした。
それを遮るように、
ぴいいいい――
甲高い音と、複数の足音が聞こえてきた。
「っ!」
薫は弾かれたように振り返り、ちっと舌打ちを一つする。
それからもう一度だけを見ると、
「姉さん‥‥」
もう一度、名を呼んだ。
やっぱり、応えはなく‥‥薫は悔しそうに顔を歪めて、
「っ!」
やがて踵を返すと薄暗い闇の中へと消えていった。
足音が次第に大きくなってくる。
土方は我に返ると、慌てて刀を収めての元へと走った。
「見咎められたら色々と面倒だ。」
ここは逃げるぞ、と言って彼女の手首を掴んだ。
正気に戻ったとその瞳を見て知った。
しかし、
「?」
彼女は動こうとしなかった。
。
その名前がの中をゆっくりと浸透していく。
まるで、自分を覆う黒い何かを溶かしていくように。
頭のてっぺんから足先まで浸透して、
ああ、それは自分の名前だったと思い出す。
大好きな人が、
つけてくれた、大事な名前。
「‥‥」
だけど‥‥
澄み切った琥珀の瞳をそっと細めた。
泣き出しそうな顔で、土方は息を飲む。
は泣かなかった。
ただ、それよりももっと苦しげな顔で、
嗤った。
「‥‥」
「‥‥見られ、ちゃった‥‥」
口調はまるで悪戯が見つかった子供のように。
彼女は見つかったと呟いた。
「‥‥醜いです、ね‥‥」
彼女は視線と落としたままだ。
大地には先ほど降った雨で出来た水たまりがあった。
そこに、彼女の姿は映し出された。
白い髪と、金色の目。
そして、
頭に映えた、角。
人ではない、ものの姿。
化け物の。
姿。
「醜い‥‥」
それが、
今の自分の姿。
「なんて‥‥醜い‥‥」
彼女は、嘲笑を浮かべた。
何が優れた生き物だ。
こんなの‥‥ただの、化け物だ。
全然美しくもない。
ゆらりと風が水面を揺らす。
映り込んだ化け物も、ぐにゃぐにゃと揺れて原型を留めなくなった。
それでも、
醜い姿は変わらない。
「これが‥‥私‥‥」
自分の本当の姿。
人とは違う、醜い、姿。
これが本当の自分だ。
「‥‥」
いつものように名を呼ぶ彼に、はゆっくりと首を振った。
違う。
もう、
こんなの『』じゃない。
これは、もう、彼らの知る自分ではない。
そう、
自分は、
醜い化け物だ。
『化け物』
耳の奥で蔑む人間の声が聞こえた。
「見られたく‥‥なかった‥‥」
まるで夢の中にいるかのように、意識がぼやけてくる。
それでもは告げずにはいられなかった。
「‥‥見られたくなかった。」
そっと、瞳を閉じる。
「あなたに‥‥だけは‥‥」
見られたくなかった‥‥
静かな声は、
悲痛な叫びにも似ていた――

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