今日も今日とて。

あまり嬉しい話は無かった。

土方がため息をつきつつ、邸へと戻ると、

ばたばたばた。

邸の中が慌ただしい事に気付いた。

 

慌ただしげな足音が聞こえ、

「いたか?」

「いない」

「どこだ?」

「あっちか」

となんだか人々の忙しないやりとりが聞こえてきた。

 

なんだと思って彼は近くを通りかかった原田を捕まえて、

「何があった?」

と訊ねる。

まさか千鶴が本当に出ていったのかと心配すれば、彼は意外にも別の人物の名を挙げた。

 

「その‥‥のヤツが‥‥」

 

 

 

月の美しい夜だ。

は一人、川縁に腰を下ろして月を見上げた。

 

夜風は少し、冷たい。

 

羽織を持ってこなかった事に少し後悔をしながら、それでも戻る気にはなれず、その場にぼんやりと座っていた。

 

江戸の市中とはいえ‥‥

ひっそりと静まりかえっていた。

まあ、世間では戦だ、幕府だ、長州だとなにかと物騒になっている。

おまけにここ最近では江戸の市中で辻斬り事件もあって‥‥人々は恐れて外には出ない。

詳しくは知らないが、ただ、異様にぎすぎすした空気だとは思った。

 

さあと風が吹き、闇色に染まった川の水面を揺らした。

 

ふと、は仲間の事を思う。

「今頃‥‥探してるかな?」

様子を見に来た斎藤あたりがもぬけの殻になった布団を見て、屋敷内を探し回っていることだろう。

まあ、昨夜までは目を覚まさなかった彼女が忽然と姿を消したら大騒動になるだろう。

もしかしたら邸の人間全員巻き込んで探し回っていたりして、とは思って、笑う。

そんなに心配しなくてもは重症ではない。

出歩いても平気なくらいに傷は回復している。

いや、むしろ完治しているのだ。

 

多分‥‥

 

は自分の胸元を押さえて、思う。

 

土方は知っただろう。

 

自分の正体を。

 

その人の目の前で傷口は塞がった。

あの時の驚いた彼の瞳を、はまだ覚えている。

彼は知った。

 

が、人ではないと。

が、

鬼であると。

 

「それでも‥‥心配するんだろうな。」

あの人は。

は笑った。

千鶴が鬼だと知っても態度は全く変わらなかった。

まあ、山南や、沖田、藤堂が羅刹になった時だってさして態度は変えなかった人間だ。

彼にとっては鬼であろうが、羅刹であろうが、人であろうが関係ないのだろう。

それでも、やっぱり心配するんだ。

あの人は優しいから。

 

「人のこと‥‥気にしてる場合じゃないだろうに。」

 

彼だって、

羅刹になった。

それが今彼にどのような影響を及ぼしているのかは分からない。

でも、自分よりももっと、大変なはずだ。

羅刹になった事だけじゃなく‥‥今の新選組の状況にも頭を悩ませている。

 

彼に負担を掛けるつもりはなかった。

ただ、

ちょっと、

一人になりたかったのだ。

 

一人になって、

考えることがあった。

いや、違う。

一人になれば‥‥

それが、姿を見せると思った。

 

ふわりと、

風が揺れた。

月が、雲に隠れた。

その人はまるで闇から這い出るように、

 

――ようやく、受け入れる気になったか?

 

姿を見せた。

 

それは声だけの存在。

自分の中に住む、もう一人の自分。

 

かつて、風間と戦った時に自分の身体を操った、もう一人の自分。

 

そう、

 

それは、

かつて、鬼と呼ばれていた頃の自分の断片。

 

「雪村‥‥静姫。」

 

呼びかけに、声は薄らと笑った。

 

――それは正解であって、正解ではない。

 

声は答えた。

 

「じゃあ、何という?」

己で己に問いかけるなどというのは、なんとも滑稽な姿だと思う。

それはもしかしたら幻聴なんじゃないかと思った事もあった。

だけど、感じるのだ。

自分の中に確かに、もう一つの自分がいること。

 

――私の名前は、雪村‥‥

 

「‥‥」

 

――雪村 静香。

 

おまえの本当の名だ、と彼女は言った。

 

静香。

 

あまり自分にはしっくり来ない名前だと思った。

 

――そう言うな、私にとってはという名の方がしっくりこないよ。

 

くすくすと声は艶やかに笑う。

もしかしたら、本当の自分はもっと女らしい人間なのかもしれない。

それも不思議なものだ。

 

――もっとも、この名を知っているのは二人だけで‥‥

 

少し、声が沈んだ。

 

――もう、この世にはいない。

 

死んだのかと聞かずとも分かった。

声はすぐにいつもの調子を取り戻して、

 

――だから、静姫と呼んでくれて構わないよ。

 

と言う。

は言葉に応えず、代わりに質問を口にした。

 

「私は‥‥何者だ?」

 

――鬼の姫。

 

雪村の、強い血を引く鬼の姫だよ、と声は答えた。

 

優れた戦闘能力と、優れた治癒能力を持つ、素晴らしい生き物なのだと。

 

「‥‥」

――信じない‥‥というわけではないだろう?

「信じてる。」

いや、受け入れざるを得ないじゃないか。

その能力を見てしまったら。

人と違うことに気付いてしまったら。

認めざるを得ない。

 

「私は‥‥千鶴ちゃんや薫の姉?」

――彼らは、父の‥‥弟の子だ。

本当の姉ではないが、血のつながりはある、と声は答える。

だが、本当の姉妹のように育った。

「そう。」

それじゃあ、千鶴に対して‥‥その昔、知っていると思ったのは気のせいではないわけだ。

実際知っていた。

面識があった。

懐かしいと思うのは当然だ。

 

はため息を一つ零して、それじゃあと訊ねた。

 

「どうして、私は里を出た?」

 

どうして、

里を出て、一人、当て所無く彷徨っていた?

 

訊ねると、声は一瞬、笑った。

それは、嘲りの響きを滲ませていた。

――それは‥‥

「‥‥」

――その目で、確かめるといい。

 

やがて、小さな声と共に、ざあと音が聞こえた。

 

目を閉じたの脳裏に、夜の空が浮かんだ。

 

 

見覚えのない場所だった。

静かな、いつもと同じ夜だったはずだ。

 

それが、

父親の悲鳴で、

全てが変わった。

 

『静姫、これはっ‥‥』

『これはアイツが悪い!アイツが悪いんだ!』

『俺たちは悪くない!』

『全部アイツがっ‥‥』

 

醜い大人の声がこだまする。

流れる赤を見つめながら、はただ、身体を震わせた。

 

『してやる‥‥』

 

目の前が、

赤く、

赤く、

 

染まった。

 

『殺してやる!!』

 

悲鳴じみた声に、一瞬、世界が真っ赤に染まった。

 

 

血と。

悲鳴。

あまい、におい。

 

 

気がつくと、は死体の中に立っていた。

里の中には、いくつもの死体が転がっていた。

人の死体。

鬼の死体。

自分の知らない人。

よく知る人。

 

男も、女も、子供も、老人も。

死んでいた。

 

その半分は、人が殺した。

だけど、

その半分は、

自分が殺した。

 

人を殺した。

人だけじゃない、自分の同胞まで殺した。

 

憎しみに駆られて全てを殺した。

 

全て、

壊れてしまえばいいと思った。

 

人も鬼も。

全ての命。

 

だけど、

立ちつくす自分の耳に、

 

「しずき、ねえさま‥‥」

 

あどけない声が聞こえた。

 

振り返れば、そこに、少女がいた。

血に染まる自分を見て、

彼女は怯えた顔で自分を呼んだ。

 

他と同じ目。

汚らわしい鬼共と同じ目だ。

 

まだ、

残ってた。

 

は思った。

 

殺さなければと思った。

全て終わらさなければと。

 

同時にカナシイ――と心のどこかで思ったのを、振り切る。

 

振り切って、一歩を踏み出した。

 

からん、

 

しかし、歩き出したその手から刃がこぼれ落ちた。

拾い上げようとしたが、指先が震えてうまく拾うことが出来なかった。

からん、からんと転がる刃は、まるで嫌がっているようだった。

斬るのを――

 

「‥‥」

 

その瞬間、少女は走り出した。

背を向けて一目散に逃げ出すのだろうと思いきや、

 

「‥‥っ」

 

こちらへと駆け寄ってきた。

そして、

 

「ねえさま、どこか怪我をしたの!?」

今にも泣きそうな顔で、彼女は訊ねた。

血に濡れる自分を見て。

彼女は、恐れた。

だけど殺されることではなく‥‥

自分が‥‥大好きな姉上が、怪我をしているのではないかと、恐れたのだ。

 

「まって、わたしがいまっ‥‥」

 

手拭いを出して、一番血がこびり付いている彼女の手を縛った。

怪我なんかしていない。

それは、返り血だ。

それに気付かず、少女は手当を施そうとしている。

 

愚かだと思った。

 

自分たちは鬼で‥‥傷などすぐに塞がるというのに。

否、それよりも愚かだとおもったのは、

少女が知らないことだ。

 

目の前の鬼が――

 

自分を殺そうとしている事に。

 

否、

違う。

 

何より愚かなのは、

 

「‥‥‥」

 

瞬間、

の目に一度、正気が戻る。

 

――自分の方だ。

 

殺してはいけない。

この子は壊してはいけない。

他とは違うんだ。

汚らわしい鬼とは違うんだ。

この子は‥‥

守らなくちゃいけない。

 

「‥‥ち‥‥づ‥‥」

 

赤い手を伸ばして少女を抱きしめようとする。

しかし、その手が彼女に届くより前に、

 

『いたぞ!!』

 

人間の声が響いた。

抜き身の刃を手に、彼らはこちらへと駆けてきた。

 

『死ねぇっ!!』

 

迷わず、

人間は小さな子供に手を掛けようとした。

 

 

――人間――

コロス――

 

 

ぞくりとまるで内部から凍り付くような感覚が身体を支配し、

それからは、

血と、悲鳴だけが、

の世界の全てだった。