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相変わらず青白い顔で眠る沖田の傍ら、少女は真剣な眼差しで見つめていた。
少しでも呻けば、即座に彼女はその彼の手を取り、彼の痛みを少しでも和らげようと、優しく頬を撫でる。
痛みのせいで浮かぶ汗を、枕元においてある濡れた手拭いで何度も拭った。
そうしながら、千鶴は焼き付ける。
もう、傍にいられない、
男の姿を。
「土方さん‥‥私、新選組を離れようと思うんです。」
千鶴が彼にそう零したのは、江戸にやってきてから数日が経った頃。
毎日忙しく走り回っていた土方が、ようやく仕事に一区切りをつけ、彼の元を訪ねたときだった。
相変わらず青白い顔をしている沖田を見て、唇を噛みしめ、ただ一言、つきそう彼女に、
「総司を頼む」
と言って出ていこうとした彼を、千鶴は呼び止めた。
病人の横ではなんだからと縁側に出て、千鶴は自分の胸の内を明かした。
「私、新選組を離れようと思うんです。」
言葉に、土方は寝耳に水と言った感じだ。
目を見開き、やがて言葉を飲み込むと、眉根を寄せる。
「そいつぁ‥‥どういう事だ?」
千鶴を見る目はその真意を探ろうとするものだ。
「恩知らずだとは重々承知してます。」
何度も何度も助けて貰って、励ましてもらって、その一部さえも恩返しは出来ていない。
それなのにここを離れるだなんて恩知らずもいいところだと思う。
だけど、
と千鶴は口を開いた。
「私がここにいては‥‥皆さんのご迷惑になります。」
自分を狙う敵。
鬼の手から彼らを守るためには、そうするしかないと千鶴は思った。
自分が鬼であることは、彼らにはなんの関係もない。
それどころか、
兄妹間の事など、
なんの関係もない。
そのために彼らを巻き込むことは出来ないと思った。
例え、自分のせいで、沖田を羅刹にしたとしても。
彼の人生を変えた責任が自分にあるのだと分かっていても。
それでも、
「‥‥もうこれ以上、皆さんを傷つけたくありません。」
彼らを。
彼を。
自分のせいで傷つけたくないと思った。
今自分が新選組から離れれば、薫はきっと自分を追ってくる。
そうすれば、彼らに迷惑は掛からない。
ただでさえ大変な状況だ。
余計な負担を掛ける必要などないと、千鶴は思った。
「‥‥‥」
土方はそう告げた千鶴の目を真っ直ぐに見た。
迷いのない真っ直ぐな瞳は、もう、決めてしまったのだろう。
ここを出ると。
一人で、
戦うと。
『駄目だ』
と言うことは簡単だった。
彼女が何を思ってそこを出ていこうとするのかなど分かっていた。
一人で外に出してもみすみす殺されに行くようなものだ。
だから
『駄目だ』
と言う方が、彼女の為でもある。
しかし‥‥
土方は緩く首を振った。
そう言って引き留めたとて、彼女はこの先苦しむだけだ。
自分のせいで皆を‥‥いや、沖田を苦しめていると、己を責め、苦しみ、傷つくだけ。
そんなことはない。
そんなこと気にするな。
そう言ってやるのは簡単だけど‥‥でも、
それは、
「俺の役目じゃ、ねえ。」
一人呟き、土方は視線を上げた。
「‥‥いつだ?」
小さな声で訊ねる。
いつ、ここを発つつもりだと。
そうすると千鶴は一瞬視線を落として、
「明日にでも。」
と答えた。
明日、か。
土方は口の中で一度呟いた。
明日までに彼は目を覚ます可能性は低い。
そうすれば、理由さえ知らぬまま別れることとなるのだろう。
それは悲しいことだと土方は思った。
どちらにとっても。
悲しいことだと。
「‥‥それまでは、あいつの傍にいてやれ。」
土方はぽんと、千鶴の小さな頭に手を置くと、いつもよりも優しい声で言って‥‥
静かにその場を後にした。
千鶴はそっと慈しむように前髪を掻き上げた。
固い、癖のある髪。
それを優しく梳きながら、千鶴はぼんやりと今までの事を思いだしてみた。
思い返せば‥‥
彼とは最悪な出会い方をした気がする。
血に狂った羅刹に殺されそうになり、助けられたかと思えば突然、囚われの身となった。
彼は千鶴の事を何度も殺すと言って脅して、その度に彼女の反応を見て笑っていた。
思いっきり突き放されたりもした。
自分の甘さを痛感した時もあった。
仲間じゃないという事実を突きつけられ、悲しくなった事もあった。
だけど、
その優しさにも触れた。
もしかしたらそんなつもりはないのかもしれないけれど‥‥
千鶴は彼の優しさに触れた気がした。
泣きたくなるくらいの優しさに。
何度も何度も助けて貰った。
彼の強さに、
言葉に、
何度も千鶴は助けられた。
そうして、
いつの間にか彼が好きになっていた。
気がついた時にはもう既に落ちていた。
叶わぬ想いだと分かっていても、傍にいたいと思った。
自分が与えてもらったように、
彼を支えたい。
彼の助けになりたいと。
だけど‥‥
千鶴の口からか細い息が漏れた。
ひゅと風を切るようなそれで、自分が嗚咽を漏らしたのだと分かった。
もう、
傍に、
いられない。
彼の傍にいられない。
どれほどに好きでも、もう彼の傍にいられない。
いてはいけない。
彼を苦しめる。
傷つける。
だから、離れるべきだ。
そう思っても、溢れる想いが千鶴を迷わせた。
願うならばこの先、彼が許してくれるまで傍にいたいと思うけど。
でも、
「‥‥」
千鶴はぎゅっと奥歯を噛みしめた。
瞼を閉じれば、瞳から滴がこぼれ落ちた。
――さようなら、沖田さん。
想いを断ち切るように、
心の中で別れを告げた。
「誰に――泣かされたの?」
声が聞こえた。
少し、苦しげな声。
だけど、その声は確かに彼のもので、
「っ!?」
千鶴はばちりと目を開けた。
先ほどまで確かに閉じられていた瞳が、こちらを向いていた。
少し苦しげに歪められるが、彼は、こちらを見て、笑っていた。
「沖田‥‥さん‥‥」
「もしかして、土方さんに苛められた?」
それじゃあ、仕返ししなくちゃねと、くすくすと笑いながら彼は身を起こす。
「駄目です!
まだ傷がっ」
慌てて彼を止めようとするが、沖田は制止を聞かなかった。
苦しげな声を漏らしながら上体を起こすと、ふぅと一つ息をついて、千鶴を真っ直ぐに見た。
「ねえ、どうして泣いてたの?」
彼は問う。
涙を浮かべる千鶴を真っ直ぐに見て。
涙の理由を。
「‥‥そ、れは‥‥」
その真っ直ぐさに耐えきれず、千鶴は視線を逸らした。
伏せられた瞳を追いかけるように、沖田は畳に手をついて、その顔を覗き込む。
「もしかして‥‥ここを出ていこうとした?」
「っ!?」
言葉に千鶴の目が見開かれる。
ああほんとうに、正直な子だ‥‥と沖田は思った。
正直すぎて哀れになるほどだと。
しかし、そんなことは鎌をかけずとも分かった。
千鶴の性格を考えれば、その答えが出ると。
「僕がこうなったのは自分のせいだって思ったんだよね?」
沖田が傷つき、苦しんでいるのは自分のせいだ、と。
「それで、これ以上みんなに迷惑を掛けないために出ていくしかないって‥‥思ったんだよね?」
ただの一人で、ここを出て。
一人で戦おうと、思ったのだろうと。
千鶴は唇を噛んだ。
涙に濡れた瞳がくしゃりと歪む。
彼女は沖田の視線から逃れるように、また視線を落とした。
「お願いです‥‥行かせてください。」
千鶴は言った。
「恩知らずなのは分かってます。
でも‥‥」
私はここにいるべきじゃないと千鶴は言った。
ぎゅっと膝の上で握られる手を見つめながら、沖田は問いかけた。
「一人で‥‥薫と戦えると思ってるの?」
「‥‥私‥‥」
「無理だよね?君は戦えない。」
「でも‥‥」
「一人で出ても殺されて終わるだけだよ。」
「それでも‥‥」
畳みかけるような彼の言葉は、正しい。
でも、それでもと千鶴は思った。
彼が、
沖田が死ぬところは見たくない。
自分が死ぬ方がまだマシだと。
だから。
「わたしっ‥‥」
「行かせないよ――」
強い声が遮った。
と同時に、
強い力が、千鶴を引き寄せた。
「っ!?」
気がつくと、千鶴は彼の腕の中にいた。
ふわりと薬のにおいと、それから男の汗のにおいを感じた。
背中に大きな手。
すぐそばに、彼の広い胸。
沖田に抱きしめられているのだと気付くと、千鶴の思考は、止まった。
何故。
と彼女は思った。
どうして抱きしめられているのだろうと。
こんなに、強く、
こんなに、
優しく、
「‥‥行かせないよ。」
沖田は腕の中の少女の温もりに、ほっと安堵のため息を漏らした。
どうしてだか分からない。
ただ、
自分の腕の中に彼女の温もりがあることが‥‥すごく安心した。
「だ、駄目です‥‥沖田さん。」
震えた声が聞こえる。
自分を押しのけようとする力に、沖田は首を振った。
「駄目じゃないよ、僕が決めたんだから。」
どういう決まりだ、と千鶴は思う。
自分が決めたのだからそれに従うべきだと彼は言った。
「行かせない。
君は僕の傍にいるべきだよ。」
と彼は言った。
「たとえ土方さんが君を追い出すって言っても駄目。」
駄目なんだと。
「君は、僕と一緒にいるべきなんだ。」
と。
そう言ってもらえて千鶴は泣きそうなほど嬉しかった。
ここにいてもいい。
彼の傍にいてもいいと言われるのは嬉しかった。
でもそれじゃ、
「また‥‥沖田さんが‥‥」
苦しむことになる。
傷つくことになる。
震えながら言葉を紡ぐ彼女に、沖田は優しい笑みを浮かべた。
「いいよ。
それでも。」
もし、彼女と一緒にいることで。
苦しむことになっても。
傷つくことになっても。
それでもいいと沖田は思う。
それよりも、
「君を放っておくことなんてできないでしょ。」
一人になんかしたら、
危なっかしくて、
とてもじゃないけど、療養なんてできやしない。
どこかで一人苦しんでるんじゃないか。
困ってるんじゃないか。
泣いてるんじゃないか。
そう思ったら、
いてもたってもいられないだろうと沖田は思った。
「沖田‥‥さっ‥‥」
ひっと彼女が嗚咽を漏らした。
どうしてこうも自分は弱いのだろうと千鶴は思う。
彼の傍にいることは、彼を傷つける事だと分かっているのに。
彼の手を離すことが出来ない。
彼の優しさに甘えてしまう。
どうして、こんなに弱いのだろうと、千鶴は思った。
でも、
「それでもいいよ」
と言うような彼の優しい抱擁に、千鶴の迷いは霧散した。
差し伸べられた大きな手に、彼女は縋った。
きゅうとその背にしがみつくと、嗚咽を上げて泣いた。
「君がいなくなったら‥‥
僕は怪我をおしてでも、探しに行くよ。」
それでもいいの?
と彼は茶化したように言う。
そうすれば、彼女はぎゅうと胸に押しつけた顔をぐりぐりと横に振った。
「だめ、ですっ」
と泣きながら答える彼女に、沖田はくすくすと笑う。
「それじゃあ‥‥」
彼は言って、小さな背をゆったりと撫でた。
「僕のそばに、いて」
願いを口にしながら、
彼は、
思う。
その小さな背を抱きながら、
傍にいてと願いながら、
この小さな少女を、
――誰が離すものかと――

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