人は鬼を恐れる。
人は、自分とは同じでない者を恐れる。
だから‥‥鬼は迫害された。
人とは同じではないから。
恐れられ、嫌われた。
人は弱いから。
自分とは違う者を恐れる。
彼らは知っている。
人の瞳が自分を見る目を。
それは、
恐れと軽蔑の色。
そんな色で見られるのは御免だと、は思った。

1
大坂城へと逃げ延びた新選組を待っていたのは、あまりに衝撃的な出来事だった。
彼らが守るべき将軍‥‥徳川慶喜は、戦っている幕軍を捨てて江戸へと逃げ帰ったという事実だった。
それを聞いたときの、土方の落胆と怒りの色を、は忘れない。
捨てられたのだ。
自分たちは、主に捨てられた。
その時、は知った。
もう、新選組が守るべき主というものは、この世に存在しないと。
慶喜公は‥‥もう負け犬だ。
彼らが守るべき、誇り高き武士などでは‥‥ないのだと。
それなのに、
何故、
彼らは戦わなければいけないのだろう?
何故、
彼らは苦しまなければいけないのだろう?
は薄れゆく意識の中、そんなことを思った。
江戸へやってきた彼らは、品川にある旗本専門の宿『釜屋』に身を寄せる事となった。
しかし、邸について、土方はゆっくりする暇を与えられる事はない。
鳥羽伏見の戦いで、沢山の兵が亡くなった。
井上もその一人だ。
悲しみに暮れる暇も与えてくれず、彼はあちこち奔走することとなった。
鳥羽伏見での負け戦、大坂城撤退。
おまけに幕軍の総大将たる慶喜公の恭順。
そしてなにより、
長州が、錦の旗を翳したことにより、彼ら新選組、そして旧幕府軍は官軍にたてつく敵と見なされる事となった。
立場が危うくなる中、今まで友好関係にあった藩主たちは一斉に掌を返した。
彼らは次第に、孤立するようになっていったのだ。
「‥‥今、帰った。」
疲れた声で告げ、土方は玄関へと上がる。
声を聞きつけて走ってきたのは島田だった。
「おかえりなさい。」
ご苦労様ですと労いの声を掛けられ、土方はああ、と少しばかり笑みを向けた。
「‥‥どうでしたか?」
「あんまり‥‥楽しい話はねえな。」
問いに彼は首を緩く振る。
幕臣の一人と話し合いの予定だったが、直前で断られたのだと彼は言う。
何日も何日も引き延ばされた結果がこれだ。
まったく、と彼は苛立った様子でため息を漏らした。
邸の中は静まり返っている。
どうやら、永倉達は出掛けたようだ。
きっと色町にでも出掛けたんだろうが‥‥あまりうるさく言うのも気の毒だ。
狭い邸に押し込められ、明日さえ見えない毎日だ。
彼らも鬱憤が溜まっているんだろう。
少しの憂さ晴らしはさせてやらなければ、いつか、壊れる。
「‥‥あいつは?」
毎日のように、土方は帰るなりそう訊ねた。
あいつ、というのはの事だ。
あの日、胸に傷を負って以来‥‥何日も寝込んでいる。
江戸に来てからもずっと、だ。
「ええ、まだ‥‥」
眠っていますと島田は答えた。
すたすたと廊下を進み、彼女の部屋の前で止まる。
静かに襖を開けると、そこに先客がいた。
「斎藤。」
彼だ。
「御苦労様です。」
斎藤はぺこりと頭を下げ、彼に場所を譲るべく座る位置をずらした。
「様子はどうだ?」
譲られた場所に腰を下ろし、の顔を見る。
顔色は‥‥悪くない。
本当にただ、眠っているだけだ。
「異常はありません。」
「‥‥」
「傷口も‥‥」
僅かに言葉を濁す彼に、土方は目を細めてそうかと呟く。
一応、彼女の胸には布を巻いている。
傷口を塞ぐため、という瞑目ではあるが、その傷が塞がっているのを土方は知っている。
この目で塞がる瞬間を見た。
不思議な光景だったのを覚えている。
の事を任された斎藤も、彼女の傷口を見て知っただろう。
異様な速さで塞がっていく傷口を見て、
彼女が、人ではないと。
「‥‥島田。
悪いが、水を持ってきてもらえるか?」
「わかりました。」
島田は用事をいいつけられ、失礼しますと一礼をするとその場を後にする。
足音が完全に遠ざかったのを確かめると、土方は口を開いた。
「悪いが‥‥こいつの事は黙っててくれねえか。」
それを皆が知っても、きっと態度は変わらないはずだ。
でも、それでもは知られるのを嫌がるはずだ。
何故なら、あの時、
「みないで」
と彼女が言ったのだから。
「ではやはり‥‥は‥‥」
斎藤は控えめに口を開く。
ああ、と土方は頷いた。
「多分、あいつらと同じ。」
風間や、千姫、千鶴と同じ‥‥
「――鬼――」
鬼。
人とは違う、存在のもの。
彼女は知っていたのだろう。
自分が鬼であること。
そして、彼女は隠した。
それはきっと恐れたのだ。
自分が人ではないことを、自分たちに知られること。
彼女は思ったのだろう。
自分の存在を、
――化け物、だと。
化け物と言えば‥‥自分だってそうだと土方は笑った。
以外誰も知らないけれど、彼は、羅刹となった。
人ではなくなった。
人の身でありながら、驚異の戦闘能力と、異常な回復力を手に入れた。
傷をつけられても同様にすぐに回復する。
そして、
今はまだないけれど、
いずれ‥‥人の血を求めて、
狂う。
化け物というのならば、自分の方が化け物ではないだろうか。
土方は自分を嗤った。
「ん‥‥っ」
ふいに、が小さく呻いた。
見れば眉根を寄せ、苦しげな顔をしている。
「?」
「っ‥‥うっ」
苦しげな吐息を漏らし、彼女は布団の中で身を捩る。
悪夢でも見ているのだろうか。
額に汗が浮かんだ。
「!」
土方は彼女の肩に手を掛けて、揺すった。
「ごめ‥‥なさっ」
その口から声が零れる。
「ごめんなさいっ」
と。
それは謝罪の言葉だ。
「ゆるして‥‥」
お願い、許してとは言った。
何度もごめんなさい、許してと、は苦しげに訴えた。
真っ暗な世界に、は一人、ぽつんと佇んでいる。
いつもの夢だろうか。
手には抜き身の刃。
血がべっとりと着いている。
着物は血で染まり、甘い酔いそうなにおいが自分にまとわりついている。
今日も始まる。
殺戮の夜が。
は諦めたように一度目を閉じた。
こうしていればいずれ、悲鳴が、焼けこげたにおいが、蘇る。
そして私はまた、人を殺すのだろうと。
「人殺し」
鋭い声が飛んできた。
「!?」
瞳を開ければ、目の前には闇が広がっていた。
闇の中から声が聞こえた。
「人殺し」
それは明らかな敵意の籠もった声だ。
人殺し。
と自分を詰った。
聞き覚えのある声。
でも誰だったか思い出せない。
「お前のせいで、里は滅びた」
別の声が聞こえた。
闇の中にぼんやりと人の姿が浮かび上がる。
男・女・老人・子供。
その後ろには鎧を着た兵士。
彼らは揃ってこちらを見ていた。
恨めしそうな目で見て、こう口々に言った。
「人殺し!」
「おまえが皆を殺した!」
「鬼はおまえだ!」
人殺し。
人殺し。
彼らは責め立てる。
ぼんやり浮かぶ人々はやがて、はっきりと見えてくる。
見知った顔、知らない顔。
それが「人殺し」と繰り返した。
「わ、私は‥‥」
里のためにとは言った。
「だったら‥‥」
幼い声が、の耳を打つ。
まさか。
とは目を見開いた。
ゆっくりと振り返れば、すぐ後ろに、小さな子供の姿がある。
二人の子供だ。
同じ顔をした、子供。
あ。
とは声を漏らした。
それは良く知る、顔であった。
今よりも少し幼い。
でも、相変わらず真っ直ぐな瞳だった。
彼らは、揃って自分を見上げ、
あどけない表情のままに、こう、言った。
「どうして、僕たちのお父さんを殺したの?」
男の子が訊ねた。
それは。
は口を開くが言葉が出てこなかった。
「っ」
声を失ってしまったかのように、音が出なかった。
それは。
それは。
は続ける。
そっと、自分を見上げるもう一つの目が、色を変えた。
金色のそれは、ひどく自分を嫌悪するそれで、言葉を吐きだした。
「ひとごろし」

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