翌日。

沖田と千鶴は少しばかり寝込む事となった。

 

ここ数日の寒さなのだから仕方ないと、誰かが言った。

幸い、二人の風邪はさほどひどいものにならず、回復へと向かっていった。

 

早く暖かくなってほしいものだ。

と二人が寝込んだのを聞いて、近藤が心配そうに呟いた。

土産に甘いものでもまた買ってこようかと笑う彼を、は見送った。

 

そして、

その日、

 

――パァン!!

 

銃声が通りに轟いた。

 

 

 

ばたばたと慌ただしい足音を立てて、は戻ってきた。

ほとんど転がるようにして邸に上がると、廊下を走る。

「邪魔だ!どいて!」

廊下を塞ぐ隊士たちに珍しく鋭い口調で言って、彼女は広間へ飛び込んだ。

その瞬間、

 

「っ!?」

 

は言葉を無くした。

 

そこに彼の姿はない。

出先で永倉と会い、事件の事を聞いてすっ飛んできたのだが、広間に彼の姿はなかった。

ただ、

畳の上におびただしい血が残っていた。

 

。」

「一!」

 

ぴりりと緊張した面もちの隊士達の中、斎藤がに声を掛ける。

彼女は慌てて彼の傍に駆け寄ると、噛みつかんばかりに口を開いた。

 

「近藤さんは!?近藤さんはどこ!?」

「落ち着け。」

「落ち着いていられるわけないだろ!!近藤さんが‥‥っ‥‥」

 

近藤さんが撃たれた――

 

永倉の言葉を思い出して、はすぅっと血の気が引いていくのが分かった。

 

事件が起きたのは、二条城からの帰り道。

伏見街道を通りかかった時、突然の銃声が轟いた。

二発の銃弾の一つが、護衛の一人を。

そしてもう一発が、

馬上の近藤を撃った。

隊士の一人はその場で息を引き取った。

その周りを刺客に囲まれたが、どうにかくぐりぬけて屯所に戻ってきたのだ。

近藤は屯所に運ばれたが‥‥

 

「今、手当をして眠っている。」

斎藤は静かな声で答えた。

しかし、僅かに彼の声にもぴりりと怒りか、緊張か、張りつめたものを感じた。

はそれで、なんとなく近藤の容態に気付いてしまって、

「‥‥悪い‥‥の?」

そう訊ねた。

平静を装っていたつもりだった斎藤は、自分の失態に一つ舌打ちを漏らす。

そうだ、相手はだったのだと今更ながらに思い、やがて彼は深いため息を吐いた。

「腕を‥‥やられた。」

出血がひどい。

彼は答える。

「‥‥」

ざあと血の気が引く音が聞こえるほどに、は青ざめる。

一瞬、頭の中が真っ白になる。

「今、松本先生が診てくれているが‥‥傷のせいで熱が上がって、意識がない。」

まさか‥‥という絶望的な考えがよぎる。

足に力が入らなくなり、そのまま崩れ落ちそうになる。

彼が死ぬ――

そう思ったら世界が真っ暗になっていく気がした。

 

「っ‥‥」

 

が、それを無理矢理振り払って、は腹に力を入れた。

体勢を立て直すと、しかと斎藤を見て訊ねる。

 

「今、私がやるべきことは?」

 

震える声で、しかし、彼女ははっきりとそう口にした。

斎藤はそれを見て、目の前の女はどうしてこうも強がるのだろうと思った。

親同然に慕って、なおかつ、彼女の生き甲斐は「近藤」だと知っていた。

その人が今、死の淵に追いやられている。

その報せを聞いても、彼女には動揺することも、泣くことも許されないというのだろうか。

 

「‥‥。」

「平気。大丈夫だから。」

珍しくも斎藤の気遣うような眼差しに、は首を振った。

 

今、ここで自分が混乱しても何も始まらない。

やるべき事を、やらなくては‥‥

 

と己を叱咤し、は彼を見る。

迷いのない眼差しを受けて、斎藤はやがてため息を漏らす。

「今、新八が隊士を引き連れて伏見街道に行っている。

それが戻るまで、迂闊に行動はしない方がいいだろう。」

「‥‥分かった。」

今すぐ飛んでいきたいだろう。

飛んでいって、彼を撃った人間を殺してやりたい所だろうに。

 

は堪える何かを落ち着かせるように、一つ息を吐く。

 

やがて、廊下から少しばかり慌てた足音が響いて、二人は視線をそちらに向けた。

土方だった。

難しい顔でやってきた彼は、に気付くと、一瞬息を飲んだ。

それからすぐに、苦渋の表情になる。

 

「土方さ‥‥」

 

が慌てて駆け寄るより前に、

 

「もう、うるさいなぁ。」

 

というこの場には似つかわしくないやけに間延びした声がした。

 

ぴた。

は歩みを止める。

見れば、廊下に沖田の姿があった。

今目を覚ましたところなのか、少しばかり寝ぼけ眼である。

その隣には千鶴の姿。

 

「どうしたの?」

 

広間の殺伐とした空気に気付いたか、沖田がすぐに双眸を細めた。

何があったのと訊ねる彼の眼差しは鋭い。

それもそのはずだ。

隊士が慌てるのならまだしも、鬼の副長までもが焦りを露わにしているのだ。

何かがあったのだと気付かないわけがない。

 

「‥‥総司、落ち着いて聞け。」

 

彼の代弁をすべく、斎藤が落ち着いた声で告げた。

 

「近藤さんが、撃たれた。」

――っ!?」

 

その瞬間、沖田の瞳が驚きに大きく見開かれた。

 

「近藤さんが!?」

 

驚きに声を上げるのは千鶴だ。

彼女も信じられないと言う顔で、一同を見遣るも、それぞれの反応がその言葉が嘘ではないと告げていて、

「‥‥そんな‥‥」

見る見るうちに青ざめていく。

 

一方の沖田は、驚きに双眸を見開いたままだ。

まだ、

言葉を飲み込めないらしい。

 

「総司。」

が口を開いた。

呼ばれて彼はこちらを見る。

「ほん‥‥とう?」

問われて、は躊躇いがちに、一つ、頷いた。

「本当だ。」

今、手当を受けていると答える。

「‥‥」

その言葉を聞いても、沖田はしばらく茫然とを見つめていた。

彼の瞳は、不安げに揺れていた。

信じられない‥‥いや、信じたくないと思っているのだろう。

「総司‥‥」

痛いくらいに彼の気持ちが分かった。

彼もきっと、不安だろうと。

 

事のあらましを井上が彼らに伝える。

青かった顔は、しかし、突如、怒りのそれへと変わった。

 

「三人しか護衛をつけなかったんですか!?」

 

怒りの矛先は、土方へと向かう。

 

ぎらりと瞳に殺気を込めて、土方を睨み付ける。

「今は危険なときだってわかってるくせに、どうしてそんな状態で行かせたんです!?」

珍しくも荒々しい口調の彼に、一方の土方は淡々と告げた。

「近藤さんが二条城へ向かったのは、新選組局長として軍議に参加するためだ。

幕軍のお偉方が集まる場所に、護衛なんか引き連れていけるかよ。」

「‥‥」

その言葉に、沖田の表情はますます厳しくなった。

は「ちがう」と口の中で呟く。

それは、彼が望んだ事なのだと‥‥

だけど。

口を開いた彼女を、土方が視線だけで制した。

は唇を噛んで口を閉ざすしかない。

 

「‥‥後ろ指指されたら、格好つかないからですか?」

 

そうすれば、沖田がぼそりと零した。

武勇のほまれが高い新選組。

しかしその局長が、たくさんの護衛を引き連れていたら。

‥‥弱虫だと罵られる。

まだまだ幕府の中には彼ら新選組を悪く言う人は多いのだ。

そう言った者たちに、いいように言われる。

 

「近藤さんの命より‥‥見栄を張る方が大事なんですか‥‥」

 

「んな事言ってねぇよ。」

 

ぴり。

と痛いくらいの怒気をはらんだ空気が二人の間に張り詰めた。

誰もが不安そうに見守る中、土方の方が視線をそらした。

 

「近藤さんを行かせたのは‥‥俺の手落ちだ。」

 

その言葉に、沖田の表情が一瞬歪む。

それは‥‥泣き出す一歩手前の、危うげな表情。

しかしすぐにぐと奥歯を噛みしめて、土方への怒りをあらわに告げた。

 

「もしも近藤さんが死んだら‥‥」

 

どうしようもない怒りが、

 

「土方さんのせいですからね。」

 

その口から言葉となって迸った。

押し殺した‥‥

だけど、

泣き出しそうな声で。

 

土方は、何も言わなかった。

 

――そんなわけがない。

彼が、近藤の死を望むわけがない。

そんなこと沖田にだって分かっている。

 

それでも、誰かに怒りを、不安をぶつけなければ彼は収まらなかったのだろう。

 

 

 

それから、数刻後。

別室に寝かされた近藤がいよいよ峠かも知れないと、松本が暗い顔で言った。

手は尽くす。

と彼が言うのを、土方はただ「宜しく頼む」と頭を下げるばかりだった。

 

天頂に月が昇る。

こちらの気分などおかまいなしに、明るい月光は静かに街を照らしていた。

屯所の中は、ひっそりと静まりかえっていた。

まるで、何かに怯えるように。

 

 

「‥‥まったく、近藤さんも運が悪いよね。」

沖田はいつものように羽織を纏って警護に当たっていた。

本当なら今日も大事を取って休んでいた方がいいのだけど、彼は聞かなかった。

いや、誰も彼を止めることは出来なかった。

 

「‥‥」

千鶴はちらりと彼を仰ぎ見る。

月明かりの下、彼は笑って軽口を叩いている。

先ほど近藤の容態を聞いたばかりだ。

昼間の事があって、千鶴は冷や冷やしていた。

今度こそとっくみあいの喧嘩になるんじゃないかと。

しかし、

彼はいつも通りだった。

昼間のが嘘のように。

笑っていた。

 

「‥‥まあ、鉄砲を命中させるのって、すごく難しいとは聞いたことがありますけど。」

「特に距離があると、まず当たらないんだってさ。」

あははと笑顔で言われて、千鶴は返答に困る。

ええとと言葉を探していると、突如、沖田は声を上げた。

「あ、僕、平助君に用があるんだった。」

思い出したと言って彼はこちらを笑顔で振り返った。

「ちょっと行ってくるから、君はここで待機しててくれる?」

「え?」

まさかここで待っていろと言われると思わなかった。

何故なら千鶴は数にもならない戦力だ。

ここに一人ぽつんと立っていても、役に立たない。

それとも今攻め込まれることはないと思っているのか‥‥

「すぐ戻ってくるから。」

「あ、沖田さん!」

しかし、千鶴が何かを言うよりも前に、彼はくるりと踵を返してしまう。

そのまますたすたと早足で行ってしまって‥‥千鶴はもう、とため息を零した。

仕方ない。

本当はこんな所に一人置いて行かれるのは心細いが、かといってここを離れたら敵に襲われた時に誰かに報せる事も

できない。

確かに千鶴は力はないが、それでも伝令くらいはできるはずだ。

「‥‥」

とはいえ‥‥

千鶴はひっそりと月明かりに照らされるあたりを見回した。

人の声はしない。

時折風が吹いてかさかさと枝葉が揺れる音だけが響く。

通りの向こうは闇に閉ざされ、ぽっかりと闇が口を開けているようにもみえた。

あそこから何かが出てきたら確実に、千鶴は悲鳴を上げて腰を抜かす自信があった。

不気味だ。

「‥‥そういえば‥‥」

こんな事を、新選組の人間は当たり前のようにやってきた。

ということはつまり、も同じ事をしてきたのだ。

ただの一人で見回りをしたらり、敵地に単身で乗り込んだりという事も多々あったはず。

同じ女なのにどうして彼女はこうも強いのだろう。

いやちがう‥‥同じ女なのにどうしてこんなに自分は弱いのだろう。

きっとに言えば彼女は笑う。

なんという事もない顔で笑って、

「これが私の仕事だから」

と当たり前のように言うのだろう。

泣き言一つ言わず、与えられた仕事を望まれた以上にやってのける。

そこまでするのに彼女がどれほど努力したか‥‥なんていうのは想像も出来ない。

そんな彼女だからこそ、新選組の信頼は厚い。

弱さを見せず、ただただ前を見て歩き続ける彼女だからこそ‥‥

きっと沖田も‥‥

 

「‥‥また‥‥」

 

千鶴は呟いた。

まただ。

また、彼女と自分を比べてる。

比べた所でどうにでもなるわけじゃない。

ただただ自分が惨めになるだけなのに‥‥

 

『人にはそれぞれ、向き不向きなものがあるんだよ』

 

ふいに、脳裏に声が響く。

まだどこか幼さの残る子供の声。

ざぁと景色が揺れた。

突然、目の前が白くなった。

そうかと思えば、次には豊かな緑が目の前にあった。

 

優しい日差しが降り注ぐ中、

『千鶴には、千鶴にしかできない事がきっとあるんだよ』

誰かが言った。

それはなぁにと訊ねれば、その人はそっと屈んで、自分と目線を合わせた。

春の花みたいな優しいにおいがすると千鶴は思った。

 

『誰かを信じ‥‥想い続けること』

 

おまえの心は、私よりもずっと真っ直ぐだからねと、その人は笑って、手を伸ばした。

 

その手を千鶴は取りながら、それは知っているものだと思った。

その温もり。

優しさ。

それは確か――

 

 

ピィイイイイイイ!

 

 

突如甲高い笛の音が千鶴の意識を引き戻した。

はっと我に返り、千鶴はそちらへと目を向ける。

甲高い笛の音と、微かに聞こえる刃がかち合う音。

そして、かすかに聞こえるのは‥‥悲鳴。

 

どくんと鼓動が跳ねた。

 

まさか‥‥

と千鶴は口の中で呟く。

足音が近付いてきた。

見れば闇の向こうから藤堂が駆けてくるのが分かった。

「千鶴!大変だ、総司がっ!」