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は。
と千鶴は自分の手に息を吹きかける。
白い息は夜空に霧散し、手はすぐに冷たくなった。
今日は、随分と冷える。
もう少し厚着をしてくればよかったと思いながら、千鶴は星の瞬く空を見上げた。
「‥‥寒いんでしょ?」
隣に立つ沖田が意地悪い表情で言った。
「平気です。」
千鶴は強い口調で答えた。
寒い‥‥と一言でも言おうものなら、邸の中に無理矢理戻されるのは目に見えていたから。
「寒かったら戻っててもいいんだよ?」
やはりというか、沖田はそう言ってくる。
平気です。
千鶴は変わらぬ口調で言った。
真っ直ぐに前を見る瞳は、死んでも戻るものかと言っているようだった。
「まったく、強情なんだから。」
やれやれと大仰に肩を竦めて、本日何度目かの沖田との攻防は終わる。
これが最近の二人のやりとりだった。
羅刹となった沖田は、羅刹隊の一員となった。
日の光の中では活動する事が出来ない彼らは、当然、夜の巡察、警護に当たる事となる。
沖田もその一人だ。
毎夜、月が空に掛かる頃に屯所の警護につくのだが、それに最近千鶴は付き合うようにしている。
とはいえ彼女は日中も起きて、昼の巡察に付き合う事があるらしい。
皆が起きているのに一人だけ眠っているというのは忍びないといういかにも千鶴らしい理由だが、お陰で彼女はここ
の所寝不足気味だ。
ふあ、と欠伸を噛み殺す光景を沖田は何度も見ている。
「眠たかったら戻っても良いよ?」
その度にそう言われて、やはり千鶴は「大丈夫です」と固辞した。
本当に頑固な娘だと思う。
「どちらにせよ、もう少しで交代なのに。」
ひょいと肩を竦めて彼は呟いた。
それでも、
と千鶴は思う。
ほんの少しの時間だったとしても、一緒にいたい。
それが千鶴の本音だ。
しかし、毎度の事ながら、彼は千鶴にそんな事を言う。
いつも千鶴が同じ返答をすると知っていながら。
「そんなに‥‥私を邸に戻したいんですか?」
「そうは言ってないでしょ。」
「‥‥確かに私は‥‥敵に襲撃されたら何の役にも立たないですけれど‥‥」
それどころか、足手まといにしかならないんだけど‥‥
と千鶴は自分で言って、自らのお荷物っぷりに少し落ち込む。
しゅんと再度落ち込んで俯く彼女に、沖田はやれやれと言った風に首の後ろを掻いた。
別に駄目だなんて一言も言ってない。
ただ、心配しているだけだ。
無茶をして倒れてしまっては意味がない。
風邪をこじらせて命を落とす‥‥という事は、日常茶飯事なのである。
しかし、その心配しているという彼の気持ちは全く伝わらないようだ。
今まで苛め倒したツケがここに回ってきたのか、彼の言葉はほぼ全て、裏返しの意味に取られてしまうらしい。
「ところで、沖田さんこそ大丈夫ですか?」
千鶴が訊ねる。
何が?と視線を向ければ、ばちりと視線がぶつかった。
その瞬間、千鶴が何故か慌てる。
視線を外して、
「身体の調子とか‥‥その、いろいろと‥‥」
もごもごと口ごもる。
どうやら言いにくいことらしい。
その意図する所を察して、彼は目をすがめた。
「血がほしくないか――って事?」
「っ!?」
千鶴は目を見開いた。
まじまじと驚きの表情で見つめられ、沖田はすがめていた目を、笑みのそれへと変えた。
「そういうのはないよ。
‥‥今の所はね。」
「そう、ですか。」
沖田の返答に、千鶴は見るからにほっと安心したような表情を浮かべる。
何をそんなに心配する必要があるのか。
まだ、自分のせいだとでも思っているのだろう。
まったくこの少女はどこまでもお人好しだ‥‥
「っくしゅ!」
はぁと一つため息を零すと、隣で控えめにくしゃみの音が聞こえた。
「‥‥」
ちらと見れば、千鶴はしまったという顔になり、
「‥‥気のせいです。」
何かを言われる前に、やや無理矢理な言葉を口にした。
気のせいなものか。
沖田は半眼で彼女を見た。
やはりここ数日の寝不足と、寒さのせいで彼女は風邪を引きかけている。
今すぐ戻れ‥‥と言いたいところだ。
が、
「戻りませんよ。」
千鶴は頑として聞かないだろう。
まったく。
と沖田は一人ごちた。
視線を合わせたら負けだ、とでも思っているのか、千鶴は真っ直ぐに前を見つめていた。
ふいに、
ふわ。
「え?」
身体を包む温もりがあった。
驚きに一つ声を上げ、自分の姿を見れば、肩に掛けられた浅黄色の羽織が目に映る。
「ええ?」
今度は視線を横にして沖田を見れば、
「ちょっとそれ預かってて。」
悪戯っぽい笑みを向ける彼と視線がぶつかる。
先ほどまでの彼が着ていた浅黄の羽織はなく‥‥それは千鶴が今肩に羽織っている状態で‥‥
ふわと、自分のではない香りと、温もりに一瞬頭は真っ白になり、すぐに、
「だ、駄目ですよ!!」
千鶴は慌てて羽織を脱ぐと、沖田へと返した。
「沖田さんが風邪をひいちゃいます!」
「そんな大丈夫だよ、鍛えてるんだから。」
そんなに柔じゃないよと言いながら彼は押し戻した。
「でも、沖田さんこの間まで寝込んでたじゃないですか!」
更に千鶴が押し戻して、
「治ったって言ったでしょ?千鶴ちゃん信じてないの?」
沖田が。
その押し問答を見ていた平隊士たちが怪訝な視線を送っていると言う事に気付いているだろうか。
千鶴は屯所の中では男として通っている。
それを信じている隊士達にはそのやりとりがいささか不思議でならない。
男同士で何をしているんだか‥‥
そんな視線に二人は気付かず、更に続けた。
右へ左へ。
羽織を押し戻し、また戻し。
その言い合いでなんだか身体が熱くなってきた。
「なにしてんの?おまえら。」
誰もが声を掛けられず、遠巻きに見ているしかなかったその光景に、一人、突っ込む人間がいた。
二人同時になに?とそちらを向けば、
「。」
「さん!」
呆れた面もちで佇む彼女の姿。
「警護の最中に何?二人して痴話げんか?」
「ち、違います!」
茶化すような言葉を千鶴は慌てて否定した。
「千鶴ちゃんが頑固なんだよ。
からも言ってあげてよ。」
「そ、それは沖田さんが‥‥」
「あーはいはい。
仲良き事は美しきかな。」
と、は苦笑で呟き、ぱちぱちと気のない拍手をしてみせる。
「馬鹿にしてるの?」
「してない‥‥呆れてるだけ。」
「‥‥‥」
「それより、二人とも交代。」
物言いたげにこちらを見ている沖田を華麗に無視して、は早く二人に中に入るよう促した。
ああもうそんな時間かと呟く彼の隣で、もう終わってしまうのかと千鶴は少し残念な気分だ。
それにしても。
沖田が口を開く。
「珍しいね、が来るなんて。」
いつもは斎藤君や、山崎君が来るのに。
と言われては肩を竦める。
交代をつげに来るのは大抵彼らで、たまに原田たちも彼らと話をしたいが為にやってきたりするが、が来るのは
初めてだった。
夜なので仕方ない事かも知れない。
は夜こそ、忙しい身だ。
「最近、土方さんが仕事くれないんだよ。」
そう言われて、はひょいと肩を竦めて告げる。
以前ほど幕府の立場が強くないので、迂闊に動く事も出来ない。
おまけに最近市中には薩長の人間が増えてきて、一人に向かわせるには危険という事もあって、彼女は暫く待機
を命じられている。
おかげで毎日、健康な生活を送っている。
「暇で死にそう。」
「副長助勤が暇なんて良い事なんじゃないの?」
彼女の仕事は専らが「暗殺」だ。
暗殺稼業が忙しいなんて物騒なこと極まりない。
しかし、暇なのは性に合わないものだとは思った。
「それはそうと‥‥」
はちろっと千鶴を見る。
「千鶴ちゃんちょっと顔色悪いけど、大丈夫?」
ばちりと視線が合って、千鶴は思わず言葉を失う。
「っ」
それからあからさまに視線を逸らされたのを、は確かに見た。
「だ、大丈夫です。」
固い声が返ってきた。
あれから。
沖田が羅刹となってから、千鶴とはぎくしゃくするようになった。
いや、本当はもっとずいぶん前からだ。
自身はなんとも思っていないのだけど、何故か、千鶴はと顔を合わせると反応が鈍る。
沖田が羅刹になった事に関して責任を感じているのだろう‥‥とは思ったが、実際はそれだけではなかった。
千鶴はを見るのが、少し、怖かった。
「‥‥」
何をしたの?
と言いたげな視線を沖田に向けられ、は緩く首を振る。
こっちが教えてほしい限りだ。
「大丈夫です、私‥‥っくしゅ!」
平気ですと言おうとしたらくしゃみが出た。
根が正直だと身体も正直らしい。
沖田が呆れた顔で見た。
「だから言ったでしょ?
ほら、さっさと部屋に戻る。」
ほれみたことかと言って、彼女の背を押した。
慌てて千鶴は大丈夫だと言おうとすると、
「そういうおまえもだ、総司。」
が言葉を遮った。
「え?」
驚きに目を丸くする。
一方沖田はひょいと首を捻って、
「ああ、羅刹になったからじゃないの?」
と笑った。
どうしてそういう事を言えるのだろう。
千鶴はちくりと胸が痛むのを感じた。
羅刹だから‥‥人ではないから。
だから顔色が悪くても当然と言いたげなそれは、あまりに自虐的な響きを湛えている。
そう呟いた彼を、は睨み付けながら言った。
「私の目を誤魔化せると‥‥本気で思ってる?」
射抜くような、視線。
真っ直ぐに、だけど真剣な眼差しで見つめられ、沖田は一度双眸を細める。
些か不機嫌そうなそれでしばし彼女を睨み‥‥しかし、が微動だにしない事に気付いて、
「‥‥分かったよ。」
沖田の方が折れた。
彼は両手を広げて、降参の格好をしてみせる。
「ちょっとだけ‥‥疲れてる。」
と正直に白状する彼に、はやっぱりと呟く。
千鶴には、全く分からなかった。
彼の様子はいつもと同じように見えたからだ。
顔色も声も、別に普段と変わらない。
そう見えるのに‥‥彼女は気付いた。
はぁ、とがため息を零した。
「部屋で大人しくしてる。」
「馬鹿、その言葉を誰が信じるか。ついていくに決まってるだろ。」
「看病なら千鶴ちゃんの方を‥‥」
「土方さんに言っても構わないんだけど?」
「‥‥分かったってば。」
疲れたように彼は言って、くるりと背を向ける。
はその背中を押しながら、
「ごめん、ちょっとこいつ部屋に連れていくね。」
振り向きざまに告げる。
目を離すと何しでかすか分からない‥‥と文句を言われて、沖田は「はいはい」と疲れた声で返事をした。
「ってば、羅刹になった前も今も変わらないね。」
苦笑混じりに言えばはアホかと目を眇める。
「羅刹になったから何だって言うんだ。
そんな大それたものか?」
と化け物になった事など笑い飛ばすかのように、彼女は言ってのけた。
そんな彼女に沖田は「すごいなぁ」と笑う。
笑う彼の横顔は、なんだかひどく穏やかだったのを、千鶴は見てしまった。
敵わないなぁ。
千鶴は思う。
これが一緒にいた時間の差なのだろうか。
それとも‥‥
それほどに二人の間には強い絆があるというのだろうか。
そう、だとしたら‥‥
千鶴はそっと双眸を細めて、悲しげな表情を浮かべた。
「敵わない‥‥な‥‥」
が羨ましいと。
あの人のようになりたいと。
そう願う千鶴は、自分が凄く惨めな感じがして、嫌いだと思った。
なのに、
彼女を目の前にすると、自然と自分との違いを比べてしまった。
もっと強ければ。
もっと美しければ。
そうしたら、
そうしたらきっと、
「沖田さんは‥‥私を好きになってくれるかな‥‥」
でも、そんな自分はきっと‥‥もう自分ではないのだと分かると、千鶴は悲しくなった。

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