血のにおいがする。

噎せ返りそうな血のにおい。

 

じくじくと腕が痛む。

押さえた手の間から血が溢れた。

 

怖い。

 

千鶴は目の前のそれを見て思う。

 

倒れた襖。

乱れた布団。

床に散らばる血。

そして、

這い蹲ってそれを舐めているのは‥‥

 

「羅刹‥‥」

 

白い髪。

赤い目。

自我を無くし、血に狂った隊士の姿。

それはもう誇り高き武士の姿ではない。

ただ飢えを満たす為に刃を振るい、血を啜る様は獣のようだ。

いや、

獣よりももっとおぞましい。

 

彼が飛び込んできたとき、怖くて声が出なかった。

いや。

声が出せなかった。

ここで大声を張り上げれば、何も知らない隊士達に羅刹の存在を知らしめる事になる。

そうなれば隠していた幹部の皆に迷惑が掛かる。

それは絶対にいけない。

 

そう思っていると、腕を切り裂かれた。

 

滴る血に狂ったように笑いながら隊士は這い蹲って血を啜った。

 

ああ。

このまま殺されるのだろうか。

 

千鶴は恐怖に打ち震えた。

 

その脳裏に、

 

『妙な遠慮はやめなよ。』

 

蘇るのは沖田の言葉だ。

そういえば、いつだって自分が思い出すのは彼の言葉だ。

優しい彼の言葉。

『頼るべき時は、頼ればいいんだからさ。』

それが引き金となり、千鶴の中で弾ける。

 

千鶴は言葉に背を押されるように、叫んだ。

 

「誰か――助けてください!」

 

思ったよりも大きな声で叫んで、あとはひたすら待つ。

千鶴は祈るような気持ちで目を閉じる。

早く。

早く。

 

「‥‥足りない。」

 

不満げな声が聞こえて、ぎょっとして瞳を開けた。

見れば隊士が立ち上がっていた。

血は畳にしみこんでしまったらしい。

満足に口にする事が出来ず不満げに告げて、それからゆらりと首を巡らせる。

 

その赤い瞳に、赤い千鶴の肩口が映った。

 

「それ‥‥だ‥‥」

にやぁ。

と口元が歪む。

「ひっ‥‥」

「それを、寄越せ。」

隊士は抜き身の刃を振り上げた。

腕ごと。

奪うつもりだ。

千鶴は喉の奥で悲鳴を上げた。

 

――ばたばたっ!

 

「おい、生きてるか!?」

複数の足音と、即座に聞こえたのは土方の声。

――はいっ!」

千鶴は叫んだ。

 

真っ先に部屋に飛び込んできたのは、抜き身の刃を持った土方だ。

そのすぐ後ろにはの姿があった。

「土方さん!さん!」

千鶴は泣きたい気分になった。

絶望さえしていた心は一気に浮上する。

 

「っ!」

鬼の副長の姿に気づいた隊士は慌てて飛びかかる。

しかし、

――ひゅ!

電光石火の如く振り下ろされた一撃が、隊士の身体を薙いだ。

「ぎゃぁああ!」

断末魔の声が響き、しかし、それでも隊士は倒れない。

しかし彼が体勢を整えるよりも先に、

「っ――

の刃がその身体を深々と貫いていた。

「が‥‥ぁ‥‥」

心臓を一突きされ、

びくん、

と身体を大きく震わせ、

やがて、

どさり。

と床に男は倒れる。

血が広がった。

 

「大丈夫!?」

は即座に刀を収めると彼女に駆け寄った。

千鶴の着物が赤く染められている。

「大丈夫です。

血は‥‥止まってます。」

きつく押さえてたから。

という言葉に、はほっとため息を漏らす。

さすがは蘭方医の娘というところか、応急処置は心得ているらしい。

「‥‥でも、傷口開くといけないから。」

は手拭いを出して、それで肩口を縛った。

「あんまり動かさないでね。」

「はい。」

そんなやりとりをしていると、続いてくる足音がある。

 

「千鶴!?」

「何があった!?」

「大丈夫か!」

 

藤堂、原田、永倉だ。

彼らはまず倒れた隊士を見て、それから千鶴を見る。

揃って顔を顰めたが、

「大丈夫です。」

と笑うとほっとしたような顔を浮かべた。

しかしほっとしたのもつかの間。

声を聞いて駆けつけたのは、何も頼もしい味方だけではなかった。

 

「な、なんなんですか、これは!?」

 

現れた人物に、土方はちっ、と舌打ちをする。

「伊東さん。」

出来ればここに今一番現れて欲しくない人物だ。

この惨状を見られた事も、だが、それ以外にも今は見たくない顔。

「‥‥」

がそっと後ろに一歩引いたのが分かる。

土方は千鶴とを庇うように前に立った。

 

「幹部が寄ってたかって隊士を殺して‥‥

説明しなさい!いったい何があったんです!?」

幹部全員が刃を抜きはなっているのを見て、伊東は甲高い声を上げた。

原田と永倉もあからさまに嫌そうな顔をしている。

「ぎゃあぎゃあうるせえよ。」

ぼそっと誰かが呟いた。

 

「ええと、これは、だな。」

近藤はどう説明したものか、と視線を彷徨わせた。

それに、

「皆、申し訳ありません。

私の監督不行届です。」

答えたのは意外な人物だった。

「山南さん!?」

驚いたのは彼が死んだと思っていた伊東だけではない。

まさか彼がここに姿を現すとは思っていなかった。

今姿を現せばややこしい事になる‥‥なのに、彼はその場に姿を現した。

案の定、伊東は更に声を上げた。

「さ、さ、ささ山南さん!?

な、なぜ、あなたがここに‥‥!」

ぱくぱくと口を開閉させ、驚きのあまりに言葉が続かない。

死んだと聞かされていた人間が目の前に現れたのだ、無理もない。

 

「その説明は後ほど‥‥

とにかく、この場の始末をつけなくては。」

 

羅刹を束ねる身としては、こんな形で暴走した隊士が出たことに彼なりに責任を感じているのだろう。

沈痛な面持ちで死んだ隊士を見つめた。

 

そうだ。

まず、このままにしていくわけにはいかない。

部屋もそうだし、千鶴は怪我をしている。

 

「土方さん、とりあえず彼女の手当を‥‥」

 

そう、が告げた時だった。

 

「‥‥くっ‥‥」

 

苦しげな声が聞こえた。

「え?」

と誰もが振り返ると、山南が己の顔を手で覆って身体をくの字に曲げていた。

「ぐ、うぁああああああっ!」

その口から、咆吼とも取れる声が上がり、

「山南さん!?」

千鶴は自分の怪我の事も忘れて彼に駆け寄り、

 

「下がれ!千鶴!」

 

それに気づいた土方が声を上げた。

が、時すでに遅し。

「え?」

と呆けたような声を上げる彼女の前で‥‥山南の髪の色は白く変わっていった。

目が赤く血走り、

そして、

「きゃああ!?」

山南の手が千鶴を掴んだ。

「千鶴ちゃん!」

「うっぐぅ!」

強い力で握られているのだろう、千鶴の顔が苦悶の表情を浮かべている。

「い、痛いっ‥‥離して、離してください、山南さんっ!」

骨が折れてしまう。

千鶴は叫ぶが、山南は焦点のあっていない瞳を向けた。

 

「血‥‥血です。」

 

そうぼんやりと呟いて、山南は彼女の肩口に手を伸ばして、血を掬い取った。

指先が赤く染まる。

 

「血をください。

君の血を‥‥私に‥‥」

 

瞳にゆらりとあがる狂気。

千鶴は恐怖に震えた。

 

「い、いやぁ!

離して、離してくださいっ!!」

 

悲鳴が上がった。

 

「やめろ、山南さん!」

原田が声を上げた。

「くそ、山南さんまで血のにおいにあてられやがったか!」

永倉が唇を噛んだ。

「山南さん!そいつを離せよ!」

かみつくように藤堂が叫ぶ。

しかし、言葉とは裏腹、彼らは手を出せずにいた。

そんな皆の迷いを断ち切るのは、土方の一言だった。

 

「取り押さえろ!

多少、手荒になってもかまわねぇ。」

 

言葉を待っていたように、迷わずは刀を抜いた。

その彼女に続いて、永倉は舌打ちを一つ。

「仕方ねぇ。」

「悪く思わないでくれよ、山南さん。」

原田が穂先を向けた。

「千鶴を‥‥殺らせるわけにはいかないんだよ。」

静かに藤堂が告げる。

 

それぞれが刃を向けるのに、伊東は顔をしかめた。

 

「君たち、まさか山南さんを‥‥

勝手なことは、この伊東が許しませんわ!」

甲高いわめき声に、土方は神経質そうに眉を跳ね上げる。

「伊東さん、ここは危険だ。

後はトシたちに任せて、俺たちは部屋から出ていよう。」

それを見越して、近藤は伊東を抱きかかえるように無理矢理部屋から飛び出した。

 

「ありがてぇ。

後はこっちの始末をつけるだけか。」

言葉に応えるように、それぞれの身体から殺気が放たれる。

その中、千鶴は恐怖と、戸惑いで言葉をなくし、

山南は手についた血を口に含んだ。

 

べろりと舐める仕草は‥‥人の物とは思えぬほどおぞましかった。

 

瞬間、が瞳を鋭くし、飛びかかる。

抜き身の刃が、彼の喉元を迷うことなく狙っていた。

次の瞬間、血の雨が降るだろう。

しかし、

 

「待て、!」

 

土方の声が押し止めた。

 

「っ!」

 

その刃は、山南の喉元を貫く寸前で止まっていた。

恐ろしいまでの反応と、力。

でなければ山南の首は、身体から離れていたかも知れない。

 

「山南さん‥‥?」

 

は刀を構えたまま、怪訝そうに声を上げた。

見れば彼は応戦するどころか、苦しげに顔を歪めていた。

「ぐ、う‥‥あ、ああっ!!」

その口から呻き声を上げて、その場に崩れ落ちた。

その手が緩んだ瞬間に、千鶴はに引き寄せられる。

畳の上に彼は倒れ込み、身体を丸めて苦しみをやり過ごそうとしている。

獣の呻り声みたいなそれは‥‥やがて、荒い呼吸へと変わっていった。

 

そして、

 

「わ‥‥私は、いったい?」

 

ぜえぜえと苦しげな呼吸はそのままに、彼は顔を上げて呟く。

その瞳には、理性が戻っていた。

髪の色も。

目の色も。

元に戻っていく。

 

「山南‥‥さん?」

千鶴のおそるおそるといった呼びかけに、彼は苦しげな顔のまま「はい」と答える。

その顔は、いつもの彼のものだった。