「いやー、美味しかったねー、お団子。」

ご満悦の表情でが言う。

「はい!美味しかったです!」

隣を歩くのは千鶴だった。

 

空は、茜から夜色へ染め上げられる。

二人は一足早い湯浴みを済ませ、それぞれの部屋へと向かうべく廊下を歩いていた。

これが夏場であれば廊下を歩いているだけでまた汗だくになるのだけど、春の風は程良い涼しさで気持ちがいい。

 

「私あんな美味しい桜餅、初めて食べました!」

「あはは、あそこの桜餅は美味しいって有名なんだよ。」

 

それぞれが屯所に帰るなり、穏やかな‥‥というよりも賑やかな時間が始まった。

団子はちょっとした争奪戦になり、やはりというか沖田が子供のように三本も四本もいっぺんに奪う。

それを見て藤堂や永倉が文句を言う隣で、原田が今の内にと自分が好きな団子に手を伸ばす。

斎藤は我感せずで茶を啜り、土方はあきれ顔、近藤は笑っていた。

は争奪戦になるのを見越して、二つだけ別に包んで貰った桜餅を千鶴に渡せば、彼女は目を輝かせた。

そして、彼女が入れてくれたお茶を飲みながら、縁側でそれぞれが団子にかじりつく。

 

幹部が雁首揃えて縁側に座って団子を食う‥‥という姿は少しばかり不思議な光景だったなぁと思い出しては笑う。

 

「今日は久しぶりにゆっくりと過ごせたなぁ。」

こんなのんびりした時間は久しぶりだ。

ちょっとばかり、今がどんな時か‥‥忘れそうになった。

 

「また、お団子買って皆さんで食べたいですね。」

「そうだね。」

「土方さんもゆっくり出来たでしょうか?」

「あー、うん、まあ総司が馬鹿やらなければ‥‥出来たんじゃない?」

 

突然どっから取り出したのか分からない帳面を彼が読み上げたりしたから、そりゃ大変だった。

それは土方の俳句をしたためたもので‥‥

まあ、言うなればあまり上手くはないのだけれど。

それを面白おかしく読み上げるものだから、土方は焦りと怒りの表情で彼を追い回す。

当然沖田は逃げ回る。

藤堂や永倉がげらげらと笑ってそれを見守る。

それから守るように斎藤と原田が千鶴の両脇に座って、やれやれと言った顔。

近藤は苦笑、

は傍観‥‥いや、正確にはその全体を見て笑っていた。

 

大変というか。

非常に面白かった。

 

「土方さんも散々だよなぁ。」

 

あれ?

確かあの団子って彼をゆっくりさせる為に買ってきたような気がするのだけど。

と今更思い出して、

 

「まあ、楽しそうだったからいっか。」

 

はくくっと喉を鳴らした。

 

「あ‥‥そういえば今日。」

千鶴は薫と出会った事を彼女にも言おうとして、

しかし、

 

――あら?」

 

おっとりとした声が、重なった。

 

視線を前に向けると、

 

「‥‥伊東参謀。」

「っう‥‥」

 

廊下の先に、伊東の姿がある。

 

千鶴はつい、顔を歪めてしまって‥‥慌てて表情を繕う。

一方は元のままだ。

 

「こんばんは、二人で仲良く汗を流していたのかしら?」

 

口元に笑みをはいたまま、彼が近付いてくる。

何故か「二人で仲良く」という所に含みを感じたが、千鶴は黙っておく事にする。

代わりに、

「はい。」

が短く答えた。

 

「手すきの者からということでしたので、先に頂きました。

申し訳ありません。」

いちいち何かを言われるのも面倒で、はそう言って頭を下げる。

 

伊東は笑みを深くした。

 

その笑みは‥‥少し不気味だ、と千鶴は思う。

 

無遠慮な視線はに向けられている。

じろじろと。

上から下まで、彼は彼女を見た。

 

そういえば。

伊東はをよく構う。

しかも、それは土方や幹部達といる時ではなく‥‥彼女が一人の時、もしくは、千鶴と一緒にいるときに、だ。

そのほとんどが他愛のない会話‥‥だけど、

その視線はいつも同じ。

舐め回すような粘ついた視線。

 

千鶴が見られている訳じゃないのに、背筋が寒くなる。

気持ち悪い――

 

「‥‥‥」

千鶴がきゅっとの着物を掴んだ。

それが気配で分かる。

気持ちは分からなくもない。

他の幹部ほどではないが、も伊東は苦手だと思った。

そのしゃべり方といい、視線といい‥‥少し、いやだいぶ、不気味だと思ったからだ。

 

先を急ごうと思ったのだけど、生憎と伊東が廊下を占領している。

まさか参謀を押しのけて‥‥などという事は出来ない。

「失礼」

と言えばどいてくれるだろうが、それはそれで礼に欠いた行為だ。

 

などと考えていると、

 

「あら、まだ髪が濡れているわ。」

 

そんな声と共に、手が伸びてきた。

 

細い。

白い手。

それは迷うことなくこぼれ落ちる髪の一房に触れる。

 

滑らかな手触りに、伊東は目を細める。

指先が濡れた。

 

の頬を一筋、髪から滴った水が零れる。

 

それは汗のようにも見えた。

 

水は頬を伝い、顎へと至る。

細い顎から落ちる。

 

「‥‥」

 

伊東の手が髪から離れた。

ほっとするのもつかの間、今度は、

 

――っ!?」

 

その顎へと手が添えられた。

 

千鶴はぎょっとした。

 

誰の許しを得てそんな狼藉を働くというのか。

確かに彼は、参謀だ。

よりも立場は上である。

でも、

千鶴にとっては汚してはいけない存在だった。

気高く、そして清らかな存在。

そんな彼女に伊東が触れる。

それは彼女を汚す行為だと思った。

 

「綺麗な‥‥顔。」

 

そ。

と顎を押し上げられる。

否応なく視線は上に。

 

琥珀色の瞳がこちらをじっと見据えていて‥‥

 

澄み切った汚れを知らないそれは。

 

まるで誘うようにも見えて――

 

その真っ直ぐな視線に、彼は魅入られた。

囚われたのは彼の方だった。

 

人前だというのに。

伊東は静かに顔を近づけた。

顎に添えられていた手が、頬を包む。

 

「やっ‥‥」

 

千鶴の口から小さな悲鳴が漏れた。

 

伊東の吐息がの唇を掠める。

 

やめて――

 

心の中で叫んだ。

 

 

「伊東参謀。」

 

まるで、その声に応えるように。

声がその動きを止める。

 

「っ‥‥」

 

伊東は弾かれたように手を離して振り返った。

そこに立っていたのは斎藤だった。

「局長がお呼びです。」

淡々とそう告げる彼が、千鶴には天の助けに思えた。

言われた伊東は、「そ、そうね」と少し慌てた様子で答える。

それから、ちらと一度だけを見て、

「今参ります。」

衣を翻すと、すたすたと足早に立ち去った。

 

「‥‥っ‥‥」

ほ。

と千鶴の口から安堵のため息が漏れる。

 

あれは‥‥

確かに口づけようとしていた。

 

伊東の熱の籠もった瞳を思い出して、千鶴はぶるりと震える。

 

何がどう、と聞かれると分からない。

ただ、あの瞳は気色が悪かった。

生理的に受け付けない。

自分がされたわけじゃないのに、頬や顎を拭うように何度も擦った。

 

「‥‥どうかしたのか?」

 

斎藤が近付いて問いかける。

彼からは伊東の背しか見えず何が起きていたのか分からないだろう。

青ざめる千鶴を見て、それからへと何があったのかと問いかけた。

 

「‥‥なんでも。」

 

はそれだけ答える。

素っ気ない声だった。

 

さ‥‥」

「‥‥私先に戻るね。」

 

そう残すと、彼女はさっと歩き始めた。

 

「何か、あったのか?」

 

斎藤はの背中から千鶴へと視線を向ける。

一瞬、千鶴は言っていいものなのかと悩んだが、

 

「‥‥」

 

斎藤の目が心配そうだったから、

 

「実は。」

 

千鶴は口を開いた。

 

 

 

どすどす。

といささか乱暴な足音が聞こえる。

乱暴で、

ちょっと急ぐような足音。

 

その音で我に返ったは、自分がいつの間にか部屋に戻ってきていることに気づいた。

そしてその瞬間にはその足音の主を察知する。

 

振り返るのと同時、

 

。」

 

襖が開かれる。

 

現れた不機嫌そうな顔に、は苦笑を浮かべた。

 

「一応、断りくらい入れてくださいよ。土方さん。」

着替えとかしてたらどうするんですか?

「その時は謝るさ。」

そう答えて、土方は邪魔するぞと部屋に上がる。

襖を後ろ手に閉める彼を見て、はどうぞと身体をずらして座る場所を提供した。

土方はすたすたと歩いてきて、しかし、

 

す。

 

膝をついたのはの真ん前だ。

 

「え?」

 

驚いて顔を上げれば、不機嫌そうな顔が思ったより近くにあってびっくりする。

 

「何もされてねえか?」

 

唐突な問いだ。

しかし、

は察した。

 

「‥‥一の奴‥‥喋ったな。」

いや、大元は千鶴だ。

斎藤に喋ったらしい。

伊東にされそうになった事。

そりゃ言うだろうなぁ。

は思った。

 

目の前で口づけられそうになっていたのだ。

千鶴なら絶対に斎藤に言う。

で、斎藤は斎藤で、絶対に土方に言うだろう。

 

「されてませんよ。」

 

は苦笑で答える。

本当だ。

口づけるつもりだったかどうかはしらないが、未遂だ。

 

そう答えるが、土方は納得してくれない。

相変わらず不機嫌そうな顔でこちらを見ている。

 

「大丈夫ですって。」

ホントに。

それよりも、

「千鶴ちゃんの方を見てあげてくださいよ。」

目の前でそんなのを見せられた彼女の方が心配だ。

あの粘着質な視線だけで彼女は嫌悪感を露わにしたのだ。

横で見ていて相当気持ち悪かっただろうし、

何より止められなかった事に自分を責めかねない。

気にする事はないのに。

 

抵抗しなかったのは自分だ。

それに、

 

「口づけくらいなんてことない。」

 

はきっぱりと言い放つ。

 

例えば、伊東が自分に口づけたとしても。

乱暴に犯されたとしても。

自分は平気だ。

それを種に彼の弱みを握る事が出来る。

もしくは、局中法度違反として土方に罰して貰う事もできる。

 

そうすれば彼を御するのは簡単ではないか。

自分の身一つでそれが可能になるのならば安いものだ。

 

その言葉に、土方は不機嫌そうに眉を跳ね上げた。

 

「そんなこと、しやがったのか?」

 

低い声で言われて、は「え?」と小さく声を上げた。

 

「伊東の野郎、おまえに口づけやがったのか?」

 

「いや‥‥そうじゃないですけど‥‥」

 

は首を振った。

それから、あれ?と声を上げる。

 

「一から聞いたんじゃないんですか?」

 

問えば、彼は不機嫌な顔のまま答える。

 

「俺が聞いたのは、おまえが伊東に何かされたらしい‥‥って事だけだ。」

だから様子を見に行ってくれと言われてここに来たらしい。

なるほど。

では自分が口づけられそうになった‥‥という事は千鶴も言ってないというわけで。

 

ああ。

まずい。

しくじった。

 

は不機嫌な顔のままの土方を見て自分の失言を呪う。

 

なんでもない。

ただ立ち話をしただけだと言えばそれで済んだのに、よりにもよって自分で吐いてしまうとは。

 

「おまえらしくもねえな。」

「‥‥失言でした。」

「で、口づけられたのか?」

「されてませんよ。」

 

未遂です。

答えるが、しかし彼は眉間の皺を解いてはくれなかった。

 

「口づけられても平気なのか?」

 

自分がこぼした言葉を復唱されて、はこっくりと頷いた。

平気だと、彼女は答える。

しかし。

 

「‥‥じゃあ、なんで、そんな青ざめた顔してる。」

 

怒りを押し殺したような声。

それで言われて、ははっとする。

 

青ざめた顔?

 

「‥‥してるんですか?」

 

自分は今。

そんな顔をしているのだろうか?

 

問いかけに、土方は鼻の頭に皺を寄せた。

更に不機嫌そうな顔で、

 

「それも分かってねえとは重傷だな。」

 

相当ひどい顔だ。

そう答えた。

 

この部屋には生憎と鏡がない。

確かめようもないが、嘘は言っていないのだろう。

つまり、

今自分は青ざめた顔で‥‥

それの原因は、今のところ、あれしかないわけで‥‥

 

「‥‥嫌だったんだろう。」

 

かもしれない。

 

言われてはは、とため息を漏らした。

視線が僅かに伏せられる。

それが震えている事にさえ、彼女はきっと気付いていないだろう。

 

「なんとも‥‥思ってなかったんですけどね。」

「おまえは自分の事に疎いからそう思ってるだけだ。」

 

怖いとか、嫌だとか、そんな事は思わなかった。

ただ。

自分は立っていただけ。

立って、時が過ぎるのを待っていただけ。

それだけだと思ったのに。

 

「‥‥何をされた?」

「だから、なにも。」

 

土方はもう一度問うけど、はやっぱりそう返した。

だって本当に何もされていない。

された事と言えば、

 

「髪‥‥」

「髪?」

「触られたくらいです。」

 

そう、それから、

 

「あと顎‥‥」

「顎だと?」

 

思い切り土方は眉間に皺を寄せた。

そりゃそうだ。

男相手にそんな事普通しない。

彼がを女だと気付いていたならまだしも‥‥だ。

もしかしたら伊東参謀は『男色家』なのかもしれない。

ああなるほど、そうだとしたら納得がいく。

は華奢で‥‥綺麗な顔立ちだ。

男を好むとして、彼女は好まれる容姿をしている。

 

「あと‥‥」

 

頬。

と告げる前に、そっと、その頬を大きな手が包み込んだ。

 

「‥‥‥」

 

土方の手だ。

少し冷たい、武士特有のごつごつしたそれ。

決して手触りがいいわけではないその感触が、は何故かほっとした。

表情が緩んだのを見て、土方は掌で彼女の頬を包み込む。

 

「‥‥多分、嫌だったんです。」

は安堵のため息を漏らして呟く。

「だろうな‥‥」

土方はいつもよりも小さな声で答えた。

 

掌に伝わるのは、思ったよりも柔らかで、なめらかな肌。

吸い付くようなそれがあまりにも気持ちよくて、確かめるように親指の腹で目元を撫でた。

そうすれば、くすぐったいですよと彼女は目を苦笑でこちらを見る。

澄み切った琥珀の瞳を近くで見ると、吸い込まれそうで、なるほど、誘われる気分は分からなくも、ない。

伊東の気持ちが分かるのも複雑だと苦笑を零し、土方は口を開いた。

「おまえ、もう伊東と関わるな。」

今日は触れただけで済んだかもしれない。

でもこれじゃ次に何があるか分かったもんじゃない。

「関わりたくなんかないですよ。」

私だって。

は言った。

「でも、あっちが近付いてくる。」

「じゃあ逃げろ。

幹部連中か、俺の所に来い。」

幸い他の幹部連中がいる時はに近付く事はないらしい。

「傍にいないときは?」

「‥‥大声を張り上げろ。」

得意だろう?

と言われてはくすっと笑った。

「助けて‥‥って?」

「ああそうだ。」

答えながら彼の目元が柔らかくなる。

頬を包み込んでいた手がそっと‥‥離れた。

温もりが離れていくのが‥‥少し名残惜しい。

そんな事を考えるなんてよほど参っていたのだろう。

それを誤魔化すみたいに拳を握りしめた。

 

「すぐに駆けつけてやるよ。」

 

にやりと彼が悪戯っぽく笑う彼の言葉が、何より心強いと思った。

 

「さて‥‥俺はそろそろ‥‥」

言って立ち上がる。

 

瞬間――

 

 

「誰か――助けてください!」

 

 

夜空を劈く声が聞こえた。

 

それは切羽詰まった、彼女のそれで。

 

「っ千鶴ちゃん!?」

 

土方とは揃って部屋を飛び出した。