闇色と。
血の色。
どちらが濃いというのだろう。
世界はその二色で染められる。
彼らの歩んできた道は、
塗りつぶされる。
黒と。
赤。
その二色に。
果たしてどちらの色が濃いというのだろう。
闇と。
血は。

1
慶応三年、三月。
穏やかな春の風に誘われるように、は目を細めた。
いつもよりも随分と穏やかでのんびりとした表情。
纏う空気は柔らかく、それでいてどこか浮き足だったような足取りだ。
「なにか‥‥嬉しい事でもあったのか、?」
呼びかける声は笑みを含んでいる。
は勿論、と振り返った。
満面の、それはそれは無邪気な笑顔で。
「近藤さんとのんびり買い物‥‥なんて嬉しい以外のなにものでもないですよ。」
新選組局長‥‥ということで、彼が外出する事は滅多にない。
いつ、誰に狙われるか分からない危険性もあり、何より、過保護な土方が一人で出歩く事を許さない。
いつも仰々しく連れ立って歩く。
それがあまりに目立つので気分転換に外に‥‥などという事は出来ず、必要最低限外に出ないようにと思っていたのだ。
それが、今、供は一人。
おまけに巡察でもお偉方に挨拶するでもなく、
漠然と、買い物‥‥と称してだ。
普段局長として忙しいのは分かっているし、外に出られない理由も分かっている。
それだけには一緒に外に出られるのが嬉しい限りだった。
足取りは軽い。
鼻歌まで歌い出した。
「ははは。そう言ってもらえると誘った甲斐があったってもんだな。」
近藤は満足げに笑った。
決して。
世の中が平和になったわけではない。
長州は相変わらず存在し、しかし、今は形を潜めている。
おまけに、慶喜公が将軍に就任してから、僅か二十日後にして突然、天子様が崩御した。
後を継ぐ親王は、僅か十五歳の少年だという。
世間は揺れに揺れた。
急速に何かが動き始めようとしている。
今、穏やかな時間は‥‥
その嵐の前の静けさのようなものだろう。
本来なら。
そんな時こそ危ないのかも知れない。
何事もない穏やかな時間こそ、油断が生まれる。
そんな時が危ないのかもしれないけれど‥‥
「近藤さん、を連れて‥‥のんびりしてきてくれ。」
土方は言った。
のんびりしたいのは彼の方だろうに、
「あいつに、ここ暫く休みをやってねぇ。
一人だと勝手に仕事をしやがるから、連れ出してくれ。」
彼はそう言った。
確かに、近藤と共にいるのであれば、は決して仕事の面を見せないだろう。
己の冷酷さや醜悪さを彼に見せたくないのか、それとも彼と一緒にいるときくらいは穏やかな時間を過ごしたいのか。
それは分からない。
だが、近藤が、
「一緒に町に行こう」
と言えば迷わず頷くし、そこに仕事を持ち込むような無粋な事はしない。
喜んでお供するだろう。
相手が近藤なら、尚更、だ。
「だから、連れ出してくれると助かる。」
そう土方は苦笑を漏らしたが、それと同時に近藤にも気分転換をしてほしい‥‥そんな意図もあったのだろう。
未だ。
先行きは見えない。
その中にあって、気分ばかりが急く。
急いたところで自分たちに出来る事など限られていて。
それがまた、
苛立ちや焦りを生む。
ただでさえ近藤は新選組という大きな物を背負っている。
だからこそ、気分転換を。
そう進めたのだ。
「気分転換したいのは、トシも一緒だろうに。」
近藤はぽつっと呟いた。
彼の顔は、ますます厳しくなるばかりだ。
優しい顔を知っているだけに、近藤はそんな顔をさせているのが心苦しかった。
「それ、本人に強く言ってやってくださいよ。」
くすくす。
と笑い声が聞こえてそちらを見る。
が笑っていた。
「気付いてました?土方さんの眉間の皺‥‥どんどん濃くなる一方。」
ここ。
と己の眉間に指を立てる。
「あれ絶対定着しますよね。」
いつもしかめっ面してるから。
「折角綺麗な顔してるのに勿体ないと思いません?」
「確かに。」
近藤は賛同する。
「だからね、私笑わそうとするんですけど‥‥」
腕を組み、うーんと唸って、
「なんでか、逆に怒らせる結果になっちゃうんですよ。」
そんな言葉に近藤はなるほど、と呟いた。
沖田と一緒に悪戯をするのはそのためか。
と、信じてしまうあたり、彼は人がいいというかなんというか‥‥
「たまには休めーって言ってやってくださいよ。
私が言っても聞きやしないんだから。」
の言葉に、近藤は苦笑を漏らした。
土方もにだけは言われたくないだろう。
この二人ときたら、仕事三昧でいつか過労で倒れてしまいそうだ。
「だけど、俺が言ってもトシは聞いてくれるか?」
「大丈夫です。近藤さんの言う事なら聞きます。」
いや、むしろ。
とは胸を張る。
「‥‥強引にでも休ませます。」
殴ってでも。
そんな物騒な言葉に、近藤は爆笑を漏らした。
「その時はお手柔らかに頼むぞ。
トシが倒れたら俺は大変だ。」
今頃、屯所で仕事をしている彼はくしゃみでもしている事だろう。
「よし、トシにも土産を買って帰ろう。
何にしようか?」
「そうですね‥‥」
は首を捻る。
「疲れてるときは甘い物がいいって言いますし。」
あたりを見回すと、丁度いい所に団子屋を発見した。
「団子なんてどうですか?」
「おお、いいな!
俺も丁度団子が食いたいと思っていた所だ。」
近藤は笑って頷いてくれる。
「それじゃあ、団子を買って帰るか。」
いそいそと団子屋へと近付く彼に並んで歩きながら、は言った。
「因みに、平助はみたらし、新八さんは草餅が好きですよ。」
すかさず幹部の好みを言うと、近藤は分かってるよと漏らした。
それから、
「雪村君は何が好きかな?」
当然のように。
彼女の名を挙げる。
は目を細めた。
「彼女は‥‥その桜餅にしてあげてください。」
帰ったら、美味しいお茶とお団子で一休みしようと彼を誘い出そう――
はうるさくなるだろうその瞬間を想像して、くすくすと笑った。
同じ青空の下。
彼女もまた、足取り軽く通りを歩いていた。
ふわふわと誘うような風が気持ちいい。
そのまま大きく伸びをしたい気分だ。
そう考えて、
くすり、
と聞こえた苦笑に、千鶴は慌てて我に返る。
そうだ。
今は巡察の最中だった。
それを思い出すと、姿勢を正した。
「いいよ。急がなくたって。
どこか行くあてがあるわけじゃないしね。」
そんな彼女に気付いたか、沖田は笑いながら言った。
「散歩だと思って、ゆっくり行けばいいよ。」
その声は、以前よりも少しだけ穏やかだ。
ここ数日。
平和な日々が続いている。
そのお陰で、気分が緩んでしまったのかもしれない。
千鶴はいけないいけないと頬を叩いて引き締めると、ふとそれを思い出して口を開いた。
「伊東さんは畿内から戻ってきているんですか?」
問いかけに、沖田はひょいと肩をすくめた。
「そうみたいだね。
帰ってこなくても、一向に構わなかったんだけど。」
「確か、同士を募りに畿内を廻ってきたんですよね?」
「っていう話だけど、果たしてあの人、どこまで行ってきたのかなぁ。」
どこまで。
言葉に千鶴はひょいと首を捻る。
「‥‥畿内より遠くに行ったとしたら、伊東さんは新撰組思いの人ですよね。」
言葉に、沖田は苦笑を漏らした。
「うん、君ならそう言うと思ってた。」
くすくすと笑われて、
「沖田さんは違うと思ってるんですか?」
千鶴は問う。
「違わないと思うよ。」
ゆっくりと足が止まる。
一緒に千鶴も足を止めると、彼を見上げた。
ぽつりと、
「伊東さんなんて、早く斬っちゃえばいいのに。」
あまりに普通に出てきた言葉に、千鶴はぎょっとした。
何故なら彼は新撰組の同志なのだ。
そんなことを聞かれたら、内部でもめ事でも起きるんじゃないか?
千鶴は慌ててあたりを見回した。
誰にも聞かれてないよね?
と見回したとき――
「あれ?」
人混みの中に知った顔を見つけた。
見紛うはずはない。
自分とそっくりという顔立ち。
それはあっという間に人混みの中に消えていく。
「――薫さん!」
「ちょっと!」
思わず駆け出そうとした千鶴を沖田が鋭く呼び止めた。
でも。
今追わないと彼女を見失う。
ここで見失ったら二度と会えないかもしれない。
確かめたかった。どうしても。
そう思うと、いてもたってもいられなくて。
「ごめんなさい、沖田さん!
どうしても確かめたいことがあるんです!」
千鶴は沖田の制止を振り切って、人混みの中に飛び込んだ。
小さな姿はみるみるうちに飲み込まれていく。
「勝手な行動は慎めって、いつも言ってると思うんだけど‥‥」
その後ろ姿を見送りながら、沖田は呆れたように言葉を漏らす。
即座に走れないのは彼の後ろには隊士がいるからだ。
こっちの身にもなってほしいなと言いながら、彼は側にいる一人に、ここで待つように言ってからその後を追った。
「薫さん!」
全力で走って、ようやく千鶴は薫に追いついた。
呼び止められ一瞬、目を丸くする。
「あの、私のこと、覚えてますか?」
問いに一瞬、困惑の表情を浮かべ、
「ええ、新選組の人と一緒にいた人ですよね。」
覚えてますよと答える。
驚きの表情を浮かべたその顔は、なるほど言われてみると似ている気がした。
「いきなり追いかけてごめんなさい。
あなたにちょっと、聞きたいことがあって‥‥」
似ている。
そう言われたからこそ、確かめなければいけないと思っていた。
三条大橋で新選組の邪魔をしたのが、薫なのか違うのかと言うこと。
「前に新選組の人が、三条大橋の近くで私とよく似た子を見たらしいんです。」
それって。
と伺うように千鶴は顔を見る。
「もしかし、薫さん?」
問いに、その人は顔色を一つ変えない。
「三条大橋は普通に通るところですよ。」
何か問題でも?
と言われて千鶴は自分の言葉が足りないことに気づく。
慌ててええとと付け足そうとすると、薫は目を細めてふふっと笑った。
その笑みはやけに艶っぽくて‥‥その表情は自分とまったく似ていない気がする。
そんなことを思った。
「もしかして、あなたが聞きたいのは、夜に行ったことがあるかどうか‥‥じゃないかしら?」
艶めいた口元のままにそう言われ、一瞬、千鶴は目を丸くする。
その口元はやけに楽しげに歪められていた。
まさか、
と口が動いた。
「‥‥もしも、それが秋の晩で薫さんが新選組の邪魔をしたなら――」
固い声音で告げる千鶴に、
「もしそうなら、問題大ありだね。
君には死んでもらうことになるけど。」
沖田の笑みを含んだ声が重なった。
「沖田さん!?」
いつの間に追いついたのだろう。
彼は側に立っていた。
その姿を認めると、薫は艶っぽい笑みを消した。
穏やかな女らしいそれに戻って、
「あら、新選組の沖田さんじゃありませんか。
いつぞやはどうもありがとうございました。」
軽く会釈をする。
それを沖田は無視した。
「で答えはどっち?
心当たりはあるの?ないの?」
笑顔のまま答えを求める。
その表情は笑顔なのに、動きには隙がない。
それどころか、いつでも抜刀できる‥‥そんな状態で千鶴はぞっとした。
薫の返答次第では、次の瞬間に血の雨でも降るんじゃないかと、思った。
「死んでもらうなんて。
そんな怖いこと、言わないでくださいな。」
薫が僅かに表情を曇らせる。
「三条大橋なんて、昼間は誰でも通るところじゃないですか。
それに夜なんて‥‥
あの制札騒ぎで怖くて近づけやしません。」
不安げな顔で言われて、沖田は笑顔のまま目だけをすいと細めた。
彼女の言葉の真意を探る、そんな風に。
「なのに、ただ顔が似てると言うだけで私を疑うなんてひどいです。」
そんなの知りません。
悲しげに顔を伏せるので、千鶴は慌てて頭を下げた。
「あ、ごめんなさい!
違うなら、それでいいんですっ!」
謝られて、薫はほっとした表情を浮かべた。
やっぱり‥‥
「薫さんなわけないですよね。」
千鶴は沖田へと視線を向けて呟いた。
しかし、沖田は厳しい眼差しを向ける。
「どうしてそう思うの?
女の人だから?それとも、自分と似てるから?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど‥‥」
千鶴は口ごもる。
後ろめたさから言葉は尻つぼみになった。
彼の言うとおり、
薫が普通の女の子だから犯人じゃない‥‥そう思っていたからだ。
か弱い女に、新選組の邪魔なんてできない。
そう、思ったから。
「それじゃ、私、失礼します。」
返事に窮していると、薫がそう言って背を向けてしまった。
「あ、薫さん‥‥」
それはまるで逃げるように。
人混みの中にその背中は消えてしまった。
薫をかばってよかったのだろうか。
本当に薫ではなかったのだろうか。
もう一度追いかけて確かめた方がいいだろうか。
そんなことを人混みを見つめながら考えていると、背後から咳の音が聞こえてきた。
「‥‥こほっ、こほっ!」
振り返ると、沖田は前屈みになって激しく咳き込んでいた。
「沖田さん!大丈夫ですか!?」
問いかけながら、千鶴は駆け寄る。
「‥‥来るな!」
その彼女を、沖田は手で制した。
「っ!?」
自然と足が止まった。
「大丈夫、だから‥‥君はそこでじっとしていて。」
咳の合間に彼はそう言う。
言葉より、彼の身体から立ち上る気迫に圧され、千鶴は立ち尽くした。
以前のように底冷えするような冷たい目ではなかったけれど、彼は近づくことを許してはくれなかった。
やがて、咳は止まる。
「あの、沖田さん‥‥本当に大丈夫ですか?」
おずおずと訊ねる。
「‥‥なにが?」
あらためてこちらをむいたその顔は、楽しげな笑みをたたえていた。
少しだけ顔色が悪いことを別にすれば‥‥いつもの彼だ。
「何がって‥‥」
千鶴は僅かに顔を顰める。
「と、とにかく、どこかで休みませんか?
沖田さん、すごく苦しそうに見えましたし‥‥」
「君のせいでここまで走らされたからね。
それで疲れただけだよ。」
「でも。」
更に言いつのろうとするのを沖田は「それより」と遮った。
そして同時に表情は厳しいものへと変わる。
「彼女‥‥薫さんのことだけど。
制札事件のこと、確かめたかった気持ちはわかる。
大事なことだからね。」
真剣な声に、千鶴の背中もいつしか伸びた。
そう、確かめたかった。
彼女が敵なのか味方なのか。
新選組に仇なすものなのか、そうじゃないのか。
確かめたかった。
「でも、それなら尚のこと、一人で動くべきじゃない。
敵が現れたら君一人で対処できる?」
「それは‥‥」
「無用の心配だって言い切れる?
彼女が君をおびき寄せるつもりだったとしたら?
この場所は格好の襲撃場所だよ。」
正論に千鶴は返す言葉がない。
ただ、彼の言うとおり自分が浅慮だったと気づかされるばかりだ。
「‥‥はい。」
「一緒にいる以上、行動には注意してもらわないと。
自分は役立たずの子供だって、自覚しなよ。」
「‥‥すみません。」
しゅん、と肩を落とす。
少しでも役に立てたら‥‥そう思う気持ちが空回りした。
まただ。
と自分の無力さに泣けてくる。
本格的に沈む彼女を見て、沖田はやれやれと肩をすくめる。
「お説教はここまで。」
その表情が厳しいものから、今度は呆れたそれに変わった。
「妙な遠慮はやめなよ。
頼るべき時は、頼ればいいんだからさ。」
呆れながらも、彼は笑みを浮かべてそう言ってくれる。
それが嬉しくて、千鶴は沈んでいたその顔を明るい物へと変えた。
しかし、それからすぐに、
「まあ、今更迷惑だなんて思わないからさ。
散々かけっぱなしだからね。」
悪戯っぽく笑われて、千鶴はううっと小さく呻く。
それでもそれ以上に落ち込まないのはきっと、沖田の呆れた表情の中に、優しさを感じたからだ。

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