14

 

いつの間に眠りについていたというのだろう。

気がついたときにはあたりは明るかった。

僅かに開く襖から差し込むのは朝日で‥‥

 

いつの間にその腕の中から逃れていたというのだろう。

手の中に温もりはなかった。

「幻みてえな奴だな。」

土方は呟く。

手に掴むと、消えてしまう、幻みたいだと。

夢でも見ていたのだろうか‥‥と彼はそう思った。

しかし、

僅かに、

残るのは彼女の移り香。

 

確かに彼女がいた、証。

 

甘いそれに包まれて、土方はそっと目を細めた。

 

 

 

「‥‥」

 

朝早くから、は庭に出て、一人縁台に座っていた。

自分の膝を抱えて、それに顎を乗せて一人難しい顔をしている。

 

「最悪。」

 

ぼそ。

と呟いた声は、低い。

 

昨夜も同じように、これまた縁側で「最悪」だと呟いていたと思い出して、更に顔を顰めた。

 

昨夜は結構酒を飲んだ。

いろんな事を忘れたくて、飲んだというのに‥‥この頭はどういう事か覚えている。

 

苛立つままに彼に当たって、その手を乱暴にはね除けたくせに‥‥

酒に溺れて、

結局彼の所に転がり込んでしまった。

あげく、彼にしがみついて泣き言、なんて、

未だかつて自分がそこまで弱音を吐いた事なんて無かったのに。

ああ、本当情けない。

 

おまけに、自分は言いたい放題言って、疲れて眠ってしまって‥‥

何も言わずに彼の元から逃げてきたのだ。

そう、謝罪の一言もなく、

逃げてきた。

 

「‥‥顔‥‥合わせにくいなぁ‥‥」

 

は呻く。

 

起きたらすぐ目の前に彼の顔があって、驚きに声が出そうになったのを思い出す。

それを寸前で止めて、まじまじと見れば、土方の綺麗な、無防備な寝顔だと分かった。

 

寝ぼけた頭は一瞬、事態を飲み込めず、

しかし自分を抱きしめる逞しい腕に、昨夜のそれを思い出した。

一瞬にして全てを思い出した瞬間、顔から火が出た‥‥

で、気付いていたら取るものも取らずにその腕から這い出て逃げてきた。

 

今思い出しても、

 

「はずかし‥‥」

 

普段、あまり恥ずかしいと思ったりはしないが、アレは非常に恥ずかしい。

情けない以上に恥ずかしい。

 

こわい、だって?

ガキじゃあるまいし。

鬼副長の助勤が「こわい」ときた。

そんな言葉、他の幹部の前で言ったら笑い飛ばされるに決まってる。

なんて似合わない事を言ったんだ。

ああもうどうかしてる。

いや確かにどうかしてた。

昨夜の自分は絶対おかしかった‥‥

 

「もう‥‥」

 

はぁ。

はため息を零した。

 

ふいに、

 

ふわ、

 

「‥‥ぁ‥‥」

 

と香るにおいに気付いた。

自分が纏うにおいではない。

それは、

彼のにおい。

それが、自分を包んでいる。

移り香だ。

 

「そりゃ‥‥においも移るよな。」

 

は一人ごちる。

 

彼にだってのにおいが移ったに違いない。

あれほど強くしがみついた。

あれほど、強く、

 

「‥‥」

 

は思い出してそうっと目を細めた。

 

思い出したのは、彼の腕の強さと温もり。

 

「‥‥あんな、強く抱きしめられたの‥‥初めてだ。」

 

折れてしまいそうなほど、強く。

だけど、

泣きたくなるくらいに優しい抱擁は、

初めてで。

 

「‥‥」

 

は彼の腕の強さを思い出すように、己の身体を抱いた。

ふわりと包み込む香り。

まだ、彼に抱きしめられているような気がして‥‥

は気恥ずかしく思った。

だけどそれ以上に、安心できる自分が、不思議だとも――

 

 

 

じゃり。

と思ったよりも近くで聞こえた足音に、は飛び跳ねるようにして、身を起こす。

 

少し、眠っていたらしい。

 

反射的に柄へと手を伸ばし、は振り返る。

振り返ると、

「!?」

そこには千鶴の姿があった。

の反応に千鶴は驚きに目を見開くが‥‥それはも同じ事だった。

 

昨夜の、

薫の話を思い出したからだった。

 

知らず、

久遠から手を離していた。

『雪村家の刀』

と言われたそれに。

触れるのを嫌がるように。

 

「‥‥どうか、した?」

 

思ったよりも硬い声がの口から漏れる。

瞬間、千鶴ははっと何かに気付いたようなそれになり、やがて、青い顔で俯いてしまう。

ああ、怖がらせてしまったのだろうか。

は慌てて強ばった表情を解く。

同時に構えも解いて、安心させるように苦笑を浮かべた。

「ごめん、ちょっと居眠りしてて‥‥」

「‥‥」

「驚かせちゃったよね。」

ごめん。

と謝る彼女に、千鶴は唇を噛んで首を振った。

 

「謝るのは‥‥私の方です。」

「‥‥え?」

「ごめんなさい。」

 

千鶴は深々と頭を下げた。

謝罪の言葉に、は一瞬面食らった。

 

謝られる理由が見あたらなかったからだ。

 

「ごめんなさい‥‥」

震える声でもう一度、千鶴が謝るのに、

「ちょ、ちょっと待って千鶴ちゃん。」

はわけが分からないと声を上げた。

 

「何を謝る必要があるのさ?」

と訊ねると、だってと、声に泣き声が混じる。

 

「私のせいで‥‥沖田さんがっ‥‥」

沖田さんが‥‥

 

言葉には一度、双眸を細めた。

 

彼女の言わんとしている事が、分かった。

 

昨夜、彼が羅刹となった時‥‥

屯所の中に千鶴はいた。

きっと彼女の事だ。

鬼に襲われて、一番に沖田の元へ走ったに違いない。

床に伏せる彼の身を案じて。

そして、多分、

その時に何者かに襲われた。

鬼‥‥あるいは、血に狂った羅刹。

 

沖田が日に日に弱っているのは知っていた。

長く戦えないであろう身体になった事も。

そして同時に、そんな自分に苛立ちを覚えていた事も。

だから、もし、強靱な肉体を手に入れる事が出来るとしたら‥‥

近藤の為に刀を振るえる事が出来るとしたら‥‥

彼は迷わず手にしただろう。

その方法を。

 

‥‥変若水を‥‥

 

誰が与えたのか分からない。

いや、もしかしたら彼も山南のように‥‥自ら望んだのかも知れない。

その力をもって、彼は‥‥戦ったのだろう。

羅刹になって。

 

 

「君の‥‥せいじゃないよ。」

はゆったりと首を振った。

それは彼女を安心させる為についた嘘ではない。

本当だ。

どのような事態で彼が変若水を飲む事になったのかは分からない。

でも、選んだのは沖田だ。

誰かに言われて飲むような人間じゃない。

無理矢理飲まされるくらいなら舌を噛みきって‥‥いや、相手ののど笛に食らいつくのが沖田総司という人間だろう。

それに、

多分羅刹の力は、彼が今欲していたものだと思う。

あの時の、山南と同じように。

彼は力を欲していた。

戦う為の力を。

 

「総司が望んだ事だ。」

「違いっ‥‥ます‥‥」

「違わないよ。」

が声音を緩めて言う。

優しい響きの声は、全てを許そうとしてくれる。

一瞬、

それに甘えそうになった自分が酷く恥ずかしかった。

千鶴は細い息を飲み、その手を振り払うみたいに、

「私のせいなんです!」

と叫んだ。

 

思ったよりも大きな声に、は驚きに言葉を失う。

千鶴は瞬きの弾みで落ちた涙をぐいと手の甲で拭って、どうしても震えてしまう声で、続きを紡いだ。

 

「私の兄が‥‥与えたんです。」

 

彼に、変若水を。

 

どくと、鼓動が一つ、鳴る。

 

私の兄。

そう呼ばれるのはきっと‥‥

彼女と瓜二つの顔をした、あの男。

 

『静姫』

 

自分をそう呼んだ、男。

 

血がざわめくようで、は一度、落ち着かせるように息を吐いた。

 

「薫さん‥‥だね?」

 

言葉に、千鶴は漸く顔を上げた。

罪悪感に歪められた瞳は、だけどの視線をしっかと受け止めようと、まっすぐにこちらを見つめている。

 

顔は‥‥確かにそっくりだった。

別人だと信じられないほどに、顔立ちはそっくりだった。

だけど、その瞳は違う。

彼の瞳には‥‥暗い色が、あった。

 

「幼い頃、離ればなれになった兄‥‥だそうです。」

「そう。」

「兄は‥‥私を恨んで‥‥沖田さんに変若水を飲ませたんです。」

「君を恨んで?」

 

何故?

と問えば、千鶴は悲しげに瞳を揺らした。

 

「私が‥‥何も知らずに幸せそうに笑っているから。」

 

それが、ひどく気に障ったから。

自分は苦しかったのに。

それを知らずに幸せに暮らしていたのが、許せなかったから。

 

だから、

 

「私を苦しめる為に‥‥沖田さんを‥‥」

 

千鶴を傷つけるのではなく。

千鶴の大切な人を傷つけたのだ。

より、千鶴を苦しめるために。

 

「ごめんなさい‥‥」

 

私のせいです。

 

「私が、沖田さんを好きだから。」

 

だから、彼は巻き込まれた。

彼は関係ないのに。

彼は、自分の事など何とも思っていないのに――

 

「沖田さんは、関係‥‥ないのに。」

 

じわと目頭が熱くなる。

視界が歪んで、千鶴はそれを堪えるみたいに唇を強く噛みしめた。

それこそ、血が滲むくらいに強く。

 

「千鶴ちゃん。

駄目だよ、そんなに強く噛んだら切れてしまう。」

は言う。

震える吐息が噛みしめた唇の合間から零れた。

「ごめ、なさっ‥‥」

「もういい‥‥」

やめて。

は悲しそうに、目を細めた。

「っ‥‥」

千鶴はそれ以上もう何も言わず、俯いたまま微かに肩を震わせた。

 

何が‥‥いけないというんだろう。

 

は思う。

 

彼女の何が、いけなかったというんだろう、と。

 

 

どこにでもいそうな普通の子。

その身に流れるのは人と違う血というだけで外見は同じ。

ただの人。

一人の女の子。

だというのに、血のいい女鬼だから、と鬼に追い回され‥‥

たった一人の肉親には、幸せに笑っているからと疎まれ、

あげく、

愛する男を化け物に変えさせてしまった。

 

それは、彼女のせいではないはずだった。

 

何がいけないというのだろう。

ただ、千鶴は必死に生きていただけだ。

 

父親を探しに京に来て。

新選組と出会って。

そして、彼に惹かれただけ。

 

なのに‥‥どうして彼女が傷つく事があるのだろう?

 

「人ではない事は‥‥罪なのかな?」

 

はぽつんと呟いた。

 

人ではない事は。

罪なのか。

人ではない者は。

幸せになってはいけないのか。

 

‥‥もし、そうだとしたら、

 

「私も‥‥」

 

いずれ、

自分も‥‥

 

彼女のように、大切な人を苦しめる日が来るのだろうか?