13

 

伊東暗殺、そして御陵衛士のへの襲撃は、後に油小路の変と呼ばれるようになった。

 

その事件の最中、鬼の襲撃により、新選組には大きな被害が出た。

風間によって何人もの隊士が命を奪われた。

屯所の中では羅刹に襲われた沖田が、変若水を飲んで羅刹となった。

そして油小路でも鬼に襲撃され、藤堂が瀕死の重傷を負い‥‥変若水を飲む事となった。

 

二人の人間が‥‥羅刹となった。

 

彼らは見ている。

羅刹となった隊士達が、血に狂い‥‥やがて死んでいくのを。

何度も見ている。

そして、

屠ってきた。

 

彼らも。

いずれ。

狂う事があるというのだろうか。

彼らも、

いずれ、

自らの手で屠るときが、来るのだろうか。

 

 

 

「‥‥何、してんだ。」

土方は自室に入るなり顔を顰めた。

今日は慌ただしい一日だった。

亡くなった隊士の弔い、羅刹になった二人の様子を見て、あちこち走り回って、それからそれから‥‥

もう何をしたか覚えていない。

ただひどく疲れた。

疲れた身体で走り回ったのは、目の前のその人を探し回っていたからで、

「何してんだ、。」

ひどく不機嫌な声が漏れた。

 

必死に探していた。

胸に傷を負った事もあったけれど、それ以上に、彼女の心に傷を負ったのではないかと思った。

沖田と、藤堂が羅刹となった事は彼女も知っている。

姿が見えない事に気付いたとき、またあの時と同じだと思った。

一人で‥‥傷を抱えて、彷徨っている。

あの時と同じ。

だから必死に探した。

 

自分じゃなくてもいいのかもしれない。

でも‥‥

彼女は傷を抱えて一人彷徨っている。

そう思ったら彼女の姿を探していた。

きっと苦しんで‥‥彷徨っているに違いないと。

 

しかし、目の前にいるは落ち込んだ様子はなかった。

それどころか、昨夜胸を斬られたはずなのに酒なんて飲んでいる。

痛みを紛らわす為に時たま酒を飲む事はある。

しかし、転がっている酒の量は普通ではない。

「飲み過ぎだ。」

土方は言う。

痛みは鈍くなるかもしれないが、飲み過ぎは身体に障る。

それに彼女の酒癖の悪さを知っていた。

あまり飲ませるわけにはいかない。

と手を伸ばして酒を奪う。

「おっと。」

はひょいとそれをかわした。

にやりと悪戯っぽく笑って、またぐびりと酒を飲み干す。

顔色はほとんど変わらないが、目はとろんと据わっている。

これは相当飲んだ、らしい。

。」

「いいじゃないですか、たまには。」

「よくねえ、おまえ怪我人だろうが‥‥」

「怪我人でも酒は飲みます。」

土方はそっと彼女の傍に膝をついた。

酒のにおいがする。

 

「診せろ。」

 

短い言葉にはくすくすと笑って、

「いやです。」

と答える。

無理矢理にでもと手を伸ばせば、はその手をぺちんと叩いて、

「何する気ですか、助平。

女の袷を断りなく乱すのは、不作法ですよ?」

「阿呆、そんな事言ってる場合か。」

診せろともう一度言う。

「い・や・です。

そういう事は、花街にいる可愛いお姉ちゃんにしてください。」

なんて言ってべーっと舌を出すのだ。

言葉に土方の眉間に皺が刻まれる。

真剣な顔だった。

それを見て、

「大丈夫ですよ。

ちゃんと自分で手当てしました。」

は安心させるように笑みを浮かべた。

「本当か?」

問いに、彼女は頷いた。

「そんな深い傷じゃないです。」

視線を胸へと落とす。

その表情は、少しだけ悲しげに見えたのは、気のせいだっただろうか?

 

「それより。」

は明るい声を出す。

「飲みましょう。」

はい、と盃を差し出される。

土方は険しい顔になった。

「飲み過ぎだ。

程々にしておけ。」

「えー、固い事言わないでくださいよー」

「駄目だ。」

「けーち、いいですよ。

土方さんが付き合ってくれないなら一人で飲みます。」

そっぽを向いては無茶ともいえる速度で酒を飲み干す。

。止めておけ。」

「邪魔しないでください。」

。」

いい加減に、と土方は膝をついたまま手を伸ばす。

の腕から酒を奪い取ろうとして、

 

ずる――

 

「っ!?」

 

ついた手が滑った。

畳だったか、それとも着物だったか分からない。

ただ前のめりに滑って、を巻き込んでばたんっと倒れ込んだ。

 

からん、

と盃は酒をまき散らして畳の上に転がった。

 

「‥‥ったく、大丈夫か?」

 

咄嗟に手をついたのでを押しつぶす事はなかっただろうが、一応そう問いかける。

問いかけて、すぐに、

 

?」

 

彼女の様子がおかしいことに気付いた。

 

は、土方の下にいた。

しかし、

その顔を両腕で覆っている。

 

顔を見られないように、

腕で覆って、

 

「‥‥‥っ‥‥」

 

唇から漏れたのは引きつった、細い息。

肩はか細く震えていた。

 

泣いている。

 

土方はそう思った。

「‥‥‥‥」

低く名を呼んで、強く押し当てている腕を掴んで、引きはがす。

目を閉じたままの彼女は、泣いてはいなかった。

ただ、ぎゅっと強く瞳を閉じていた。

やがて緩やかに瞼が開くと、琥珀色のそれがこちらを見上げた。

 

「泣いてると、思いました?」

 

悪戯っぽく目元が緩められる。

酒を飲んで赤く染まった目元を。

 

「泣いちゃいませんよ。

生憎と、そんな可愛らしい性格してません。」

くすくすとは笑う。

は土方の腕から逃れようとはしなかった。

力を抜いてされるままだ。

「それにしても、総司も平助も‥‥参っちゃいますよねー」

はぁ。

と彼女は肩をすくめる。

「あいつらってば、なんであそこでヘマするかなぁ。」

「‥‥」

「あそこでやられるなんて、鍛錬不足だって絶対。

だからきちんと鍛錬しろって言ったのに。」

「‥‥」

「新選組の幹部が笑っちゃいますよね。」

あはは。

と彼女は笑った。

それは‥‥嘲りだろうか。

羅刹になった二人を笑ったのだろうか。

力不足だと‥‥笑ったのだろうか。

 

――ちがう――

 

「‥‥」

嘲りを浮かべる彼女は‥‥

ひどく、苦しそうで、

何故か‥‥

その笑みは、

泣きそうに見えて、

 

「‥‥‥」

 

土方は何も言わずに、その目元に手を伸ばした。

 

「土方さん?」

 

怒鳴られる事を予想していた彼女は、頬を手で包まれて双眸を開く。

親指がそっと、目元に触れる。

その指は、鬼の副長とは思えないほど優しく‥‥暖かい。

その指は、

優しく、

に促すようだった。

 

泣いていいのだと――

 

ここで気を張る必要はないのだと‥‥

 

そう、言われた気がして、

 

「っ――

 

押し込めた感情が、一気に膨らんだ。

 

途端、瞳が一気に潤む。

その顔がくしゃりと歪んだ。

泣き出す寸前の顔だった。

 

しかし、今ここで涙を見せることは出来なかった。

だから代わりに、

 

――ぎゅっと、

その手を伸ばして土方の首に縋り付いた。

 

「‥‥っ!?」

 

突然抱きつかれて土方は一瞬双眸を見開いた。

は抱きついたまま、強く、肩口に顔を押さえつける。

内から膨らんで爆発しそうな感情を吐き出す事を躊躇うように、の吐息が一度彼の肩口を掠めた。

 

「こわい‥‥っ‥‥」

 

とどめられなかった想いは、震えた音となって零れた。

認めれば声と共に、身体が小刻みに震えた。

怖い。

と彼女は零した。

 

どんな苦境に立たされても。

どんな敵と対峙しても。

は一度たりとも「怖い」と言葉にしたことはなかった。

その身を、恐怖で震わせた事など‥‥なかった。

 

いつだって笑い飛ばしていた彼女が、その時初めて、そんな言葉を口にした。

 

「いろんな物が、壊れていく‥‥」

 

震える声が、続けた。

 

「失いたくないのに‥‥」

失いたくないのに。

「掌からこぼれ落ちていく‥‥」

掌から、零れる。

 

いつだって平気な顔で。

物わかりがいい彼女。

仲間が離れる事も、仲間を斬る事も、決して否を唱えない彼女は。

 

だけど、誰より恐れていた。

 

『暖かな自分の居場所』が。

壊れてしまう事。

それを、

それだけを、は恐れていた。

 

。」

「こ、わい‥‥っ‥‥」

 

こわい。

は口にした。

 

「こわいんです‥‥」

 

何度も怖いと、は言った。

 

何も持たなかった彼女が誰より欲していたのは。

暖かな場所だった。

決して穏やかとは言えない喧しい場所だけど。

そこだけがの場所だった。

何も持たない彼女の『全て』だった。

 

近藤がいて、土方がいて。

沖田が、斎藤が、藤堂が、原田が、永倉が、山南が、井上が。

そして、千鶴が。

皆が笑っている場所が、の全てだった。

 

誰よりも、他人に興味がないと言っていた彼女が。

誰よりも欲していたのだ。

暖かい場所を。

 

それだけを望んでいた。

 

「こわい‥‥っ‥‥」

 

嗚咽が聞こえた。

震えるその身体に‥‥彼女の恐怖を知る。

「こ‥‥わい、よぉっ‥‥」

背中に回された手が、爪を立てる。

布を通して感じるのは微かな痛み。

だけど、それよりも痛いと思うのは‥‥

どれほど恐怖していても、彼女が押し殺した声を漏らす事。

苦しくて。

悲しくて。

泣きたいのに。

それでも‥‥

声を上げて泣けない彼女の不器用さが、

 

苦しくて――

 

「誰が壊させるかよっ――

 

土方は強く、その小さな身体を抱きしめた。

壊してしまうほどに。

強く、強く抱いて‥‥

 

「俺はここにいる。」

縋り付く彼女に、自分が言ってやれる言葉はそれだけだった。

「俺はおまえの傍にいる。」

おまえの居場所はここにある。

自分の傍にある。

たとえ、仲間の誰かがいなくなったとしても。

それでも絶対に、

「俺は‥‥」

ここにいる。

 

「ここにいる。」

 

つう、

はこめかみを伝い落ちる熱い涙に気付いた。

歪んだ視界に、彼の紫の着物が映っていた。

 

温もりが、

強い力が、

壊れそうな心を、

身体を、

繋ぎ止めてくれている気がした。

 

彼だけが、

自分を‥‥

この地に引き留めてくれる気がした。

どんな事があっても。

何が、あっても。

 

「ひ、じかた‥‥さ‥‥」

ひく。

と喉が震える音が聞こえた。

「土方さっ‥‥ひじかたさん‥‥っ‥‥」

何度も何度も名を呼んで、は強くしがみついた。

熱が肩に押し当てられる。

嗚咽を押し殺すみたいな震えた吐息が耳に届いて、更に切なさがこみ上げた。

「‥‥ああ、ここにいる。」

土方は応えるようにその身体を、先ほどより力を緩めて抱きしめた。

自分よりも暖かな体温が。

壊れてしまいそうな柔らかさが。

花を思わせるあまいにおいが。

土方の手の中にある。

ああ、やっぱり小さい。

と土方は抱きしめながら思った。

 

女なのだ、と。

 

腕の中にあるのは、自分とは性別の違う女。

 

意地っ張りで、甘える事も知らない女。

泣き方一つ知らない‥‥不器用な女。

 

‥‥‥」

腕にかき抱くのは、ずっと傍にいた部下。

だけど、

ずっと傍にいたのは、一人の女。

 

小さな、弱い、女。

 

 

「土方、さん‥‥」

求めるように、自分を呼ぶ声。

腕の中に温もりを感じながら、土方は、思う。

 

彼女が縋るものは、

 

――自分だけであればいいと。

 

その弱さを抱きしめながら、そんな事を思い、強く、彼女を抱きしめた。