12
静姫。
自分はそんな名前ではない。
自分の名は、。
そうそれだ。
静姫なんて名前じゃない。
何故、かたくなにそう思うのだろうか。
自分には、自分も知らない何年間があるのに。
その時になんと呼ばれていたのか、分からないと言うのに。
もしかしたら、
静姫と呼ばれていたのかも知れないのに。
ちがう。
は首を振った。
そう呼ばれている事を認めたくなかった。
認める事で、
何かが自分の中で崩れるのが分かったから――
静姫。
その名が、自分を苛む。
そう呼ばれていた時の自分は‥‥確か――
どくんと、
血が逆流するのを感じた。
「!」
鬼と対峙していた井上が彼女の姿を認めてほっとしたような声を上げた。
山崎も目を細めて笑みを浮かべる。
それにが応えるよりも前に、ぞわりと背中が震えるほどの殺気を感じた。
視線を先に向ければ、庭のあちこちに斬り伏せられた隊士の姿。
その誰もが絶命している。
そしてその先には、
「風間。」
風間千景。
その人の姿。
沖田を倒した男の姿。
「‥‥雑魚が‥‥」
と風間は笑った。
無造作に刀を振れば、
「ぎゃあ!」
上がる悲鳴と、
赤い血。
世界は染まる。
赤。
血の色に。
ごとりと、隊士は地面に倒れ込む。
もう、動かない。
噎せ返る血のにおい。
闇の中にそれが広がる。
青白い月光は、その無惨な光景を静かに照らし出した。
「まるで歯がたたん。」
井上がぎりりと奥歯を噛む。
それはそうだろう。
なんせあの沖田を退けた相手だ。
元より戦いに向かない彼や、本来隠密行動を得意とする山崎に敵う相手ではない。
「‥‥私が。」
がすらりと刀を抜いた。
どこか苛立ちを滲ませた声に、山崎が眉を顰めた。
「さん‥‥」
「みんなは下がってて。」
しかし、その原因を突き止めるよりまえに、は飛びだしていた。
紺碧の衣が、夜空に舞う。
それはまさしく、風のように。
――キィン!
一打が、風間の刃とぶつかる。
甲高い音を立て、受け止められた。
「ほぅ?少しは骨がありそうだ。」
風間は易々とそれを受け止め、やがてすっと横に刃を薙いで、一撃を流す。
「っ!」
弾かれ、すぐさま風間の一撃が振り下ろされた。
――ッギィン!!
「くっ!?」
受け止めたの口から苦しげな声が漏れた。
びり、と手が痺れる。
それほどに、その一撃が重たかったのだ。
「受け止めた事は褒めてやろう。」
鬼はにやりと笑って、だが、とつまらなそうな顔になった。
そうして、
「所詮は‥‥非力な人間、か。」
もう一度強い一撃。
「ぅあっ!?」
あまりの重たさに体勢をが崩す。
そこをすかさず、刃が振り下ろされた。
「!!」
誰かが叫んだ。
死ぬ。
は知らず、己の死を悟った。
しかし、迫り来る白刃よりも、の目に鮮烈に映ったのが‥‥
鬼の、
金色の、
瞳。
――どくん。
と血液が逆流したのをは覚えている。
そしてその血が体中を巡り、自分の中に眠っていた何かを呼び覚ます。
どくん!
強く、
鼓動が一つ音を立てた。
――駄目――
そう、思ったときには、
の意識は飲まれていた。
次の瞬間、血が噴き出す。
誰もが絶望した。
しかし、
――ぎぃん!
「な!?」
驚きの声を上げたのは、風間だった。
どう考えても受け止められないその状況だったにも関わらず、の刃は彼の刃を受け止めていた。
それは目にもとまらぬ速さだった。
「‥‥‥」
ぎりぎり。
と刃がかみ合う。
冷たい瞳は彼を見つめていた。
「鬼‥‥が‥‥」
吐き捨てるような言葉は、低く、唸るようなものだった。
鬼。
相手を罵る言葉に、まるで応えるように、身体の奥から力があふれ出す。
「な、に‥‥」
風間の目が見開かれた。
ぎぃん!!
と刃は弾かれる。
慌てて退いたのは風間の方だった。
は弾丸のように飛んで、追撃を繰り返した。
いつしか、優劣は逆転していた。
刃が打ち合う音が響く。
きらきらと白刃が軌跡だけを残した。
もう、人の目では捕らえられない。
二人の戦いは‥‥人のそれとはかけ離れていた。
不意に、
青白い月光に照らされる。
ふわりと空を、の髪が舞った。
誰かが、まるで悪い夢でも見ているかのように呟く。
「羅刹‥‥」
緩やかなその髪は、きらきらと煌めく白銀。
しかし、
その瞳は血の色とは違う‥‥美しい、
――金色――
「貴様‥‥」
その姿。
風間は呻くように呟いた。
真紅の瞳を受けて、は面白くもなさそうに目を細める。
「くたばれ、鬼。」
ひゅ、
風を斬る音が聞こえた。
迷い無く、は目の前の鬼を両断すべく、刃を振るった。
驚きに開かれる双眸も。
煌めく光も。
全てが、
には遠い世界に思えた。
今、自分が目にしているはずなのに‥‥
それに実感はなかった。
指の一本一本まで、神経は冴え渡る。
でも‥‥それを操っているのは自分ではない。
別の、
何か。
それがの身体を支配していた。
神経が冴え渡ると同時に、
の世界が、
濁り始めた。
身体に黒い何かがまとわりついてきた。
それは‥‥暗い感情だと分かった。
怒り、悲しみ、憎しみ、絶望。
それが黒い闇となって、を飲み込もうとしていた。
――殺してやる殺してやる殺してやる。
耳の奥で声が聞こえた。
幼い‥‥声だった気がする。
ずぶりと、身体が闇に飲まれた。
このまま‥‥消えるのだろうか?
あの時と同じ。
世界が真っ白に染まった時と同じ。
消される。
今度は、黒く。
塗りつぶされて、
世界は、
闇へと、
閉ざされる。
「――!!」
鋭い声が、その闇をうち払った。
はっとの目が見開かれた。
瞬間、瞳は神々しい金から澄み切った琥珀へと戻る。
ずるりと闇から這いだした意識はへと戻され、振り返った彼女はその姿を認めると一瞬、場違いにも安堵の表情
を浮かべた。
土方さん――
と彼女の唇が動いた。
――ざん――
「っ!」
その一瞬の隙に、風間の刃は振り下ろされた。
「っ!!」
鋭い痛みが胸に走る。
血が、空に舞い上がった。
は飛ばされるようにして大地を転がる。
「ぁぐっ!」
どんっと思い切り背中を塀に打ち付け、一瞬息が止まった。
そのままどさっと前のめりに倒れ込む。
どく、と血が溢れるのが分かった。
「!大丈夫か!」
慌ただしい足音と聞こえる声。
痛みに顔を顰めながら見れば、そこには抜き身の刃を持った土方の姿がある。
その顔は‥‥先ほど見た冷たいそれじゃなくて、心配そうな顔で、は何故か‥‥泣きたくなるほど嬉しかった。
「‥‥かすり傷です。」
苦笑を浮かべて答える。
見た目ほどひどくはない。
それは自分で分かった。
サラシを巻いていたのが幸いしたらしい。
それに、
「‥‥」
土方の手を借りて身体を起こす。
風間は驚きの表情でこちらを見ていた。
彼の刃は、一瞬迷った。
だから傷は浅かった。
そうじゃなければ、多分、胸から下とは別れを告げなければならなかっただろう。
それほどに、風間という男の一撃には力があった。
ちり、と痛むそれを押さえながら立ち上がるのを、土方は背に庇う。
刃を手に睨み付けるそれはひどく怖い顔をしていた。
「てめえ‥‥」
低く唸るような声。
明らかな怒りを含んだそれに、は一瞬息を飲んだ。
「‥‥」
風間はそんな彼を睨み付け、何かを小さく呟いた。
それから、
「っ‥‥」
刃の柄を強く握る。
来る――
そう身を固くした瞬間、
「お待ちなさい。」
穏やかな声が響いた。
そちらを見ればいつの間に来ていたのか、天霧の姿がある。
「なんだ。」
突然入った邪魔に、風間は煩わしげに答えた。
「‥‥事が大きくなりすぎました。
ここは一度退いていただきたい。」
静かな天霧の言葉に、その瞳が鋭い殺意を浮かべた。
それこそ、味方だろうが斬り捨ててしまいそうなそれで見て‥‥
「‥‥」
天霧はそれを静かに受け止める。
「風間。」
ただ一度、諫めるように名を呼んだ。
「‥‥‥」
風間は短い間、彼を睨めつけた後、
「わかった。」
刃を収めた。
そうしてくるりと何事も無かったように背を向ける。
一歩、二歩、と歩いて、
「‥‥」
一度だけ振り返る。
そして何も言わずに、
静かに闇に溶けて消えた。
張りつめていた糸が、緩む。
ほっと、誰かがため息をついた。
瞬間――
ぞくり、
とは違和感を覚えた。
まるでまだ終わっていないと言う風に、背筋を寒いものが走った。
肌の中を、何かが蠢くのが分かった。
ぞわぞわと傷口のあたりを何かが這い回る感覚。
先ほどまで感じていた痺れた感覚はなくなり、かわりに‥‥
傷跡が‥‥
傷跡が、
「‥‥」
は双眸を開く。
まさか、
と小さく口の中で零した。
「、傷口を診せろ。」
我に返った土方がこちらを振って言う。
言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げた。
その瞬間、の表情に浮かんでいたのは‥‥戸惑いの色。
「?」
どうした?と問えば、
「っ‥‥」
はまるで逃げるように踵を返した。
「!?」
その細い肩を掴めば、
「大丈夫ですっ!」
いささか乱暴に手を振り払って、は走り出した。
自室に飛び込んで、荒い息を整える。
一つ、
二つ、
と深い呼吸を繰り返して、
意を決して着物の前を開いた。
血に染まる胸元には、刃で斬られた痕がある。
破れたサラシにも、その痕はある。
なのに、
肌には、
己の肌には、
赤い線が一つ入っているだけ――
血の量からして、肉まで斬れた。
ぱっくりと口を開いているはずだった。
だというのに、大きな傷口は閉ざされていた。
いや、それどころか、
今し方斬られたようには見えない。
その傷跡は明らかに、塞がっていた。
『あなたは、傷の治りが異様に早くはありませんか?』
天霧の言葉が蘇る。
は唇を噛みしめた。
そうだ。
今まで自分の事に頓着しないが為に気付かなかった。
任務の最中、いくつも傷を受けていたんだろう。
でも‥‥気付かなかった。
怪我をしている事にさえ気付かなかった。
すぐに治るから。
人とは違う速度で‥‥治るから。
だから。
気付かなかった。
自分がどんな能力を持っているかなんて。
『あなたは‥‥』
「私は‥‥」
は。
とこぼれ落ちるのは苦々しげな言葉。
「――鬼――」
自分は、人ではなく‥‥
――おに――
「!」
ばたばたと慌ただしげな音が聞こえる。
一瞬だけぼうっとしていた彼女は、言葉に割れに返ると慌てて袷を正しながら「なんだ」と応える。
斎藤の声だった。
珍しく、慌てたような声だ。
「総司が‥‥」
どこかで慌ただしい足音が聞こえた。
「――羅刹に――」
何かが目の前で、音を立てて崩れた――

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