11

 

千鶴は廊下を走っていた。

鬼の襲撃に、残った幹部の皆は庭で戦っている。

しかし、千鶴は足手まといという事と‥‥そして、彼が気になった。

病で伏せっている沖田のこと。

外に飛び出した時、あたりは血の海だった。

羅刹でなくても血に酔いそうな状況だった。

もし、血に酔った羅刹が彼を襲ったら。

そう思うといてもたってもいられなくて、千鶴は走っていた。

 

――沖田さん!」

ほとんど飛び込むようにして千鶴が部屋に入ると、そこには沖田が起き上がり、戦いの支度を調えていた。

ほっと思わず安堵のため息が漏れる彼女に、沖田はくすくすと笑う。

「遅かったね。

なかなか呼びにきてくれないから、自分から行こうと思ってたところなんだ。」

自分も戦いに赴く。

当然のごとく言ってのける彼に、千鶴は息を整えながら訊ねる。

「動いて大丈夫なんですか?」

すると、彼はこくりとうなずき、

「留守を命じられた時は悲しかったけど‥‥」

と無邪気に笑う。

「人の言うことは聞いておくも――

その笑みが、途中でこわばる。

と思うと、彼は激しく咳き込み、

血を、

吐いた。

その様子を見て、千鶴は一瞬にして泣きそうな顔になった。

「無理はやめてください。」

駆け寄り、彼を支えながら涙をこぼさないように唇を噛みしめる。

「井上さんたちが戦ってくれています。

大丈夫ですから、眠っていてください。」

言葉に、沖田はげほと咳を無理矢理に封じ込めるように、口を開いた。

「うるさいなぁ。

別に僕の腕は衰えたわけじゃない‥‥」

でも。

千鶴が言いつのろうと口を開いた。

 

「人の心配を、むげにするような真似はよくないですよ。」

 

唐突に。

別の声が割り込んできた。

千鶴も、それから沖田も一瞬目を丸くした。

振り返れば、いつの間に来たのだろう、見覚えのある姿が開けはなった襖の傍にあった。

意外な人物。

自分にうり二つの‥‥その人。

 

「か、薫さん?」

 

確かに、町で何度か出会ったその人。

しかし‥‥高く結い上げていた髪は、ばっさりと肩口で切り上げられ、身にまとうのも黒の戦装束。

腰には刀をはいている。

その様は、

 

「これが、私の本来の姿。

訳あって性を偽っていたことは謝ります。」

薫は済まなさそうな顔で言う。

「へぇ、君、男だったんだ。

‥‥なるほどね。」

それに応える沖田の声は、興味がなさそうなものだった。

多分、気づいていたという事もあるのだろう。

千鶴は混乱する頭で薫をまじまじと見つめている。

「どういうこと‥‥ですか?」

問いかけに、彼はにこりと微笑を浮かべた。

「性別を偽ったのも、今日この場に現れたのも、すべては唯一の目的のため。」

穏やかな微笑のまま、薫はしっかりと千鶴を見据えて、口を開いた。

 

「私は、妹を救うためにやってきた。」

 

と。

 

妹。

そう告げる彼が見つめているのは、千鶴。

「妹?」

言っている意味が分からなくて口にすれば、薫は優しげな眼差しで彼女を見つめた。

「おまえのことだよ、千鶴。」

声は、さながら兄のよう。

 

千鶴は、信じられないという顔で彼を見つめた。

 

確かに、他人と言うには顔は似すぎている。

しかし急に兄妹だと言われても、千鶴は納得できない。

だって‥‥

 

「わからないのも無理はない。

私たちの生家が、倒幕の誘いを断って滅ぼされた折――おまえは綱道さんに連れ出され、私は土佐の南雲家に引き

取られたから。」

彼女の問いかけに答える薫の言葉。

それは更に千鶴を混乱させた。

 

生家。

綱道さん。

それは‥‥

 

薫は続けた。

千鶴の過去を。

 

彼女の両親はすでに他界しており、綱道とは血縁関係にないのだと。

 

唯一の血縁者は、自分だけなのだと。

彼は言う。

 

千鶴は信じられなかった。

優しい父親の顔が浮かんで‥‥でもそれが他人のもなんて。

 

「この顔だけでは信じられないか?

では‥‥この刀を証としよう。」

薫は言って、自分の腰のものを抜いて見せた。

千鶴の持つ小太刀とよく似た刀、だった。

 

「私の大通連は、おまえの小通連と対と成る刀。

これもかつて分かたれたものの一つだ。」

「そんな‥‥父様はそんな事一言も‥‥」

そんなこと、聞いたことない。

そう首を振るけど‥‥考えれば考えるほど彼の言う言葉は納得できた。

顔も、刀も。

まるで傍にあるのが当たり前のように、似ている。

対と成る存在。

 

「じゃあ君も、鬼なんだね?」

沖田の問いに、薫は、

「はい。」

と一つ頷いた。

じゃあ、と沖田は続ける。

「鬼である君にひとつ聞いていいかな。

君の目的は風間と同じで、彼女を利用すること?」

彼の言葉に空気は一瞬にして張り詰める。

落ち込んでいた千鶴も顔をこわばらせ、沖田と薫とを困惑の表情で見つめた。

しかし、薫は静かな微笑みを沖田に向ける。

「そんなつもりはありません。」

「‥‥」

「ですが、私からも質問させてください。」

言葉を一つ切る。

まっすぐに彼は沖田を見つめた。

 

「私が肯定したら‥‥あなたはどうしたんです?

その動かない身体を張ってでも止めましたか?」

 

一瞬だけの沈黙。

千鶴は紡がれる言葉に、その一瞬の間‥‥ほんの少しだけ期待した。

けれど、

「‥‥好きに連れていけばいい。

君らの事情なんか知ったことじゃない。」

彼の口から紡がれたのはあまりにも彼らしい‥‥言葉。

突き放すような言葉に、千鶴は唇を噛み、うつむいた。

 

分かっていた。

彼の瞳に自分が映っていない事など。

自分はただの居候で、彼にとってはいてもいなくてもいい存在なんだって。

特別でもなんでもないって、分かっていた。

 

それでも、

一瞬期待した自分が‥‥少し悲しかった。

馬鹿だなぁと心の中で呟いて、千鶴は震える吐息を漏らした。

 

「そこ‥‥どいてくれる?」

沖田は立ちはだかる薫に冷たく言い放つ。

「いえどきません。

今のあなたは‥‥戦えませんから。」

底冷えするような瞳を受けても、薫は首を緩く振るだけだ。

彼の返答に沖田の相貌が激しい怒りの色を湛える。

「僕は!僕はまだ戦える!」

激昂し今にも抜刀して斬り捨ててしまいかねない彼に、しかし動じた風はなく薫は静かに言った。

「どうしても戦いたいというのなら‥‥これを‥‥」

無造作に取り出したのは、見覚えのあるものだった。

忌まわしい記憶を呼び覚ます、赤。

千鶴は驚愕に目を見開いた。

「‥‥なんで、そんなものを薫さんが!?」

変若水。

人を化け物へと変える薬。

 

「綱道さんから頂きました。」

こともなげに彼は言った。

「父様が‥‥?」

更に千鶴は目を見開く。

彼は父親の行方を知っているというのだろうか?

 

「この薬は‥‥」

沖田も目を見開いている。

まさかそれを突きつけられるとは思っていなかった。

「私は確かに鬼です。薩摩長州土佐の関係で風間たちと協力するように言われています。」

薫は少し視線を落とした。

ですが、と憎々しげに言葉を続ける。

「大切な妹を‥‥ただ子を産むためだけの存在としてしか見ないような奴らに、渡す気にはなれません。」

その言葉を受けて、沖田はひょいと目をすがめた。

いささか不機嫌なそれで、

「だから変若水を僕に与えて妹を守らせようってわけ?

なかなか自分勝手な理屈だね。」

と告げた。

「無責任な言い方でごめんなさい。

でも、選ぶのはあなたです。」

次に上げた視線は強いそれだ。

「戦いたいと叫ぶだけか、これで羅刹となるか。」

選ぶのは自分自身だと。

彼は言った。

 

一瞬、沖田の目に迷いが生まれたのを見た。

 

「駄目、駄目です!沖田さん!」

千鶴は慌てて声を上げる。

彼女の脳裏に浮かんだのは苦しむ羅刹の姿、そして、果ては斬り捨てられた‥‥あの夜見た、羅刹たちの姿だった。

血に狂う人と呼べないそれ。

そんなものになってほしくなかった。

 

「僕は‥‥」

 

沖田は答えなかった。

ただ、瞳に赤を映して黙り込んだ。

 

千鶴は唇を噛みしめて、薫を睨み付けた。

「薫さんも薫さんです!

あなたが私の兄で私を大事に思うなら、なんでこんな物を沖田さんに渡すんですか!」

そう、彼女が叫んだその時――

 

がたん――!!

 

人の形をした何かが飛び込んできた。

 

「羅刹隊か!」

飛び込んできた四人の瞳に血の色を見て、沖田は咄嗟に刀へと手を伸ばす。

しかし、その動きについてこられたのは心だけで、

 

からん、

 

抜き放とうとした刀は力が入らず、むなしい音を立てて床に転がり落ちる。

その我の姿を見て、沖田は驚きを一瞬、そしてすぐに悲しげな笑みを浮かべた。

 

「これが‥‥今の僕か‥‥

新選組一番組組長、沖田総司か‥‥」

 

己の無力さが、

悲しかったか、

苦しかったか、

それとも、

腹立たしかったのか。

 

彼は次の瞬間、薫の手から瓶をもぎ取っていた。

 

「駄目っ――!!」

 

喉の奥から悲鳴が漏れた。

真っ直ぐに彼は羅刹を睨め付ける。

血に飢える彼らを‥‥未来の自分と重ねながら‥‥

 

沖田は一瞬、千鶴の方を向いた。

その表情は、いつも通り穏やかな笑みだった。

 

「まったく、君はこんな時まで――

 

穏やかに言ってのけ、彼は小瓶を一気に煽った。

ごくりと、喉が上下する。

絶望に千鶴が目を見開くと、その瞬間、薫は鮮やかに笑った。

 

 

赤が。

散った。

血の降る音が、聞こえた。

 

部屋に飛び込んできた羅刹がすべて血の海に沈むまで‥‥一呼吸も掛からなかった。

 

千鶴はただ、呆然と見つめていた。

 

赤い。

赤い世界を。

 

血だまりの中に彼はいる。

白い髪を、血に染め。

それよりも赤く、凶暴な赤い瞳を、向ける彼を。

 

――人であることを捨てた、沖田の姿を。

ただ戦うための鬼と、

羅刹と化した彼の姿を。

 

呪いの証のような白い髪先から、血がぽたりぽたりとしたたり落ちる。

 

「これで満足かい、南雲薫?」

 

苦しげに顔を歪める彼に、薫はにこやかに笑みを浮かべた。

 

「はい。ご立派でした、沖田総司さん。

本当にあなたには感謝の言葉もありません。」

そしてその笑みは、酷薄なものへと変わっていった。

「‥‥まんまと俺の思惑に乗ってくれて、ね。」

先ほどとは全く違う声音は、あざけりの色を浮かべている。

「‥‥っ‥‥!」

沖田が意識を保てていたのはそこまでだった。

どさり、と糸が切れたように崩れ落ちる彼を千鶴は辛うじて抱き留めた。

「沖田さん!?

しっかりしてください!」

なんであんなっ‥‥

気を失う彼に千鶴は泣きそうになりながら呼びかける。

その間に彼の髪の色は常のそれへと戻っていった。

青白い顔でしかしいつものそれで眠っているように見えて、千鶴は一瞬だけほっとする。

悪い夢‥‥そう思いたかった。

彼が羅刹になったのは悪い夢。

しかし、

「‥‥」

部屋を染める赤を見て千鶴は唇を噛みしめた。

 

あれは、現実。

 

「千鶴。」

薫がそっと名を呼んだ。

顔を上げれば彼は優しげな笑みを向けていた。

「おまえはさっき、何故兄である私が、おまえが大事に想う沖田に変若水を与えるのかと聞いたね。」

「‥‥?」

急に思い出したように言う彼の意図が分からず、千鶴は眉を顰める。

薫は、ただ静かに、こう告げた。

 

「兄さんはおまえの親しい人間だからこそ、変若水を渡したんだよ。」

 

く。

と彼は喉を震わせた。

そして、高らかな笑いを漏らす。

千鶴は一瞬言われていることが分からなかった。

理解したくなかったのかもしれない。

目の前が真っ赤に染まった。

怒りで、我を失いそうになった。

 

「なにが、何がおかしいんです!」

 

睨み付けられて、薫は心地よさげに目を細めて、笑う。

 

「おかしいんじゃない、嬉しいんだよ。

俺と違って恵まれた環境で育てられた妹に。」

「‥‥」

「そんなに苦しんでもらえて嬉しいんだよ!」

薫が浮かべたのは、今までとは違う歪んだ笑みだ。

その口調さえも変わり、まるで別人のようだった。

 

怖い、と千鶴は沖田をかき抱きながら思った。

 

彼の瞳には羅刹以上の狂気が孕んでいる。

 

「俺が引き取られた南雲家は、子を産ませる女鬼がほしかったらしくてね。

双子の兄妹でハズレを引いて、大激怒さ。」

ひょい、と彼は肩を竦めてみせる。

「俺はどんなに虐げられてもしか棚よね。

何をされても子供を産めやしない男なんて、所詮価値がないんだ。」

己をあざけるような言葉を、彼は歌うように繰り返す。

その言葉はひどく虚しく聞こえた。

しかし、その言葉の奥に激しい怒りを湛えているのを千鶴は知った。

 

「俺と妹は同じ顔をして同じ血を継いだのに、たかが性別の違いで俺ばかり冷遇されたのは‥‥誰のせいだと思う?」

 

薄らと彼は笑みを浮かべた。

その暗い、歪んだ笑みを浮かべているのは自分と同じ顔。

千鶴の顔は恐怖に引きつった。

その反応を楽しむように、薫は笑っている。

 

「自分の顔をした人間が笑うのがムカつくか?

俺だってそうさ。

おまえの幸せな顔が、ムカついてしょうがなかったのさ。」

言葉はあくまで優しかった。

なのに、同時に伸びてきた手は、迷わず千鶴の首を掴んでいた。

「‥‥っぁ‥‥!」

恐ろしいほどの握力で首を掴まれ、喉が締まる。

苦しさに顔は歪んだ。

 

「その幸せな顔が崩れた時――沖田が出来損ないの鬼になった瞬間の表情を、俺の顔で再現してあげたいくらいだけど‥‥」

「ゃ‥‥めっ‥‥」

「さすがの俺にも難しいかなぁ、あれ。

わざわざ親しい人間を狙った甲斐があって、想像してたよりずっと可愛い顔だったから!」

「っ!?」

 

苦しげに歪められていた千鶴の表情は一瞬で凍り付いた。

 

まさか。

と千鶴は思う。

まさか自分の苦しむ顔を見たいが為に、沖田に変若水を与えたというのか。

ただ千鶴を厭うが為に。

関係のない沖田を巻き込んだというのか。

 

「‥‥あな‥‥たはっ!」

 

喉を握られながらも千鶴は、唯一の肉親を、殺意を込めて睨み付けた。

 

許さない。

 

身体の奥から悲しみが、怒りが、戸惑いが、黒く渦を巻きながら溢れてくる。

だけど、千鶴にはそれを表に出して相手を傷つける術を持たない。

ただ、怒りの色を湛えた瞳で睨むだけだ。

 

「でも‥‥こんなのはまだ序の口だよ。」

 

ぽいっと投げるように薫は手を離した。

げほっと大きく噎せ返る千鶴は涙目で彼を睨み付ける。

薫は背を向けていた。

 

「あ‥‥そうだ。」

 

闇に溶ける背中は、何かを思い出して立ち止まる。

振り返るその表情は何故か嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 

‥‥という人を知ってる?」

 

問いに千鶴は僅かに眉を寄せた。

この場において何故彼女の名が浮かぶのか、分からなかった。

 

「どうして‥‥さんを‥‥」

「あの人に会うには、またここに来ればいいのかな?」

 

ふふ。

と薫は笑った。

どこか懐かしそうに目を細めて。

 

「ここに来れば、おまえにも会える。」

 

やがて、その瞳が醜く歪む。

 

「‥‥また、会いに来るよ。」

 

と彼は笑った。

 

「兄さんは‥‥おまえの不幸をいつでも願ってるからね。」

 

にこりと優しい笑みを浮かべて、彼は、闇へと溶けた。

 

しん‥‥と部屋は静まりかえる。

彼がいなくなると千鶴は瞳から涙がこぼれ落ちた。

止まらなかった。

 

自分の知らないところで、自分をこれほどに憎んでいる人がいること。

そして何より、

兄妹の確執に関係のない人間を巻き込んでしまった事。

それが‥‥

 

「沖田さんっ‥‥」

 

誰より愛しい人だったのに。

 

千鶴は唇を噛んで、彼を抱きしめた。

 

ごめんなさい。

ごめんなさい。

 

心の中で謝罪を続ける。

 

彼は千鶴の事などなんとも思っていなかったのに。

自分が彼を想うばかりに、彼は巻き込まれた。

 

「ごめんなさっ‥‥ごめんなさい!」

 

震える指先でかき抱く彼は‥‥暖かかった。