10

 

満月が天頂に掛かる。

分厚い雲が時折その姿を隠し、あたりを真っ暗に染めた。

 

は一人、廊下で空を見上げていた。

 

今頃、土方と近藤は伊東をおびき出して接待している事だろう。

それとも、もう原田達に斬られた後?

もしかしたら、御陵衛士を一網打尽にしただろうか?

 

は屯所に残っていた。

結局‥‥計画も聞いていなかったし、様子がおかしいと他の幹部から強く言われて残る事となってしまった。

曰く、斎藤と一緒に、沖田、千鶴の面倒を見ろ‥‥という事らしい。

渋々彼女は了承した。

 

ただじっと一所にとどまっていると、誰かにまた当たり散らしてしまいそうで、は廊下へと出た。

冷たい空気にさらされていれば頭は少し冷静になるかと思った。

 

「‥‥ガキか、私は。」

 

一人、は呟いた。

 

気分は最悪だ。

 

まだ頭はずきずきする。

胸はもやもやするし、何度ため息をついても楽にはならない。

苛々しっぱなしで‥‥だけどそれより、

胸が、

痛かった。

 

「勝手にしろ。」

 

と背を向けられたのは初めてだった。

 

土方を怒らせた事は何度だってある。

怒鳴り散らされたり、拳骨を食らった事だってあった。

でも、

 

あんな風に、突き放されたのは初めてで。

 

あんな‥‥冷たい声を掛けられたのは初めてで。

 

「‥‥最悪。」

は片手で目を覆った。

 

完璧な八つ当たりだ。

土方が悪い事なんて一つもなかった。

ただ彼は心配してくれただけだ。

彼の優しさを‥‥自分は、無碍に振り払った。

振り払っただけじゃなく、噛みついたのだ。

最悪。

最低。

 

何度自分を罵っても足りないくらいだ。

 

関係ない。

なんて。

 

「‥‥なんであんな事言っちゃったんだろ。」

 

はぁ。

はため息をついた。

後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。

自分は短気だと思わなかったが‥‥もしかしたら案外短気なのかもしれない。

 

「怒った、よなぁ‥‥」

 

完璧に怒らせただろう。

勿論呆れもしているだろうけど。

 

「絶対怒らせた。」

 

あの背中は、完璧に怒っていたはずだ。

 

ずきん、

とだめ押しするみたいに頭痛が襲った。

 

「つ‥‥」

 

は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 

痛みと、苛立ちと、情けなさ。

いろんなものが入り交じって、ぐるぐると回っている。

 

ああもう。

は心の中で疲れたような声を上げた。

 

「勝手にしろ。」

 

冷たい声がまた蘇る。

頭じゃなく胸がずきんと痛んだ。

苦しくて顔を歪めた。

 

言わせたのは自分なのに、そんな風に突き放されるのは‥‥

 

「いやだ。」

 

と思った。

 

呟いた声はひどく気落ちしたそれで、また情けなくなってくる。

 

「いやだ。」

 

子供が駄々をこねるみたいだとは思った。

でも、

いやだった。

彼に突き放されるのは。

彼に背を向けられ、置いて行かれるのはいやなのだ。

多分、近藤に嫌われるのと同じくらい。

いやだ――

 

 

は暫く頭を抱えたまま庭を見つめていた。

冷たい風にさらされて温もりはどんどん失っていく。

月明かりが何度か、雲に覆われ、闇が落ちる。

頭を冷やすには丁度よかった。

闇の中でただぼんやりと、佇んでいた。

 

 

――不意に、

 

「っ――

 

は感じた。

ぴりりとした張りつめた空気。

それは屯所の外からだった。

多分、気付いたのは自分だけ。

気配に誰より聡いのは自分だ。

は条件反射のように走った。

庭を横切り、塀の手前に置いてある樽を踏み台にして、塀を飛び越えた。

その時には刀の柄に手を伸ばしており‥‥

 

――

 

闇の中に姿を見つけると同時には抜きはなった。

風が唸った。

 

「っく!!」

 

斬りつけられる寸前でその人は気づき、慌てて身を退いた。

 

音も立てずに大地へと降り立つと、は常と同じ冷たい瞳を闇へと向けた。

向けて、

 

「っ!?」

 

琥珀の瞳は驚きに見開かれる。

 

そこに立っていたのは‥‥

 

「千鶴‥‥ちゃん?」

 

彼女だった。

 

否。

正確には、彼女に瓜二つの人間だった。

何故ならその人は漆黒の外套を纏い、長い黒髪は肩で切りそろえられている。

出で立ちは違うが、その顔は恐ろしく似ていた。

 

背格好、顔の輪郭、目鼻立ち。

 

まるで‥‥彼女がそこにいるようだった。

 

そういえば、とは思い出す。

 

自分と瓜二つの人間を見た、と前に言っていたのを。

確か、名前は、

 

「薫‥‥さんだっけ?」

 

そんな名だ。

 

それが目の前の人、だろうか。

 

確か女だと聞いていたが、目の前の人物は女には見えない。

男だ。

千鶴と同じ顔をした、男。

 

しかし、そんな人が何故ここに。

 

そんな問いかけを向けようとして、は目の前の人物も、大きく目を見開いている事に漸く気付いた。

 

突然斬りかかられたら誰でも驚くだろうが‥‥違う。

そうじゃない。

薫はじっと、の顔を凝視していた。

 

何だ?

 

彼女は眉間に皺を刻んだ。

 

分厚い雲が、ゆっくりと月から離れていく。

 

青白い月に照らされる顔は‥‥やはり似ていると思った。

しかし、

千鶴のそれよりも、大人びた、どこか色香さえ感じる‥‥顔立ちだ。

 

薫は目を見開いたままだった。

こぼれ落ちてしまいそうな大きな目で、こちらを見て、

 

「しずき‥‥ねえ、さん?」

 

そう呼んだ。

 

しずき、

ねえさん。

 

誰?

誰の事を言っている?

 

怪訝そうに眉を寄せれば、彼は驚きの表情から喜びのそれへと変えてもう一度呼んだ。

 

「静姫姉さん!」

 

と。

そう呼んで駆け寄ってきた。

 

本来なら、

彼が近付く前に刃を一閃させ相手を威嚇したか、

もしくは斬り捨てていたに違いない。

 

だけど、は、

 

「姉さん!」

 

とさりと、その小さな身体に抱きしめられていた。

驚きには目を見開いていた。

何が起こったか分からなかった。

 

「会いたかった‥‥会いたかったよ、姉さん。」

抱きしめたまま、彼は甘えるような声を上げる。

冷たかった衣が、身体を合わせた部分だけ熱を持つ。

抜き身の刀を手に、は硬直していた。

「静姫姉さん‥‥ずっと、ずっと探していたんだよ。」

 

静姫――

 

耳から滑り込む、聞いた事のない名前。

その名で、彼は自分を呼ぶ。

 

人違いだ。

 

は思った。

 

だけど、

その温もりを引きはがす事が出来なかった。

 

それどころか、

 

「‥‥」

 

その背を抱けと、自分ではない誰かが命じるのだ。

抱きしめてやれと。

自分の中で、

わめき立てるように、

誰かが命じる。

 

それが自分の役目だと。

彼らを守り、救うのが自分の役目だと。

そして、

それこそが、

罪滅ぼしだと――

 

なんの?

 

なんの罪だというのか。

 

瞬間、

目の前が真っ赤に染まった。

 

赤い炎。

 

悲鳴。

怒号。

 

それは夢で何度も見た光景。

 

そして、

 

「人殺し!!」

 

――吹き上がる、赤。

 

 

――っ!?」

 

喉の奥から悲鳴が迸った。

は思わず、抱きしめていたその身体を引きはがし、大きく後ろへと飛んだ。

引きはがされた薫は驚きの眼差しでこちらを見ている。

「どうして?静姫姉さん?」

「ちがう‥‥わ、たしは‥‥」

違う。

は首を振った。

 

私は静姫じゃない。

 

いつの間にか、冷や汗が浮かんでいた。

身体も震えていた。

驚きの表情を浮かべる彼が、いや、景色が、歪んで見えた。

 

 

「うわぁあ!」

 

突然、屯所の中から悲鳴が上がった。

隊士の声だ。

 

「鬼だ!鬼が現れた!!」

 

声に、は顔を上げる。

即座に踵を返そうとしたが、

ずきん!!

「ぅあ!」

激しい痛みで足がもつれる。

「静姫姉さん!」

薫は叫んで駆け寄ってきた。

「っ‥‥」

それを、は刃を向けて止める。

来るな。

そう言うように。

 

ずきずきと頭痛がひどくなる。

立っているのさえ辛い、痛みが走る。

 

「静姫‥‥ねえさ‥‥」

「違う!」

 

惑わすような声に、悲鳴のような声で返す。

 

痛みは意識を奪うように。

そして同時に、の中の何かを呼び覚ますかのように続く。

 

違う違う違うと何度も口にして、はそれを押しとどめる。

弾けだしてしまいそうなそれに蓋をして、は己を繋ぎ止めるようにこう叫んだ。

 

「私の名は‥‥だ!」

 

痛みを振り切るようにして、は屯所へと引き返した。